第70話「もっと作れたはずだった」
三倍の量を作ろうとした。
材料は三倍、手順は同じ、時間は——足りると思った。
結果、台所には使い物にならない緑色の塊が三つ転がっている。
***
朝から張り切っていた。
訴状の件は一旦ロクスに任せて——任せたというか、「少々」の法律知識で答弁書の骨子を作ってもらっている間に、わたしは量産に取りかかることにした。六十八点の軟膏を五十個作るのに二十五日かかる。それでは遅い。ダーヴォの次の来訪に間に合わない。
だから、三倍。一度に三瓶分を作れば、時間は三分の一になる。
「三倍作る。効率化よ」
「お嬢様が効率を優先されるのは大変珍しいですね。通常は質を重視されますのに」
「嫌味を言うな。質を落とすつもりはない。量を増やすだけ」
台所に立つ。いつもの小さな鍋ではなく、ヨルダの煮込み用の大鍋を借りた。ヨルダは「戻す時はちゃんと洗ってくださいよ」と釘を刺して、台所の端に退避した。
薬草を三倍量、計量する。水も三倍。竈に大鍋をかけて、火をつける。
ここまでは順調だった。
問題は、火を入れてから始まった。
小さな鍋なら、全体に均一に熱が伝わる。底から側面まで、薬草が同じ温度で煮える。でも大鍋は——違う。底の真ん中は熱いが、縁に近い部分はぬるい。薬草が場所によって違う速度で煮詰まっていく。
「色がおかしい」
鍋の中央は褐色に変わりかけているのに、縁のあたりはまだ濃い緑のまま。木のへらでかき混ぜても、温度差は縮まらない。
火を強くした。中央が一気に茶色くなる。慌てて火を弱める。今度は縁が固まりかけた。
——工程を一つ、省いた。
冷まし工程。通常は中間で一度火を止めて、粗熱を取ってから再加熱する。この工程を省けば三十分短縮できる。いけるはずだった。小さな鍋の時は、省いても品質に大差はなかった。
大鍋では違った。中間冷却なしで加熱を続けたせいで、鍋底に成分が焦げつき、上層は生煮えのまま固まった。
時間がない。量を増やさないと。工程を一つ省いてもいけるはず——いけた。たぶん。
……いけてない。
鍋の中身をへらで持ち上げた。暗い緑色の、硬い塊。軟膏ではない。何だこれは。壁材か。
「全滅」
三瓶分の材料。三瓶分の薬草。三瓶分の時間。全部、緑の塊になった。
***
台所の片付けをしながら、失敗の原因を一つずつ潰していく。
大鍋の底から塊を剥がす。硬い。指で割ると、中まで均一に焦げているわけではなく、外側だけが固まって中は生煮えの泥状だった。鍋のふちにこびりついた残りからは、焦げた薬草の苦い匂いがする。前回の六十八点の軟膏とは全く違う匂い。
「量が変わると条件が変わる、ということですね」
ロクスが書斎から台所に来ていた。塊の一つを手に取って、断面を確認している。白手袋が緑色に汚れるのを気にしていない。
「小さな鍋では均一に加熱されていた。大鍋では、加熱ムラが生じる。冷まし工程を省いたことで、温度差がさらに広がった」
「わかってる。わかってるけど、三倍量を小鍋で三回やったら結局同じ時間がかかる」
「はい。しかし品質は保たれます」
悔しい。わかっているから悔しい。
書斎に戻った。木板を出して、失敗の原因を書き出す。
一、大鍋による加熱ムラ。
二、中間冷却工程の省略。
三、湿度。冬の乾燥した空気が、鍋の表面から水分を奪っていた。小鍋なら蓋で対処できるが、大鍋は蓋が合わなかった。
三つの原因。どれか一つだけなら、なんとかなったかもしれない。三つ重なったから全滅した。
工場みたいに生産ラインを組めれば——いや、ここにあるのは鍋と竈と薪だけだ。
ロクスが緑の塊を机の端に置いた。白手袋の汚れを気にする様子もなく、一拍おいてから口を開いた。
「次は二倍から始めてはいかがでしょう。三歩目で転ぶ方は、まず一歩目を確認するものです」
「転んでないし。滑っただけ」
「台所に転がっている三つの塊は、滑った結果にしては大変な量ですが」
反論できない。
***
夕方の書斎。蝋燭が短くなっている。今日一日の光が、ゆっくりと燃え尽きていく。
木板に新しい工程表を書いた。
小鍋で一瓶ずつ作る。冷まし工程を省略しない。一日に作れるのは二瓶が限界。五十瓶なら二十五日。
二十五日。最初の計算と同じだ。効率化しようとして失敗して、結局振り出しに戻った。
「……面倒くさ」
声に出した。天井を見上げる。書斎の天井は木組みで、冬の乾燥で木目がくっきり浮き出ている。
「ただし、工程に慣れれば一日三瓶まで増やせる可能性はございます」
「根拠は?」
「お嬢様が七回の失敗で八回目に成功されたのと同じ理屈です。反復で手が覚えます」
反復。手が覚える。工場の生産ラインみたいに、同じ動作を繰り返して精度を上げる。前の世界では機械がやっていたことを、わたしの手でやる。
急がば回れ。
木板の隅にその言葉を書いた。前の世界の誰かが言った言葉が、こんなに重いとは思わなかった。
六十八点の軟膏。一瓶四時間。一日二瓶。二十五日。
数字だけ見ると気が遠くなる。でも、一瓶ずつ作るしかない。工程を省いたら、今日と同じ緑の塊が量産されるだけだ。
「お嬢様」
「なに」
「大鍋は洗って返しておきます。ヨルダ殿が確認されましたら、お嬢様の信用に関わりますので」
「……ありがとう」
信用。台所の信用すら危うい人間が、品質で勝負しようとしている。笑えない。いや、少し笑える。
明日から、一瓶ずつ。地味に。確実に。
三倍を夢見た一日が終わる。蝋燭の芯が最後に一度明るく燃えて、消えた。
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