第69話「訴状は紙切れ一枚」
使者が持ってきた書面は、上質な紙に黒いインクで書かれていた。
封蝋は赤。ガレド商会のものではない。王都の商業裁判所の紋章だ。
——来た。
***
使者は朝一番にやって来た。玄関の扉が開いた途端、冬の冷気が廊下まで流れ込んだ。若い男は革の鞄から一通の書面を取り出すと、わたしに差し出した。
「カルセド領主代行、ミレイア・カルセド殿へ。王都商業裁判所からの正式な通達をお届けいたします」
令嬢モード、起動。
「ご苦労さまです。長旅でしたでしょう。お茶でもお出ししましょうか」
内心——殴りたい。この書面を書いた奴を。使者に罪はないけれど、赤い封蝋を見た瞬間に胃の底がきゅっと縮んだ。
「いえ、次の届け先がございますので。お受け取りの署名をお願いいたします」
署名して、使者を送り出した。玄関の扉が閉まった瞬間、令嬢モードの顔がぺりっと剥がれた。
「ロクス」
「はい」
「読むよ」
封蝋を割った。赤い欠片が指先からぱらぱらと落ちて、玄関の石畳に散る。紙を開く。上質な紙の手触りが、妙に腹立たしい。辺境の羊皮紙とは違う、滑らかで真っ白な紙。王都はこういうところにも金をかける。
文面を目で追う。
追って——止まった。
「……何これ。半分も読めない」
法律用語が並んでいる。「通商権の不当行使」「契約上の既得優先権の侵害」「独自交易活動の即時停止を求める件」。一つ一つの言葉は辛うじてわかるが、文の構造が入れ子になっていて、どこが主語でどこが述語なのか見失う。
「書斎に参りましょう。分解してお読みします」
***
書斎の机に書面を広げた。ロクスが横に立ち、一文ずつ指でなぞりながら要点を整理する。
「まず、訴状の主旨は三点です。第一に、カルセド領が独自に交易路を開拓し、ガレド商会の既得権を侵害していること」
「交易路って、ダーヴォさんに来てもらっただけなのに」
「第二に、通行税の例外条項を恣意的に解釈し、正当な通行税収入を妨害していること」
「恣意的って何よ。契約書に書いてあるとおりに読んだだけでしょ」
「第三に、北部山林の薬草に関する優先権を迂回する形で南部での採取活動を行い、契約の趣旨に反する行為であること」
三つ目で、手が止まった。
「……南の森の採取まで問題にしてるの?」
「契約の文面上は対象外です。ただしガレド商会は『契約の趣旨』に反すると主張しています。文面と趣旨の争いです」
頭の中で、未来が一瞬だけ走った。
訴訟に負けたら。交易路閉鎖。行商人が来なくなる。塩が来ない。小麦が来ない。ヨルダの台所が空になる。ニロが黙る。ハウゼが——ハウゼに何て言えばいい。「やっぱりだめでした」? あの人が腕を組み直す姿が目に浮かぶ。
だめだ、考えるのやめ。
「お嬢様」
ロクスの声で、思考が止まった。書斎の空気が張りつめている。窓の外は灰色の冬空。蝋燭はまだ灯していないが、冬の昼でも書斎は薄暗い。
「まだ負けておりません」
「うん」
「この訴状には弱点が三つほどございます。ただし見つけるのにはお時間がかかるかと」
「弱点あるの? 先に言って」
「先に申し上げると、探す楽しみがなくなりますので」
「楽しみって言うな。胃が痛いんだから」
ロクスの口元がかすかに動いた。笑ってはいない。でも、この人なりの「落ち着け」の合図だ。わたしが焦りすぎている時、ロクスは必ず——わざと余裕を見せる。本当に余裕があるのかどうかは、聞かない。
***
蝋燭を灯した。冬の日はとっくに傾いていて、書斎は蝋燭の橙色の光だけで照らされている。
訴状を三回読み直した。法律用語を一つずつ分解して、木板に書き出す。
一つ目の主張——独自交易路の開拓。
事実。ダーヴォは来た。でも、独自の交易路を「開拓」したのではなく、既存の道を「修復」して行商人が通れるようにしただけだ。新しい道を作ったわけじゃない。
二つ目——通行税の恣意的解釈。
事実。例外条項は契約書に明記されている。わたしが見つけただけで、書いたのは父とガレドだ。自分たちで書いた例外条項を恣意的と言うのは——ちょっとおかしくない?
三つ目——南の森での採取が契約の趣旨に反する。
ここが一番難しい。契約の「文面」では南は対象外。でも「趣旨」を持ち出されると、話が変わる。趣旨って何だ。契約の趣旨とは——契約を結んだ目的。ガレドが北の山林の優先権を得た目的は、薬草で利益を上げること。南で採取すれば、結果的にガレドの利益を減らすことになる。だから趣旨に反する、と。
「……理屈はわかる。でも、それって契約に書いてないことを後から言ってるだけじゃない?」
「はい。そこが弱点の一つです」
ロクスがさらりと言った。さっき「探す楽しみ」とか言っていたくせに、結局教えてくれるのか。
「契約は文面が全てです。趣旨解釈は、文面に曖昧さがある場合に限り認められます。この契約の文面は明確に『北部山林地帯ニ限リ』と書かれています」
「つまり、曖昧じゃないから趣旨解釈は通らない?」
「通らない可能性が高い。ただし、裁判所の判断次第です」
木板に書き出す。炭筆の先が折れて、新しく削り直した。指先が炭で黒くなる。
事実はある。証拠もある。契約書という、ガレドが自分で結んだ文書が証拠だ。
足りないのは、それを法律の言葉にする力。
答弁書というものを書かなければならないらしい。裁判所に対して、「わたしはこう反論します」という文書。でも、辺境には弁護士がいない。法律の本もない。わたしの法律の知識は、前の世界でニュース番組を眺めていた程度のものだ。
「事実で殴る」
木板に書いた。品質で殴る、に続いて殴る系二回目。わたしの語彙が暴力的な方向に偏ってきている気がするが、気にしない。
「ロクス、あんた昔、法律の本も読んだことある?」
ロクスが一瞬、白手袋を引き直した。
「——少々」
少々。
この人の「少々」は信用してもいいんだろうか。「少々」が「専門家並み」の場合と、本当に「少々」の場合がある。どちらかは——まあ、やりながらわかるだろう。
蝋燭の炎が揺れた。書斎に夜が降りてきている。窓の外は完全に暗い。
訴状は紙切れ一枚。でも、その一枚がわたしの積み上げたもの全部を壊しかねない。
壊させない。事実で、契約で、殴り返す。
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