第58話「別に感謝してるわけじゃ——いや、してる」
「だったら、ガレドを通さなくていい仕組みを作る」
朝の屋敷で、わたしは宣言した。
ロクスが「ほう」と言った。いい「ほう」だ。面白がっている方の「ほう」だ。目の奥がかすかに光っている。この人は他人の無謀を楽しむ趣味がある。
***
カルセド領の道。崖崩れの手前。ここから下流への区間が一番状態が悪い。ぬかるんだ地面。わだちの跡に水が溜まっている。馬車を通すには、まず水を逃がさなければならない。
「道を直す。手伝って」
「お嬢様が領民に公共事業をご命じになると。これは歴史的な一日ですね」
「大げさ。穴を埋めるだけ」
「穴を埋めるだけ、と仰いますが。わたくしの見立てでは、穴は二十三箇所ほどございます」
「数えたの?」
「昨夜、偵察の際に」
昨夜。崖を止めたあの夜のことを、偵察と呼ぶ。ロクスの語彙にはときどきついていけない。
ニロが来た。下流の方から、走って。
「お嬢様、道直すって聞いたっす。手伝う」
「ニロ。ありがとう」
「別に。暇だったし」
暇じゃないだろう。朝から畑の仕事があるはずだ。でも、言わない。来てくれたことが嬉しい。
ニロの後ろから、下流の若者が二人。水路見学に来たことのある顔だ。
「面白そうだから来ました」
「面白くはないよ。泥と石の運搬だよ」
「でも、嬢さんがやるんでしょ。令嬢が泥まみれになるのは見たい」
見世物じゃないんだが。
カルセド領の古参の村人たちは、遠くから腕を組んで見ていた。「よそ者がまた何か始めた」という顔だ。参加する気はない。でも、気にはなるらしい。
「皆様のお力をお借りできれば幸いですわ」
令嬢モードで声をかけた。古参の老人が一人、鼻を鳴らした。
——誰がこんな汚い仕事を令嬢にやらせるんだ。わたしだ。わたしが自分にやらせている。
トーバが杖をついて現れた。
「見に来ただけだよ。手は出さないからね」
「トーバさん。ありがとうございます」
「感謝されるようなことはしてないよ。座ってるだけだから」
トーバが道端の石に腰を下ろした。眼は鋭い。全体を見渡している。見に来ただけと言いながら、監督する気だ。
***
作業が始まった。
まず排水溝を掘る。これが基本だ。前の世界で読んだ本に書いてあった。道を作るとき、一番大事なのは水を逃がすこと。水が溜まる道は必ず壊れる。
「道の両脇に溝を掘って。幅はこのくらい。深さは膝の半分くらい」
炭筆で木板に描いた断面図を見せた。ニロが「はあ」と首をかしげた。下流の若者が「溝?」と聞いた。
「水を逃がすの。雨が降ったとき、道に水が溜まるでしょ。溝があれば水が横に流れる。道がぬかるまない」
「なるほど」と言ったのはロクスだった。なるほどじゃない。あんたは説明されなくてもわかってるでしょ。
鍬を握った。泥を掘る。鍬の刃が土に食い込んで、ずしりと重い手応えが返ってくる。固い。長雨のあとで表面は柔らかいが、少し下は粘土質の土だ。腕が痛い。手が泥で真っ黒になった。
ニロが隣で黙々と掘っている。口下手だが手は速い。下流の若者も、最初こそ文句を言っていたが、掘り始めたら黙った。体を動かすと文句が出なくなる。
排水溝に水が流れ始めた。溜まっていた水が溝を伝って横に逃げていく。その音を聞いた瞬間、ニロが「お」と声を上げた。
「流れた」
「流れたね」
「すげえ」
すごくない。排水溝を掘っただけだ。でも、水が流れる音は気持ちいい。成果が目に見える。
石を並べる作業に移った。排水溝の内側に、拳大の石を敷き詰める。石の上に砂利を撒いて踏み固める。この順序が大事だ。石だけだと安定しない。砂利が間を埋めて、荷重を分散する。
まさか自分が実践することになるとは。本で読んだときは「面白いなあ」と思っただけだったのに。
