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辺境令嬢と、退屈知らずの執事  作者: 猫野ひかる
第3章「隣人は選べない」

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第55話「あら、祠? 昔よく遊んだ場所じゃない」

 母が屋敷に来ている。


 この事実だけで、わたしの心拍数は倍になる。


「ミレイア、最近どう? 元気そうね」


 ——その笑顔が一番怖い。


***


 応接間の椅子に座った。背筋を伸ばして、膝を揃えて、手を膝の上に重ねて。令嬢の型。前の世界にはなかった筋肉を使っている。


「まあ、お母様。ご機嫌うるわしゅう」


 ——心拍数が倍。この人が来ると寿命が縮む。


 セラは向かいの椅子に座っていた。整った顔。柔らかな微笑み。香水の匂いが応接間に広がっている。花と、わずかに柑橘。高い香水だ。辺境には場違いな匂い。


「お茶をいただけるかしら」


「もちろんですわ」


 ヨルダが茶を運んできた。棚がほぼ空なのにお茶は出せた。茶葉だけはまだ残っている。茶葉がなくなったら本当に終わりだ。


 セラがカップを手に取った。優雅に。唇をつけて、ほんの少し目を閉じた。


「美味しいお茶ね。辺境でもこのくらいのものは手に入るのね」


「ええ、まあ」


 手に入らなくなりかけているとは言えない。


「最近、忙しいそうね」


 来た。世間話の皮を被った探り。セラの会話術だ。柔らかい声で、当たり障りのない話をしながら、少しずつ核心に近づいてくる。


「ええ、領地の視察ですわ」


 ——視察じゃない。泥まみれで交渉してるだけ。


「下流まで足を運んでいるそうじゃない」


 足が止まった。比喩ではなく、膝の上に重ねた手が硬くなった。誰から聞いたのだろう。父からか。ガレドの筋からか。


「下流の集落とも、少し交流がありまして」


「あら。あなた、前は下流なんて行かなかったのに」


 セラの目が笑っていなかった。口元は微笑んでいる。でも目だけが「本当に?」と問いかけている。


「前は、あまり外に出なかったものですから。領主としての責任を考えて、少し行動範囲を広げました」


「領主としての責任、ね」


 セラがカップを置いた。音がしなかった。完璧な所作。この人は、カップを置く音すら制御する。


「前のあなたなら、汚い場所に絶対行かなかった」


 心臓が速い。令嬢モードの仮面を保つ。笑顔を崩さない。手を膝の上から動かさない。


「人は変わるものですわ。お母様もそうおっしゃっていたでしょう?」


「わたしはそんなこと言ったかしら」


 言っていないかもしれない。前の令嬢の記憶にあるのか、わたしの作り話なのか、自分でもわからない。危ない橋を渡っている。


***


 会話が途切れた一瞬、セラが窓の外を見た。


「そういえば、下流に祠があるでしょう。覚えてる?」


 祠。


 下流の集落の裏手にある、小さな石の祠。苔むした石段を登った先の、古びた祠。


「あら、祠? 昔よく遊んだ場所じゃない」


 セラの声は軽い。子供の頃の思い出を語るような調子。


「はい、昔——」


 言いかけて、止まった。


 昔。何だ。何を言おうとした。


 石段が見える。十三段。冷たい石。足の裏に苔の感触。手すりはない。三段目が少し欠けていて、つまずきやすい。登りきると、祠の扉がある。木の扉。取っ手が錆びていて、押すと軋む。


 知っている。


 なんで知っているのだ。


 わたしはあの祠に行ったことがない。前の世界のわたしは、コンビニと図書館と猫カフェを往復していただけだ。石の祠なんて見たこともない。


 なのに、十三段。三段目が欠けている。手すりがない。扉の取っ手が錆びている。


 この体が、覚えている。


「ミレイア?」


 セラの声が遠い。


「あ、はい。懐かしいですわ。子供の頃の記憶が」


 声が震えなかったかどうか、自信がない。手を膝の上に押しつけた。震えを止めるために。


「そう。あなた、よく祠でお花を摘んでたわね。石段を数えながら登るの。いくつだったかしら」


「十三段ですわ」


 答えてしまった。


 セラの目が、ほんの一瞬だけ細くなった。


「覚えてるのね」


「ええ、まあ。子供の記憶というのは不思議なもので」


「不思議ね」


 セラがお茶を飲んだ。カップの縁から目だけがこちらを見ている。信じてはいない。でも、追及もしない。ここがセラの恐ろしいところだ。追い詰めるのではなく、糸を垂らして反応を見る。


 今の反応は、どう映っただろう。「十三段」と即答したこと。これは元の令嬢としては自然な答えだ。覚えていて当然。問題は、わたしがそれを「覚えている」のではなく、「体が思い出した」ということで、その違いはセラにはわからないはずだ。


 わからないはずだけど。


「お母様。お茶のおかわりはいかがですか」


「いいえ、もう充分よ。そろそろ帰るわ」


 セラが立ち上がった。裾が床を擦る音もなく、優雅に。


「ミレイア」


「はい」


「元気そうで、よかった」


 微笑んだ。口元は完璧な笑顔。目だけが「本当に?」と言っていた。


***


 玄関の前で、馬車を見送った。


 セラが馬車に乗り込む前に、屋敷の入口に立つロクスに小さく会釈した。ロクスが深く腰を折って応じた。


「奥様、お気をつけて」


「ありがとう、ロクスさん。あの子のこと、よろしくね」


 馬車が動き出した。車輪が砂利を噛んで、じゃりじゃりと重い音を立てる。馬の蹄が土を蹴る音。遠ざかっていく。


 馬車の影が道の曲がり角を過ぎて見えなくなるまで、わたしは動けなかった。


「奥様はお嬢様のご健勝をお喜びのようでした」


 ロクスが横に立っていた。いつの間に。


 ——喜んでない。調査に来ただけ。ロクス、あんたもわかってるでしょ。


「ロクス」


「はい」


「わたし、祠の石段が十三段だって答えちゃった」


「ええ」


「なんで知ってるんだろう。わたし、行ったことないのに」


 ロクスは答えなかった。琥珀色の目がこちらを見ている。何かを言いかけて、やめた気配がした。白手袋の右手がわずかに動いて、手袋の下の凹凸に触れた。


 応接間に戻った。一人で。セラが座っていた椅子にはまだ香水の残り香がある。花と柑橘。鼻の奥に残る匂い。


 手を見つめた。


 この手は石段を登ったことを覚えている。苔の冷たさ。三段目の欠け。取っ手の錆。指先がそれを知っている。わたしの頭にはない記憶を、指が持っている。


 ——前の世界のわたしには、祠の記憶はない。あったのは深夜のコンビニと図書館と猫カフェだけ。この記憶は、この体のものだ。


 怖い。


 この体には、わたしの知らない記憶がある。前の持ち主が残していった記憶が、ふとした拍子に浮かんでくる。セラの言葉に反応して、口が勝手に「十三段」と答えた。制御できなかった。


 ミケが窓の桟から降りてきた。わたしの足元に来て、足首に頭をこすりつけた。温かい。小さくて丸い頭。金色の目がこちらを見上げている。


「ミケ。わたしはわたしだよね?」


 ミケはあくびをした。答えになっていない。でも、足元の温もりだけは本物だった。


 窓の外で風が鳴っている。セラの馬車は、もう見えない。


 この手は、石段を登ったことを覚えている。十三段。苔むした、冷たい石。


 わたしの記憶じゃない。でも、わたしの手が覚えている。

お読みいただきありがとうございました!


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