第57話「崖は、不自然に止まっていた」
朝、雨が止んでいた。
目を開けた瞬間、静かだと思った。三日間鳴り続けた雨音がない。代わりに、軒先から残った雫が落ちる音だけが、ぽたり、ぽたりと間遠に響いている。窓から薄い光が差し込んでいる。灰色ではない光。
昨夜の地鳴りを思い出して、体が強張った。
***
村の外に出た。
下流へ続く道を辿り、二番目の曲がり角を過ぎたとき、息が止まった。
崖が、崩れている。
半分だけ。
斜面の上部から土と岩が崩落している。道を塞ぐはずだった。もう少しで完全に道を埋めるところだった。崩れた土砂が道の半分を覆い、むき出しの地層が朝の空気に晒されている。赤茶けた土の断面。灰色の岩。水がしみ出して、ぽたぽたと音を立てている。
だが、残りの半分が——止まっていた。
不自然に。
崩れかけた岩が、途中で動きを止めていた。何かに支えられているように。物理的に説明がつかない角度で、土砂の壁が斜面にとどまっている。雨で緩んだ地面の上に、崩れるべき重量の岩が乗っているのに、落ちてこない。
朝霧が崖の断面に絡みついている。冷たい空気が鼻の奥にしみる。土の匂い。湿った岩の匂い。長雨のあとの、大地が割れたような匂い。
道は、辛うじて通れた。片側が土砂で塞がれているが、もう片側は残っている。人が一人通れるくらいの幅。馬車は無理だが、歩きなら通れる。
先に来ていた村人が二人、崖の前に立っていた。腕を組んで、首をかしげている。
「おかしいだろ。この雨のあとで、ここだけ止まってるんだ」
「下の方は崩れてるのに。途中から、まるで壁でも立ったみたいに」
村人たちが振り返って、わたしに気づいた。
「嬢さん。見たか、これ。どうして止まってるんだ?」
答えられなかった。答える代わりに、崩れた斜面をもう一度見た。
崖の上部。土砂が止まっている境界線。そこに、何か跡があった。岩の表面が、ほんのわずかに滑らかになっている。爪で引っ掻いたような——いや、違う。何か硬いもので押さえたような、磨かれたような跡。
——ロクス?
口には出さなかった。
***
屋敷に戻ったのは昼前だった。
玄関の扉を開けると、ロクスが立っていた。いつもの場所に。いつもの姿勢で。黒の執事服。白手袋。背筋が真っ直ぐ。
「おかえりなさいませ、お嬢様。朝食のご用意が」
「あんたが言うの? おかえりなさいって。こっちの台詞でしょ」
声が上擦った。嬉しいのか怒っているのかわからない。両方だ。
「ただいま戻りました」
普段通りの声だった。疲れた様子もない。顔色も悪くない。ただ、靴が泥だらけだった。裾にも土がついている。外套は脱いでいたが、袖口が汚れていた。
白手袋を引き直す仕草が見えた。右手。手袋の指先をつまんで、きゅっと引き直す。何気ない動作のように見せているが、ここ最近、この仕草が増えている。
「おかえりなさい。ご無事で何よりですわ」
令嬢モードが出た。安堵が過ぎると丁寧語が出る。
——あんた何したの。聞かないけど。聞かないけど。
「道の状態を確認して参りました。崖崩れがございましたが、幸い、道は辛うじて通行可能です」
「幸い、ね」
「はい。幸運でしたね」
幸運。
あんたの靴が泥だらけなのは何だ。袖口が汚れているのは何だ。白手袋を引き直したのは何だ。「幸運」って言うな。
「……お疲れ様」
それだけ言った。追及しなかった。できなかった。
ロクスの琥珀色の瞳が一瞬だけ深く光った気がした。朝の光のせいかもしれない。いつもより濃い琥珀色。金に近い色。すぐに元に戻った。
「お嬢様。朝食の前に、お着替えを。泥がついていらっしゃいます」
「あんたの方が泥だらけでしょ」
「わたくしのことはお気になさらず」
気にする。気にするけど、言わない。
***
廊下を歩いていたら、ミケが部屋の隅にいた。
いつもなら窓の桟の上か、わたしの足元に来る。でも今日は違った。廊下の端、壁際の棚の陰にうずくまっている。丸い体が小さく見えるくらい、身を縮めていた。
