第55話「あら、祠? 昔よく遊んだ場所じゃない」
母が屋敷に来ている。
この事実だけで、わたしの心拍数は倍になる。
「ミレイア、最近どう? 元気そうね」
——その笑顔が一番怖い。
***
応接間の椅子に座った。背筋を伸ばして、膝を揃えて、手を膝の上に重ねて。令嬢の型。前の世界にはなかった筋肉を使っている。
「まあ、お母様。ご機嫌うるわしゅう」
——心拍数が倍。この人が来ると寿命が縮む。
セラは向かいの椅子に座っていた。整った顔。柔らかな微笑み。香水の匂いが応接間に広がっている。花と、わずかに柑橘。高い香水だ。辺境には場違いな匂い。
「お茶をいただけるかしら」
「もちろんですわ」
ヨルダが茶を運んできた。棚がほぼ空なのにお茶は出せた。茶葉だけはまだ残っている。茶葉がなくなったら本当に終わりだ。
セラがカップを手に取った。優雅に。唇をつけて、ほんの少し目を閉じた。
「美味しいお茶ね。辺境でもこのくらいのものは手に入るのね」
「ええ、まあ」
手に入らなくなりかけているとは言えない。
「最近、忙しいそうね」
来た。世間話の皮を被った探り。セラの会話術だ。柔らかい声で、当たり障りのない話をしながら、少しずつ核心に近づいてくる。
「ええ、領地の視察ですわ」
——視察じゃない。泥まみれで交渉してるだけ。
「下流まで足を運んでいるそうじゃない」
足が止まった。比喩ではなく、膝の上に重ねた手が硬くなった。誰から聞いたのだろう。父からか。ガレドの筋からか。
「下流の集落とも、少し交流がありまして」
「あら。あなた、前は下流なんて行かなかったのに」
セラの目が笑っていなかった。口元は微笑んでいる。でも目だけが「本当に?」と問いかけている。
「前は、あまり外に出なかったものですから。領主としての責任を考えて、少し行動範囲を広げました」
「領主としての責任、ね」
セラがカップを置いた。音がしなかった。完璧な所作。この人は、カップを置く音すら制御する。
「前のあなたなら、汚い場所に絶対行かなかった」
心臓が速い。令嬢モードの仮面を保つ。笑顔を崩さない。手を膝の上から動かさない。
「人は変わるものですわ。お母様もそうおっしゃっていたでしょう?」
「わたしはそんなこと言ったかしら」
言っていないかもしれない。前の令嬢の記憶にあるのか、わたしの作り話なのか、自分でもわからない。危ない橋を渡っている。
***
会話が途切れた一瞬、セラが窓の外を見た。
「そういえば、下流に祠があるでしょう。覚えてる?」
祠。
下流の集落の裏手にある、小さな石の祠。苔むした石段を登った先の、古びた祠。
「あら、祠? 昔よく遊んだ場所じゃない」
セラの声は軽い。子供の頃の思い出を語るような調子。
「はい、昔——」
言いかけて、止まった。
昔。何だ。何を言おうとした。
石段が見える。十三段。冷たい石。足の裏に苔の感触。手すりはない。三段目が少し欠けていて、つまずきやすい。登りきると、祠の扉がある。木の扉。取っ手が錆びていて、押すと軋む。
知っている。
なんで知っているのだ。
わたしはあの祠に行ったことがない。前の世界のわたしは、コンビニと図書館と猫カフェを往復していただけだ。石の祠なんて見たこともない。
なのに、十三段。三段目が欠けている。手すりがない。扉の取っ手が錆びている。
この体が、覚えている。
「ミレイア?」
セラの声が遠い。
「あ、はい。懐かしいですわ。子供の頃の記憶が」
声が震えなかったかどうか、自信がない。手を膝の上に押しつけた。震えを止めるために。
「そう。あなた、よく祠でお花を摘んでたわね。石段を数えながら登るの。いくつだったかしら」
「十三段ですわ」
答えてしまった。
セラの目が、ほんの一瞬だけ細くなった。
「覚えてるのね」
「ええ、まあ。子供の記憶というのは不思議なもので」
「不思議ね」
セラがお茶を飲んだ。カップの縁から目だけがこちらを見ている。信じてはいない。でも、追及もしない。ここがセラの恐ろしいところだ。追い詰めるのではなく、糸を垂らして反応を見る。
今の反応は、どう映っただろう。「十三段」と即答したこと。これは元の令嬢としては自然な答えだ。覚えていて当然。問題は、わたしがそれを「覚えている」のではなく、「体が思い出した」ということで、その違いはセラにはわからないはずだ。
わからないはずだけど。
「お母様。お茶のおかわりはいかがですか」
「いいえ、もう充分よ。そろそろ帰るわ」
セラが立ち上がった。裾が床を擦る音もなく、優雅に。
「ミレイア」
「はい」
「元気そうで、よかった」
微笑んだ。口元は完璧な笑顔。目だけが「本当に?」と言っていた。
***
玄関の前で、馬車を見送った。
セラが馬車に乗り込む前に、屋敷の入口に立つロクスに小さく会釈した。ロクスが深く腰を折って応じた。
「奥様、お気をつけて」
「ありがとう、ロクスさん。あの子のこと、よろしくね」
馬車が動き出した。車輪が砂利を噛んで、じゃりじゃりと重い音を立てる。馬の蹄が土を蹴る音。遠ざかっていく。
馬車の影が道の曲がり角を過ぎて見えなくなるまで、わたしは動けなかった。
「奥様はお嬢様のご健勝をお喜びのようでした」
ロクスが横に立っていた。いつの間に。
——喜んでない。調査に来ただけ。ロクス、あんたもわかってるでしょ。
「ロクス」
「はい」
「わたし、祠の石段が十三段だって答えちゃった」
「ええ」
「なんで知ってるんだろう。わたし、行ったことないのに」
ロクスは答えなかった。琥珀色の目がこちらを見ている。何かを言いかけて、やめた気配がした。白手袋の右手がわずかに動いて、手袋の下の凹凸に触れた。
応接間に戻った。一人で。セラが座っていた椅子にはまだ香水の残り香がある。花と柑橘。鼻の奥に残る匂い。
手を見つめた。
この手は石段を登ったことを覚えている。苔の冷たさ。三段目の欠け。取っ手の錆。指先がそれを知っている。わたしの頭にはない記憶を、指が持っている。
——前の世界のわたしには、祠の記憶はない。あったのは深夜のコンビニと図書館と猫カフェだけ。この記憶は、この体のものだ。
怖い。
この体には、わたしの知らない記憶がある。前の持ち主が残していった記憶が、ふとした拍子に浮かんでくる。セラの言葉に反応して、口が勝手に「十三段」と答えた。制御できなかった。
ミケが窓の桟から降りてきた。わたしの足元に来て、足首に頭をこすりつけた。温かい。小さくて丸い頭。金色の目がこちらを見上げている。
「ミケ。わたしはわたしだよね?」
ミケはあくびをした。答えになっていない。でも、足元の温もりだけは本物だった。
窓の外で風が鳴っている。セラの馬車は、もう見えない。
この手は、石段を登ったことを覚えている。十三段。苔むした、冷たい石。
わたしの記憶じゃない。でも、わたしの手が覚えている。
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