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辺境令嬢と、退屈知らずの執事  作者: 猫野ひかる
第3章「隣人は選べない」

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第53話「道がなければ、商人は来ない」

 コリンナが紹介してくれた行商人は、馬車の荷台に腰かけて顎を撫でていた。


「で、お嬢さん。道はあるのかい」


 日焼けした顔。目尻に笑い皺。黒い髪を短く縛って、浅黒い腕を荷台の縁にかけている。値踏みするような目。この人は、最初から損得で見ている。


 学院のある街の外れ、街道沿いの広場。馬車が三台停まっている。荷を積み替える商人たちの声が重なり合い、馬が鼻を鳴らし、木箱の底が石畳を引きずられて低く唸る。ダーヴォの馬車だけが少し離れた場所にあって、荷台の布の下には何かがぎっしり詰まっていた。


「ダーヴォさん。カルセド領まで、道はあります」


「ある、ね」


 顎を撫でている。まだ値踏み中だ。


 隣でコリンナが腕を組んでいた。鋭い目つきがダーヴォに向いている。


「あたしの紹介なんだから、ちゃんと聞いてよ。ミレイアは変な人じゃないから」


「変な人じゃねえことは見りゃわかる。問題はそこじゃねえ」


 ダーヴォが荷台から降りなかった。腰かけたまま話す。見下ろす形になるから、立場を示しているのか、単に面倒なのか。たぶん両方だろう。


「カルセド領ってのは辺境の端だろ。馬車で片道半日。荷は何がある」


「薬草、蜂蜜、干し魚。それから木工品を少し。量は多くないですけど、品質は確かです」


「量が少ねえのは知ってる。問題は道だ。道がなけりゃ商売にならねえ」


「道はあります」


「あるってだけじゃ足りねえな。馬車が通れる道か?」


 わたしはロクスを見た。ロクスは涼しい顔をしている。助けてくれない。


「通れます。多分」


「多分、ね」


 ダーヴォがまた顎を撫でた。多分、という言葉が気に入らなかったらしい。商人は「多分」が嫌いだ。「確実に」か「無理だ」のどちらかがいい。


「じゃあ見せてくれ。道を」


***


 見せなければよかった。


 カルセド領へ向かう道。街道から分岐して細い山道に入ると、すぐに路面が崩れた。雨で削れた溝。石が飛び出した段差。ぬかるみに車輪が沈む音。馬が嫌そうに首を振った。ダーヴォの馬車が揺れるたびに、荷台の布の下でがちゃがちゃと音がした。泥が跳ねて、わたしの靴の裾に茶色い染みがついた。


「お嬢さん」


「はい」


「この道じゃ馬車が壊れる。話にならねえな」


 首を横に振りながら手のひらを見せた。断るときの仕草だ。初対面で知ったけど、あの手のひらは「ここまで」の合図らしい。


 道の状態。自分の目で見て、改めて気づいた。


 ——道の状態、三十点。ダーヴォの求める基準は多分七十点。差が四十点。四十点分の道をどう直すの、これ。


「大体は通れるんですけど」


「大体じゃ商売にならねえ。車輪が折れたら荷が全部パアだ。おれは博打をしに来てるわけじゃねえ」


 ぐうの音も出ない。ダーヴォの言い分は正しい。道が悪いのは前から知っていた。知っていたけど、「まあ何とかなるでしょ」と思っていた。何ともならなかった。目の前の溝を見る。深さは足首くらいある。これを馬車で越えろと言うほうが無理だ。おっちょこちょいの代償だ。


「ダーヴォ殿は、お嬢様の道路整備に若干の課題をご指摘くださいました」


 ロクスが横で言った。涼しい声で。


 ——若干どころじゃない。完全否定された。ロクス、「若干」の使い方がおかしい。あんたの辞書は壊れてるの?


「ダーヴォさん。道を直したら、もう一度来てくれますか」


「直せるのかい?」


「直します」


「おれはな、口約束じゃ動かねえ。道ができてから話だ」


 ダーヴォが馬車の手綱を取った。帰る気だ。


「待ってください。直す期間は?」


「おれが次にこの辺りを回るのは一月後だ。それまでに道が変わってなかったら、二度目はねえ」


 一月。たった三十日で道を直せ、と。無茶だ。


「道の改善を始めた場合、完成までに三通りの障害が見えます」


 ロクスが言った。


「聞きたくない。でも聞く」


「一つ目、人手の不足。二つ目、資材の不足。三つ目、雨季の残り」


「全部足りないってこと?」


「はい」


 馬車が動き始めた。ダーヴォが荷台の上から振り返った。


「お嬢さん。道ができたらもう一度来てもいい。できなかったら、縁がなかったってことだ」


 顎を撫でながら。


 あの顎撫では、たぶん「まだ考え中」のサインだ。完全に断るなら、もっと冷たい言い方をしただろう。脈はある。細い脈だけど。


***


 屋敷の中庭で、夕日を浴びていた。


 手が荒れている。炭筆を握りすぎて指先の皮が硬くなっている。爪の間に泥が残っていて、洗っても落ちない。令嬢の手じゃない。畑仕事をしている人の手だ。


 ——前の世界でも、道は暗かった。


 深夜のバイト帰り。街灯のない裏道を一人で歩いた。アスファルトなのにひび割れだらけで、つまずいて転んだことがある。膝を擦りむいて、コンビニで絆創膏を買った。


 こっちの世界でも、道が悪い。笑えない共通点だ。どっちの世界でも、足元は自分で固めるしかない。


「ロクス」


「はい」


「道を直す」


「またですか」


「また、じゃないの。今回は違う。今まではなんとなく後回しにしてた。でも、行商人が来ないなら物資が手に入らない。物資がなければ冬を越せない。道は後回しにできない」


 ロクスが小さく頷いた。白手袋の右手が手袋の下の凹凸に触れていた。無意識の仕草。手袋の下には何があるのだろう。聞いたことはない。聞いてもきっと、答えない。


「道を直すには人手がいる。資材がいる。時間がいる。全部足りない」


「はい」


「でもやる」


「承知いたしました。いつもの台詞ですね」


「いつもの台詞で悪い?」


「いいえ。私はお嬢様のいつもの台詞が、わりと好きですよ」


 珍しいことを言う。ロクスが「好き」という言葉を使うのは珍しい。琥珀色の目が夕日で少し赤みを帯びていた。


 計画を立てると、別の問題が見つかる。問題を潰すと、新しいのが湧く。いつもそうだ。


 でも。


 ダーヴォは「道ができたらもう一度来てもいい」と言った。あの顎を撫でながら。


 脈はある。


 中庭の隅でミケが窓の桟に座っていた。爪が木の桟を引っ掻く小さな音。金色の目がロクスを見ている。監視中。いつも通り。ロクスはミケを見ず、わたしは木板に新しい項目を書いた。


 四、道を直す。一月以内に。


 炭筆の先がまた折れた。予備は屋敷の中だ。取りに行くのが面倒だ。でも、面倒を避けていたらダーヴォは二度と来ない。


 立ち上がった。膝についた草を払って、屋敷に向かう。道を直す。まずは、道を直す。

お読みいただきありがとうございました!


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