ロクスが廊下の向こうから歩いてきた。
ミケの耳が伏せた。
わたしはミケを抱き上げた。柔らかい体。温かい。でも、ロクスの方へ一歩踏み出した途端、ミケが身をよじった。腕の中で暴れて、爪が服に引っかかった。
「ミケ。どうしたの」
ミケはわたしの腕から飛び降りた。ロクスとは反対方向に走って、部屋の隅に消えた。
ロクスの顔を見た。表情は変わっていない。涼しい顔。いつも通りの執事の顔。
でも、一瞬だけ、右手が動いた。白手袋の指先に触れて、すぐに手を背中で組んだ。
「毛玉殿は、本日もご機嫌が優れないようですね」
「最近ずっとそうなの。ロクスの前だと」
言ってしまった。言わなければよかったかもしれない。
ロクスは答えなかった。微笑んだだけだった。いつもの微笑み。目は笑っているのかいないのかわからない。
村人が何か言っていた。昼食の支度をしているとき、台所でヨルダから聞いた。
「崖のこと、執事殿が何かしたのでは、って噂が出てますよ」
「誰が言ってるの」
「村のおじいさん。夜中に誰かが崖の方で動いていたのを見たって。雨の中で、影が見えた、と」
「影って」
「大きい影だったって。人とは思えないくらい大きい、って」
手が止まった。木板を握ったまま、数秒間、何も考えられなかった。
大きい影。
雨の中。
崖が不自然に止まっていた。
ロクスの白手袋の指先が膨らんでいた。靴が泥だらけだった。琥珀色の瞳が一瞬だけ金に光った。
つながる。つなげてはいけない。
「おじいさんの見間違いでしょ。雨の夜に外を見たって、何も見えないよ」
「そうですかね」
「そうです」
ヨルダは首をかしげたが、それ以上は聞かなかった。
***
午後、一人で道を確認しに行った。
崖崩れの現場。朝霧は晴れていて、崩れた斜面の全容が見えた。
やっぱり、止まっている。不自然に。
崖の断面に手を当てた。冷たい。湿っている。岩の表面には、やはりあの跡があった。滑らかに磨かれたような跡。何か硬いもの——鱗のような、固い表面で押さえつけたような。
考えるな。今は。
道は通れる。片側だけだが、通れる。人も、注意すれば荷物を運ぶことも。馬車は無理だが、ダーヴォの荷を小分けにして担いで運ぶことはできる。
空が晴れていた。三日ぶりの青空だ。崩れた土砂の上を鳥が飛んでいた。何事もなかったように。
道は、まだ続いている。
「ロクス。今日はゆっくり休んで」
屋敷に戻って、最初に言った言葉がそれだった。
「ありがたきお言葉です。しかし、本日も業務が」
「休んで」
語気が強くなった。
ロクスが一瞬、目を細めた。
「——承知しました」
ロクスが二階の自室に上がっていくのを見送った。階段の板が一段ずつ軋む音が遠ざかる。足取りは普段通りだった。でも、白手袋の右手が手すりに触れたとき、指が少しだけ硬いように見えた。
見えただけだ。
夜。ロクスの部屋の前を通りかかった。
ドアが少しだけ開いていた。隙間から、机の上に白手袋が置かれているのが見えた。
その手は——手袋の下で。
少しだけ、昨日と形が違う気がした。
指先。指先から手の甲にかけて。手袋越しではわからなかった何かが、手袋を外した手の上にある。
立ち止まった。三秒。呼吸を忘れた。
気のせいだ。気のせいだと、思うことにする。
足音を殺して、通り過ぎた。自分の部屋に戻って、ドアを閉めた。背中をドアに預けた。心臓が速い。
ミケが足元に来た。足首に頭をこすりつけてきた。温かい。小さい。確かにここにいるもの。
「ミケ。何も見てないよ。わたし」
ミケは何も答えなかった。金色の目がこちらを見ている。ただ、見ている。
お読みいただきありがとうございました!
この話の点数、いかがでしたか?
【☆☆☆☆☆】やブックマークで採点いただけると、作者の執筆意欲が50点くらい上がります。




