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辺境令嬢と、退屈知らずの執事  作者: 猫野ひかる
第3章「隣人は選べない」

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第60話「面白い、か」

 白手袋を外す。


 右手の甲に、鱗がある。


 五本の指先から手の甲へ。前よりも広がっている。指の付け根を越えて、手の甲の全面を覆い始めていた。淡い灰銀色の鱗。一枚一枚が小指の爪ほどの大きさで、月明かりの下でわずかに光を返す。


 三度目だ。


 ——頻度が、上がっている。


***


 ロクスは窓辺の椅子に座っていた。


 自室は狭い。執事として与えられた部屋だ。寝台と机と椅子。棚に数冊の本。それだけの部屋。窓は一つ。北向き。月の光がまっすぐに差し込んでいる。屋敷の古い柱が、夜の冷気に軋む音がどこか遠くで鳴った。


 右手を月明かりにかざした。


 鱗の表面は硬い。指で触れると、人の肌とは違う感触が返ってくる。乾いた、滑らかな硬さ。爪で引っ掻いても傷はつかない。爪の方が負ける。


 一度目は、水路で力を使ったとき。指先に二枚。


 二度目は、屋根を押さえたとき。五本の指全てと、手の甲の端に二枚。


 三度目は、崖を止めたとき。手の甲の全面。


 人の形が崩れていく。使うたびに、鱗が増える。戻らない。消えない。白手袋の内側に硬い凹凸が当たる。前よりも大きい。前よりも広い。


 手袋を嵌め直した。指先を一本ずつ押し込む。布の下で鱗がこすれる。僅かな摩擦音。人には聞こえない。自分にだけ聞こえる音。


 まだ、問題はない。手の甲までなら、手袋で隠せる。袖口を引けば、誰にも見えない。


 まだ戻れる。今は。


 「まだ」という言葉が、以前より重くなっていることに気づいている。


***


 今日を思い返す。


 台所の入口で、ヨルダが塩の袋を開けた。ダーヴォの荷から下ろした袋。粗い布の口を解いて、指でひとつまみ取り出した瞬間、ヨルダの目が潤んだ。


 ただ塩をつまんで舐めた。それだけのことだ。しょっぱい顔をした。当たり前だ、塩なのだから。


 だが、しょっぱい顔のまま、唇の端が上がっていた。


 ミレイアも見ていた。ロクスの斜め後ろから、塩の袋を抱えて。少し目が熱くなっていた。「塩だよ」と言った。「塩ですよ」とヨルダが返した。「聞こえてるよ」とミレイアが笑った。当たり前のことを確認して、笑った。


 今夜、廊下を通ったとき、ミレイアの部屋から声が聞こえた。扉越しに。低い声。ミケに話しかける声。


 ——今日は勝ったよ。ちょっとだけ。


 勝った、と言った。「ちょっとだけ」と付け足した。大げさに言わない。でも確認する。猫に報告するくらいには、自分でちゃんと確認した。


***


 窓の外を見た。


 中庭を挟んだ向こう、屋敷の裏手はもう暗い。今日、ミレイアが立っていた場所。ダーヴォに案内していた場所。


 普通の少女に見える。


 十五歳の、少し手が荒れた、おっちょこちょいの令嬢。だが、どこにでもはいない。辺境の小さな領地で、「ちょっとだけ勝った」を猫に報告する令嬢は、どこにでもはいない。


 だが、それだけなら「変わった令嬢」で済む。


 問題は、それだけではないということだ。


 あの子は祠を「知っていた」。


 下流の集落の裏手にある古い祠。石段は十三段。三段目が欠けている。セラが「子供の頃に遊んだ場所だ」と言った時、ミレイアが「十三段ですわ」と即答した。その答え方は違った。覚えていたから答えたのではなく、体が答えを出してしまった。記憶を探す目ではなく、記憶に驚く目だった。


 焼き菓子の名前もそうだった。


 以前、居間で母が持参した菓子を見て、ミレイアが名前を言った。あのとき、ミレイアは名前を「思い出した」のではなく「知っていた」。知っているはずのないものを知っていた。


 偶然にしては、二度目だ。


 元の令嬢の記憶が残っている。それだけのことかもしれない。体が覚えていることはある。指が覚えている。足が覚えている。人間の体は、意識よりも長い記憶を持つ。


 だが、ロクスには別の疑問がある。


 元の令嬢と、今のミレイアは、同じ人間なのか。


 あの日から変わった。半年前。十五の誕生日の朝。目を覚ましたミレイアが、初めてロクスを見て、目を丸くした。見知らぬ人間を見るような目で。


 面白い子だと思った。退屈な辺境に、変化が生まれた。それは本当だ。


***


 部屋の隅で、気配がした。


 振り返ると、ミケがいた。扉の隙間から入り込んだのだろう。部屋の隅、棚の影にうずくまっている。金色の目がこちらを見ている。


 ミケの毛は逆立っていなかった。だが、体は緊張している。低い姿勢。耳はまっすぐに立っている。


「毛玉殿。相変わらず怖い顔をしておいでですね」


 ミケは動かない。


 この猫は、最初からロクスを警戒していた。他の人間には懐く。ミレイアの膝の上で眠る。だがロクスには近づかない。今夜は——「今日は勝ったよ」とミレイアが言ったあと、ここに来た。


 監視か。報告か。


 ミケがゆっくりと立ち上がった。尻尾を低くして、扉の隙間から出ていった。床板がかすかに鳴って、廊下を遠ざかる爪の音が消えた。見終わったから帰ったのだ。おそらくミレイアの部屋へ。あの子の膝の上が、あの猫の定位置だ。


***


 右手に意識を戻す。


 手袋の下で鱗が当たる。硬い感触。人の指ではない感触。


 力を使わなければ、鱗は増えない。使わなければ。


 だが、崖が崩れかけたとき。あの子の——ミレイアの進む道が閉ざされそうになったとき。


 使わないという選択ができなかった。


 なぜだ。


 面白いからだ。面白い子だから、もう少し見ていたい——と、今朝までそう答えていた。


「面白い、か」


 呟いた。


 声は部屋の壁に吸い込まれて消えた。


 今日、ヨルダが塩に涙をにじませるのを見た。ミレイアが「今日は勝ったよ、ちょっとだけ」と猫に言うのを聞いた。


 面白い子だ。それは変わらない。


 だが「面白い」という言葉が、今夜は少し手狭に感じる。それが何かは、まだ答えない。


 月明かりが窓から差している。右手の手袋が白く浮かんでいる。その下に、人ではないものがある。


 ミレイアの笑い声はもう聞こえない。屋敷は静かだ。


 三度目。次は、もっと広がるだろう。


 それでも、使うだろう。あの子の道が閉ざされそうになれば。


 なぜかは、まだ答えない。

お読みいただきありがとうございました!


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