第71話「やらないことリスト、翌日に破る」
売れた。
たった十二瓶の軟膏と、虫除け束が八つ。それでもダーヴォの「これは売れる」という言葉を聞いた瞬間、手が震えた。
***
その朝は冷え込んでいた。
中庭に荷馬車が停まっている。馬の鼻先から白い息が立ち昇り、冬の日差しに溶けていく。ダーヴォが荷台の端に腰をかけて、わたしの差し出した軟膏の瓶を手に取った。
蓋を開ける。傾ける。中身がゆっくりと動く。
「粘りはいい。色も均一だな」
浅黒い指が瓶の縁を撫でた。匂いを嗅ぐ。目尻の笑い皺が深くなる。
「お嬢さん、これは売れるよ。鍛冶場の連中が手荒れでぼやいてた。こいつを試させてみる」
「ありがとうございます。——次回もご期待に添えるよう努めます」
令嬢の声。平坦で、丁寧で、どこまでも当たり障りのない。内心では心臓が暴れている。十二瓶でヘトヘトになった人間がこの顔を保っているのだから、自分を褒めてやりたい。
「ただ、量が足りねえな」
ダーヴォが顎を撫でた。値踏みの目だ。商人の目。
「鍛冶場だけじゃない。木こりの連中も使いたがるだろう。二十瓶は欲しいところだ。虫除けも、もうちょっとあれば回せる」
二十瓶。今の倍。一日二瓶で十日。いや、虫除けも合わせたらもっとかかる。
「お嬢様の製品に市場の需要が発生したようです」
ロクスが横から補足した。いつもの穏やかな声。
——需要って言うと立派だけど、要は「もっと働け」でしょ。
「ダーヴォ殿、次回の訪問日程は」
「ひと月後だな。道がもうちょっと悪くなる前に、年内にもう一回は来たい」
ロクスが頷く。ダーヴォが荷台から銅貨を取り出した。布に包まれた、小さな塊。手のひらに乗せられると、予想より重くて冷たかった。
「銅貨二十枚。軟膏十二瓶と虫除け八束の分だ。値段はおれが街で聞いた相場から逆算してる。もうちょっと上がるかもしれねえが、初回はこれで勘弁してくれ」
銅貨二十枚。辺境ではそこそこの金額だ。パン一斤が銅貨一枚。二十日分のパンが買える。
「十分です」
声が少し掠れた。自分で作ったものが、お金になった。前の世界では給料という形でしか対価を受け取ったことがなかった。自分の手で練った軟膏が、銅貨二十枚になった。
ダーヴォの馬車が中庭を出ていく。車輪の音が砂利を踏んで遠ざかる。冬の風が頬を撫でた。冷たい。でも、手のひらの銅貨はじわりと温まり始めていた。
***
書斎に戻った。
ロクスがお茶を淹れてくれる。湯気が蝋燭の光に照らされて、ゆるく揺れる。銅貨を机の上に並べた。二十枚。小さな山になる。
——嬉しい。素直に嬉しい。
だけど。
「ロクス。ダーヴォさんは二十瓶って言ってた」
「はい」
「今の一日二瓶ペースだと、十日。虫除け束も増やすなら、もう数日。ひと月あれば間に合う計算だけど、答弁書の仕上げもあるし、監査官の準備もあるし」
「はい」
「仕事が増えた」
「はい。お嬢様の努力が実を結んだ結果です」
言い方。なんでそう、綺麗に包むのか。
実を結んだ結果、木にもっと水をやらなきゃいけなくなった。果実を摘んで、箱に詰めて、運ばなきゃいけなくなった。つまり仕事が増えた。嬉しいのに面倒くさい。面倒くさいのに嬉しい。この感情に名前はあるのだろうか。
お茶を一口飲む。温かい。舌の上で甘さがほどけて、少しだけ頭が冷える。
木板を取り出した。炭筆を握る。
「やらないことリストを作る」
「何ですか、それは」
「これ以上仕事を増やさないための壁。予防線。防波堤」
木板の表に大きく書いた。
やらないこと。
一、これ以上新しい商品を作らない。
二、夜中に試作品を作らない。
三、ミケ以外の生き物にも試させない。
四、ダーヴォの「もうちょっと」に安易に頷かない。
書き終えて、満足げに眺める。完璧だ。これさえ守れば、わたしの睡眠と精神は安泰だ。
「お嬢様」
「なに」
「リストの三番は、具体的にどのような事態を想定されていますか」
「ミケに軟膏を嗅がせたら嫌な顔された。次は鶏で試そうかと思ったけど、やめた。だからリストに入れた」
「賢明な判断です。鶏は感想を述べてくれませんので」
鶏に感想を求めようとしていた自分が恥ずかしい。
ロクスがお茶を注ぎ足した。湯気が揺れる。銅貨の山が蝋燭の光を受けて、鈍く光っている。
「今日はこれで終わり。明日から二十瓶作る。計画通りに。増やさない。絶対に」
「かしこまりました」
ロクスが小さく頭を下げた。その口元が、かすかに動いた。笑ってないはず。
***
翌朝。
自室の窓から差し込む光はまだ薄い。吐く息が白い。布団から出るのに勇気がいる季節になった。ミケが枕元で丸くなっている。大きな欠伸をした。
起き上がる。足が冷たい床に触れる。
昨日のやらないことリストを見た。木板は書斎に置いてきたが、内容は覚えている。一、これ以上新しい商品を作らない。二、夜中に試作品を作らない。三、ミケ以外の生き物にも試させない。四、「もうちょっと」に安易に頷かない。
完璧なリストだ。
台所に向かう。薄い光の中を歩きながら、頭の中で計算していた。
二十瓶を一日二瓶で十日。でも、品質にばらつきがある。六十八点の軟膏が七十点に上がるかもしれない。上がらないかもしれない。安定しない原因は、薬草の採取場所だろうか。それとも加熱の微妙な火加減か。
——もう五瓶だけ、試作してみよう。条件を変えて。加熱時間を少しずつずらして、どの条件が一番安定するか確かめるだけだ。新しい商品じゃない。品質改善だ。やらないことリストには抵触しない。
台所に着いた。竈に火を入れる。小鍋を出す。薬草を計量する。
——あれ。
手が止まった。
品質改善のために試作。条件を変えて五瓶。それは「これ以上仕事を増やさない」の精神に、限りなく近い場所で、限りなく抵触している。
リスト、持って一日。新記録だ。
ミケが台所の入り口から覗いている。あの大きな目で、静かに。
「見てないで」
小さく呟いて、薬草を鍋に入れた。
二十瓶作るのに何日かかるか、計算してみた。品質改善の試作五瓶を加えると、十日では済まない。答弁書の仕上げも、監査官の準備もある。
答えを見て、木板を裏返した。見なかったことにしたい。
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