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辺境令嬢と、退屈知らずの執事  作者: 猫野ひかる
第3章「隣人は選べない」

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第56話「ロクスなら『懸念が三点ほど』とか言い出す」

 雨が三日続いている。


 屋根から滴る水音が、夜中ずっと止まらない。保存食はあと二日分。ガレドの物資停止から五日。世界はわたしに優しくない。


***


 台所に入ったら、ヨルダが棚の前で腕を組んでいた。


 棚はほぼ空だった。蜂蜜の瓶と、底のほうに沈んだ豆が少し。乾燥薬草の束が一つ。三日前に書いた在庫表と見比べると、着実に減っている。減るしかない。入ってこないのだから。


「お嬢様。塩がもうないですよ」


「知ってます」


「あと、小麦も底が見えてます」


「知ってます」


「それから、干し肉は——」


「ヨルダ。知ってるものを三つ並べられるとつらい」


 ヨルダが申し訳なさそうに口を閉じた。悪いのはヨルダではない。悪いのはガレドだ。いや、対策が間に合っていないわたしだ。


 鍋の底にこびりついた粥の残りが茶色く固まっている。朝食の残骸。塩なしの粥は、味がしない。正確には穀物の薄い甘みだけがする。罰ゲームの味だ。


「まあ、何とかなりますわ」


 ——何ともならない。塩がない。塩なしの粥は罰ゲーム。塩なしの煮物はただの白湯に具が浮いているだけ。人間は塩がないと生きていけないのだ。前の世界では当たり前すぎて考えもしなかったけれど。


 ヨルダが「お嬢様が"何とかなる"っておっしゃるときは何ともならないことが多いですけど」と小さな声で言った。聞こえている。聞こえているけど反論できない。


 台所の窓から外を見た。雨が降っている。灰色の空。中庭の石畳が黒く光っている。水たまりに雨粒が落ちて、小さな波紋が広がっては消える。


 ハウゼのところに頭を下げに行ったのは三日前だ。干し魚を分けてもらった。「貸しだからな」とハウゼは言った。腕を組んで、苦い顔で。でも、断らなかった。あの干し魚がなければ、今頃もう食糧は尽きていた。


