第68話「あの顔は、怒ってるんじゃない」
森に入る前と出た後で、ロクスの顔が違っていた。
何が違うかはうまく言えない。ただ、眉の角度がほんの少し——いや、やめよう。
わたしは気にしない。気にしないと決めたんだから。
***
その日は南の森の奥まで採りに行く予定だった。
六十八点の軟膏を七十点に上げるために、もう少し品質のいい薬草が欲しい。グリムさんが「南の奥は日当たりが独特で、葉の成分が変わるかもしれん」と言っていた。確かめに行く価値はある。
森に入ると、冬の空気が一段と冷たくなった。木々の枝は半分以上が葉を落としていて、灰色の幹の間を冷たい風が通り抜ける。足元の落ち葉が霜で白く縁取られていた。踏むたびにぱりぱりと乾いた音がする。
「この先、少し地形が変わります」
ロクスが足を止めた。確かに、道が緩やかに傾斜を帯びてきている。南の森の奥は、小さな谷に向かって地面が下っていく。
「大丈夫、注意して歩くから」
薬草の群生地は、斜面の途中にあった。谷に向かって張り出した岩棚のすぐ下に、日当たりのいい空間がある。そこに広葉草が密集して生えていた。
「ここ、いい」
しゃがみこんで葉を確認する。グリムさんの言うとおり、日当たりの加減か、葉の裏の色がいつもより濃い。産毛も丁度いい。これなら品質が上がるかもしれない。
夢中で葉を摘んでいた。指先が冷たいのも忘れて、一枚一枚、状態のいいものを選り分ける。
足元の土が、ずるりと動いた。
地面が傾いた。いや、違う。地面が崩れた。
岩棚の縁の土が、わたしの体重を支えきれなくなって、ぼろぼろと谷の方へ滑り落ちていく。足がかりが消える。体が前のめりに傾く。視界が一瞬、灰色の谷底を映した。
腕を掴まれた。
衝撃。引き戻される力が、肩を軋ませた。片手で、わたしの体ごと引っ張り上げる力。握られた腕に、白手袋越しの指が食い込んでいる。痛いほどの握力だった。
足元が安定した地面に戻る。心臓が暴れている。呼吸が浅い。冷や汗が首筋を伝った。
「——大丈夫ですか」
ロクスの声は静かだった。でも、静かすぎた。
顔を上げると、琥珀色の瞳がまっすぐこちらを見ている。その瞳の奥が——一瞬だけ、金色に光った気がした。
気のせいだ。冬の木漏れ日が、目に入っただけだ。
「……びっくりした」
声が震えた。情けない。崖から落ちかけただけだ。
「お嬢様の冒険心は領地経営に留まらないようで」
「崖から落ちかけただけだから。冒険って言わないで」
ロクスの手がまだわたしの腕を掴んでいる。離してくれない。数秒経って、ようやく指の力が緩んだ。
腕を見る。白手袋の指の跡が、布越しに赤く残っていた。
——あの反応速度、おかしくない?
足が滑った瞬間から、腕を掴まれるまで、一秒もなかった。しかも片手で、わたしの体ごと引き戻す力。普通の執事にはできない。そもそも、わたしのすぐ後ろに立っていたはずなのに、いつの間に腕の届く位置まで来ていたのか。
聞かない。聞かないと決めた。
***
帰り道は、二人とも口数が少なかった。
森を出る手前で、木々の隙間から差していた弱い日差しが途切れた。曇天の灰色の光だけが、冬の森を照らしている。二人分の足音が、霜の降りた落ち葉を踏む音だけが響く。
ロクスが白手袋を引き直した。右手。さっき掴んだのは左手だったから、右手を直す理由はない。でも引き直した。何度目かは数えていないが、最近この仕草が増えている。
横顔を見る。眉の角度が、森に入る前と違う。唇が薄く引き結ばれている。目が少しだけ細められている。
怒ってるのかと思った。最初はそう見えた。でも、違う。
前の世界で、あんな顔をする人はいなかった。
崖から落ちかけても、転んでも、誰かがあんな顔で——心配? そう、心配。心配してくれることは、なかった。自分で起き上がって、自分で埃を払って、誰にも言わずに帰る。それが普通だった。
ロクスの横顔を見ていると、なんと呼べばいいのか分からない何かが動く。ありがたいとか、嬉しいとか、そういう単純な言葉では片付かない。もっとずっと複雑で、もっとずっと——言葉にしたくない何か。
「ロクス」
「はい」
「ありがとう」
何に対してのありがとうなのか、自分でもよくわからない。崖で掴んでくれたこと。帰り道を一緒に歩いてくれていること。この表情をしてくれていること。全部かもしれないし、どれでもないかもしれない。
「お務めです」
ロクスはそれだけ言って、また前を向いた。声のトーンがほんの少しだけ、低かった。
***
屋敷の玄関を開けると、ミケが廊下の奥にいた。
三毛の体がぴたりと動きを止めて、こちらを——正確にはロクスを、じっと見ている。毛は逆立っていない。でも、動かない。丸い目を大きく開いて、ロクスの足元から顔まで、ゆっくりと視線を動かしている。
「やあ、毛玉殿。留守番ご苦労」
ロクスが声をかけた。穏やかな声。でもミケは動かない。尻尾も振らない。ただ、見ている。
いつからだろう。ミケがロクスに対してこういう態度を取るようになったのは。最初から懐いてはいなかったけれど、最近は——監視しているような目をする。何かを確かめるような、判断を留保しているような。
気にしない。わたしは気にしないと決めた。
「ミケ、おいで」
しゃがんで手を差し出すと、ミケは二歩、三歩と近づいてきて、わたしの手のひらに額を押しつけた。温かい。ふくよかな体の丸みが、手のひらに収まる。
抱き上げた。ミケが小さく鳴いた。
「帰ろ」
自室に向かう。背中にロクスの視線を感じた気がしたけれど、振り返らなかった。
ミケを膝に乗せて、今日のことを振り返る。
あの反応速度。あの握力。あの瞳の色。
聞くか、聞かないか。
——聞かない。わたしは、聞かないと決めた。
ミケが鳴いた。同意ではなさそうだった。
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