表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
辺境令嬢と、退屈知らずの執事  作者: 猫野ひかる
第3章「隣人は選べない」

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
57/74

第57話「崖は、不自然に止まっていた」

 朝、雨が止んでいた。


 目を開けた瞬間、静かだと思った。三日間鳴り続けた雨音がない。代わりに、軒先から残った雫が落ちる音だけが、ぽたり、ぽたりと間遠に響いている。窓から薄い光が差し込んでいる。灰色ではない光。


 昨夜の地鳴りを思い出して、体が強張った。


***


 村の外に出た。


 下流へ続く道を辿り、二番目の曲がり角を過ぎたとき、息が止まった。


 崖が、崩れている。


 半分だけ。


 斜面の上部から土と岩が崩落している。道を塞ぐはずだった。もう少しで完全に道を埋めるところだった。崩れた土砂が道の半分を覆い、むき出しの地層が朝の空気に晒されている。赤茶けた土の断面。灰色の岩。水がしみ出して、ぽたぽたと音を立てている。


 だが、残りの半分が——止まっていた。


 不自然に。


 崩れかけた岩が、途中で動きを止めていた。何かに支えられているように。物理的に説明がつかない角度で、土砂の壁が斜面にとどまっている。雨で緩んだ地面の上に、崩れるべき重量の岩が乗っているのに、落ちてこない。


 朝霧が崖の断面に絡みついている。冷たい空気が鼻の奥にしみる。土の匂い。湿った岩の匂い。長雨のあとの、大地が割れたような匂い。


 道は、辛うじて通れた。片側が土砂で塞がれているが、もう片側は残っている。人が一人通れるくらいの幅。馬車は無理だが、歩きなら通れる。


 先に来ていた村人が二人、崖の前に立っていた。腕を組んで、首をかしげている。


「おかしいだろ。この雨のあとで、ここだけ止まってるんだ」


「下の方は崩れてるのに。途中から、まるで壁でも立ったみたいに」


 村人たちが振り返って、わたしに気づいた。


「嬢さん。見たか、これ。どうして止まってるんだ?」


 答えられなかった。答える代わりに、崩れた斜面をもう一度見た。


 崖の上部。土砂が止まっている境界線。そこに、何か跡があった。岩の表面が、ほんのわずかに滑らかになっている。爪で引っ掻いたような——いや、違う。何か硬いもので押さえたような、磨かれたような跡。


 ——ロクス?