 それでも、二日分しかない。


「お嬢様」


 ロクスの声がした。振り向くと、執事服の上に灰色の外套を羽織ったロクスが台所の入口に立っていた。靴はもう泥で汚れている。


「少し出かけて参ります」


「出かけるって、この雨の中?」


「下流への道の状態を確認して参ります。長雨で地面が緩んでおりますので」


 ロクスの目は平坦だった。いつもの琥珀色。判断を求めているわけではない。「行きます」と言っている。報告の形をしているだけで、わたしの許可を待っているのではない。


「一人で?」


「はい」


「危なくない?」


「危険であれば、それを確認するのが目的ですので」


 ——論理的だけど納得いかない。


***


 中庭に出た。雨が顔に当たった。冷たい。十月の終わりの雨は、夏のそれとは違う。肌に刺さるような冷たさだ。


 ロクスが門の前に立っている。白手袋の右手で外套のフードを被った。その動作のとき、一瞬だけ、手袋の指先が膨らんでいるように見えた。


 気のせいだ。たぶん。


「ハウゼさんのところにも寄ってくるの?」


「いいえ。道の確認のみです。ハウゼ殿への連絡は、お嬢様のご判断に委ねます」


「わたしに判断を委ねないでほしいんだけど」


「それもまたお嬢様のご判断です」


 ロクスが薄く微笑んだ。雨の中でも涼しい顔をしている。この人は雨に濡れても風格が崩れない。わたしなら前髪が張りついて間抜けな顔になるところだ。


「気をつけて」


「お言葉、痛み入ります」


 ロクスが歩き出した。靴底が濡れた石畳を踏む音が、雨音に紛れていく。背中が雨に霞んでいく。灰色の外套が灰色の雨に溶けていく。門を出て、下流へ続く道の方へ。


 背中が見えなくなるまで見ていた。


 中庭に戻る途中、ハウゼからの使いが来た。下流の集落の若い男で、びしょ濡れだった。息が荒い。走ってきたらしい。


「カルセドの嬢さんに伝言です。ハウゼの親方から」


「何?」


「崖が怪しい。長雨で地面が緩んでる。下流への道の途中、二番目の曲がり角の先。崖の上の土がずれてきてる。気をつけろ、って」


 崖。


 二番目の曲がり角の先。あそこは片側が急な斜面で、道が細い。崖崩れが起きたら道が完全に塞がる。下流への唯一の道が。


「ありがとう。伝えて、気をつけますと」


 使いの若者が雨の中を走って戻っていった。泥を跳ねながら。


 立ちすくんだ。


 ロクスが行った方角だ。下流への道の確認。二番目の曲がり角の先。崖が怪しい場所。


 追いかけようかと思った。でも、追いかけてどうする。わたしが行ったところで崖は止められない。


 ——ロクス。あんた、まさか知ってて行ったんじゃないでしょうね。


***


 ロクスがいない夜は、屋敷が広い。


 いや、屋敷の大きさは変わっていない。変わったのはわたしの感覚だ。廊下の足音が一人分しかない。書斎の椅子が一脚多い。茶を淹れようとして、二人分の茶葉を量りかけて手を止めた。


 自分の部屋に戻った。ランプの灯りをつけた。蝋燭は節約だ。ランプの油もあと三日分くらい。何もかもがあと三日分。


 ミケが窓の桟から降りてきて、わたしの膝の上に乗った。丸い体が温かい。金色の目がこちらを見上げている。


「ミケ。ロクスがいないと静かだね」


 ミケが喉を鳴らした。同意なのか無関心なのかわからない。


 木板を膝に置いた。ミケがよけた。問題を整理する。


 一、保存食があと二日分。


 二、ダーヴォの荷はまだ来ない。


 三、崖が崩れそう。


 四、ロクスが一人で偵察に出ている。


 四番。これが一番気になる。


 ロクスなら、今ここにいたら何を言うだろう。


 ——「お嬢様、懸念が三点ほどございます」


 脳内ロクスがしゃべった。わたしの頭の中のロクスだ。声まで再生できる。付き合いが長くなりすぎた。


 ——つまり「全部ダメ」。三点とも知ってる。


 いや、ロクスはそんな雑な言い方はしない。「懸念が三点ほど」と前置きしてから一つずつ丁寧に述べる。


 一点目。物資が足りない。知ってる。


 二点目。暫定合意が揺らいでいる。知ってる。


 三点目。


 三点目は何だ。脳内ロクスに聞いてみる。


 ——「三点目は、お嬢様がわたくしの不在を気にしていらっしゃることでしょうか」


 気にしてない。気にしてないけど。


 いや、気にしている。ロクスが一人で崖の近くにいる。長雨で地面が緩んでいる場所に。


 ミケの背中を撫でた。柔らかい毛。腹のあたりがほんのり暖かい。ミケは目を細めている。


「明日帰ってくるよね。ロクス」


 ミケはあくびをした。大きなあくびだ。ぴんく色の舌が丸まった。


 雨音がやまない。窓の外は真っ暗で、ランプの灯りが硝子に反射してわたしの顔を映している。目の下に隈がある。ここ数日、よく眠れていない。


 木板にもう一行書いた。


 五、明日、ロクスが帰ってくる。多分。


 「多分」を消した。消して、もう一度書いた。


 五、明日、ロクスが帰ってくる。


 「多分」を書かなかった。書かなかったことが、祈りみたいだと思った。


 ミケが膝の上で耳を立てた。何かを聞いている。わたしには聞こえない何かを。金色の目が窓の方を向いた。毛が逆立っている。


 窓の外で、遠く低く、地鳴りのような音がした。


 ——崖?


 ミケがわたしの膝から飛び降りて、部屋の隅に走った。丸くなって、耳を伏せている。


 雨音の向こうに、もう一度。低い、重い音。地面の底から響くような振動。


 ランプの灯りが揺れた。

お読みいただきありがとうございました!


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