「この道が完成した暁には、お嬢様のお仕事が四つほど増えます」
ロクスが石を運びながら言った。白手袋で石を掴んでいる。手袋が灰色になっている。
「今は聞きたくない」
「承知しました。では完成後にお伝えします」
「完成後も聞きたくない」
古参の村人が、いつの間にか近づいていた。作業を遠くから見ていたはずなのに、気づいたら三人が道端に立っている。
「……手伝うとは言わんが。石はあっちの河原にもっとあるぞ」
古参のおじいさんが、ぶっきらぼうに言った。
「ありがとうございます」
「感謝はいらん。石の場所を教えただけだ」
石の場所を教えてくれること自体がありがたい。でも、言わない。この人たちは、感謝されると照れて帰ってしまうから。
昼過ぎ。河原から石を運んでいるとき、下流の若者と古参の老人が並んで歩いていた。石を担いで。どちらも無言だったが、息が合っている。重い石を二人で持ち上げるとき、タイミングが合った。アイコンタクト一つで。
誰かの笑い声がした。ニロだった。泥だらけの顔で笑っている。
「嬢さんの顔、すごいことになってるっす」
「あんたもね」
「お互い様っすね」
汗を拭った。額に泥がついた。もう気にならない。全員泥だらけだ。令嬢もへったくれもない。
ハウゼがいつ来たのか、わからない。
気づいたら、道端に立っていた。腕を組んで。いつもの仏頂面で。何も言わずに、道の状態を見ている。
声をかけようとした。「ハウゼさん」と。
ハウゼは声をかけられる前に動いた。一番大きな石の前にしゃがんで、両手で持ち上げた。骨ばった手。日焼けした腕の筋が浮き上がる。
誰よりも重い石を、黙って運んだ。
***
夕暮れ。
道が、少しだけ広くなっている。排水溝が両脇にある。石を敷き詰めた路面は、さっきまでのぬかるみとは別物だ。完璧ではない。でこぼこは残っている。勾配の計算も甘い。でも、水は溜まらない。
道の状態。採点する。
三十点だったのが、六十点になった。倍だ。でもまだ及第点じゃない。ダーヴォの基準は七十点。あと十点。
「まあ、馬車は通れるだろう」
ハウゼが言った。道を見ている。腕は組んでいない。両手が膝の上にある。座っている。石の上に。みんなと同じように疲れた顔をして。
「ハウゼさん」
「何だ」
「別に感謝してるわけじゃ——」
止まった。嘘だ。感謝している。ものすごく感謝している。ハウゼが一番重い石を運んでくれたこと。何も言わずに来てくれたこと。
「いや、してる。ちょっとだけ。ハウゼさんが一番重い石運んでくれたから。ちょっとだけ」
ハウゼの眉が動いた。口の端がわずかに上がった。笑ったのかもしれない。ハウゼの笑顔を見たことがないので確信が持てない。
「嬢さん」
「はい」
「次は、見せろよ。もっと先を」
初めてだった。ハウゼが「次」を口にしたのは。今までは「考える」「急かすな」「貸しだからな」。過去と現在の話ばかりだった。
「次」は、未来の話だ。
みんなが帰っていく。下流の若者が手を振った。ニロが「またやるっすか」と聞いた。古参のおじいさんが黙って頷いた。トーバが杖をついて立ち上がり、「まあまあだね」と言った。最大限の褒め言葉だと思う。
夕暮れの道が、少しだけ広くなっている。
「ロクス。ダーヴォに連絡して。道ができた、って」
「承知しました。——お嬢様。この道、六十点だそうですが」
「六十点でいい。完璧を待ってたら何も始まらない」
ロクスが微笑んだ。いつもの涼しい微笑みだが、目の奥に何かある。面白がっているのとは少し違う。何だろう。
夕日が道を照らしている。石の表面が赤く光っている。排水溝に溜まった水に空が映っている。オレンジ色の空。
初めて、自分の言葉が少しだけ好きになった。
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