 口には出さなかった。


***


 屋敷に戻ったのは昼前だった。


 玄関の扉を開けると、ロクスが立っていた。いつもの場所に。いつもの姿勢で。黒の執事服。白手袋。背筋が真っ直ぐ。


「おかえりなさいませ、お嬢様。朝食のご用意が」


「あんたが言うの? おかえりなさいって。こっちの台詞でしょ」


 声が上擦った。嬉しいのか怒っているのかわからない。両方だ。


「ただいま戻りました」


 普段通りの声だった。疲れた様子もない。顔色も悪くない。ただ、靴が泥だらけだった。裾にも土がついている。外套は脱いでいたが、袖口が汚れていた。


 白手袋を引き直す仕草が見えた。右手。手袋の指先をつまんで、きゅっと引き直す。何気ない動作のように見せているが、ここ最近、この仕草が増えている。


「おかえりなさい。ご無事で何よりですわ」


 令嬢モードが出た。安堵が過ぎると丁寧語が出る。


 ——あんた何したの。聞かないけど。聞かないけど。


「道の状態を確認して参りました。崖崩れがございましたが、幸い、道は辛うじて通行可能です」


「幸い、ね」


「はい。幸運でしたね」


 幸運。


 あんたの靴が泥だらけなのは何だ。袖口が汚れているのは何だ。白手袋を引き直したのは何だ。「幸運」って言うな。


「……お疲れ様」


 それだけ言った。追及しなかった。できなかった。


 ロクスの琥珀色の瞳が一瞬だけ深く光った気がした。朝の光のせいかもしれない。いつもより濃い琥珀色。金に近い色。すぐに元に戻った。


「お嬢様。朝食の前に、お着替えを。泥がついていらっしゃいます」


「あんたの方が泥だらけでしょ」


「わたくしのことはお気になさらず」


 気にする。気にするけど、言わない。


***


 廊下を歩いていたら、ミケが部屋の隅にいた。


 いつもなら窓の桟の上か、わたしの足元に来る。でも今日は違った。廊下の端、壁際の棚の陰にうずくまっている。丸い体が小さく見えるくらい、身を縮めていた。


 ロクスが廊下の向こうから歩いてきた。


 ミケの耳が伏せた。


 わたしはミケを抱き上げた。柔らかい体。温かい。でも、ロクスの方へ一歩踏み出した途端、ミケが身をよじった。腕の中で暴れて、爪が服に引っかかった。


「ミケ。どうしたの」


 ミケはわたしの腕から飛び降りた。ロクスとは反対方向に走って、部屋の隅に消えた。


 ロクスの顔を見た。表情は変わっていない。涼しい顔。いつも通りの執事の顔。


 でも、一瞬だけ、右手が動いた。白手袋の指先に触れて、すぐに手を背中で組んだ。


「毛玉殿は、本日もご機嫌が優れないようですね」


「最近ずっとそうなの。ロクスの前だと」


 言ってしまった。言わなければよかったかもしれない。


 ロクスは答えなかった。微笑んだだけだった。いつもの微笑み。目は笑っているのかいないのかわからない。


 村人が何か言っていた。昼食の支度をしているとき、台所でヨルダから聞いた。


「崖のこと、執事殿が何かしたのでは、って噂が出てますよ」


「誰が言ってるの」


「村のおじいさん。夜中に誰かが崖の方で動いていたのを見たって。雨の中で、影が見えた、と」


「影って」


「大きい影だったって。人とは思えないくらい大きい、って」


 手が止まった。木板を握ったまま、数秒間、何も考えられなかった。


 大きい影。


 雨の中。


 崖が不自然に止まっていた。


 ロクスの白手袋の指先が膨らんでいた。靴が泥だらけだった。琥珀色の瞳が一瞬だけ金に光った。


 つながる。つなげてはいけない。


「おじいさんの見間違いでしょ。雨の夜に外を見たって、何も見えないよ」


「そうですかね」


「そうです」


 ヨルダは首をかしげたが、それ以上は聞かなかった。


***


 午後、一人で道を確認しに行った。


 崖崩れの現場。朝霧は晴れていて、崩れた斜面の全容が見えた。


 やっぱり、止まっている。不自然に。


 崖の断面に手を当てた。冷たい。湿っている。岩の表面には、やはりあの跡があった。滑らかに磨かれたような跡。何か硬いもの——鱗のような、固い表面で押さえつけたような。


 考えるな。今は。


 道は通れる。片側だけだが、通れる。人も、注意すれば荷物を運ぶことも。馬車は無理だが、ダーヴォの荷を小分けにして担いで運ぶことはできる。


 空が晴れていた。三日ぶりの青空だ。崩れた土砂の上を鳥が飛んでいた。何事もなかったように。


 道は、まだ続いている。


「ロクス。今日はゆっくり休んで」


 屋敷に戻って、最初に言った言葉がそれだった。


「ありがたきお言葉です。しかし、本日も業務が」


「休んで」


 語気が強くなった。


 ロクスが一瞬、目を細めた。


「——承知しました」


 ロクスが二階の自室に上がっていくのを見送った。階段の板が一段ずつ軋む音が遠ざかる。足取りは普段通りだった。でも、白手袋の右手が手すりに触れたとき、指が少しだけ硬いように見えた。


 見えただけだ。


 夜。ロクスの部屋の前を通りかかった。


 ドアが少しだけ開いていた。隙間から、机の上に白手袋が置かれているのが見えた。


 その手は——手袋の下で。


 少しだけ、昨日と形が違う気がした。


 指先。指先から手の甲にかけて。手袋越しではわからなかった何かが、手袋を外した手の上にある。


 立ち止まった。三秒。呼吸を忘れた。


 気のせいだ。気のせいだと、思うことにする。


 足音を殺して、通り過ぎた。自分の部屋に戻って、ドアを閉めた。背中をドアに預けた。心臓が速い。


 ミケが足元に来た。足首に頭をこすりつけてきた。温かい。小さい。確かにここにいるもの。


「ミケ。何も見てないよ。わたし」


 ミケは何も答えなかった。金色の目がこちらを見ている。ただ、見ている。

お読みいただきありがとうございました!


この話の点数、いかがでしたか?

【☆☆☆☆☆】やブックマークで採点いただけると、作者の執筆意欲が50点くらい上がります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