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辺境令嬢と、退屈知らずの執事  作者: 猫野ひかる
第3章「隣人は選べない」

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第52話「ガレドは、下流まで手を伸ばす」

 ハウゼの顔が、前よりも硬い。


 水量確認に来ただけだった。いつもの週一回、堰板の位置と水位を見て、木板に記録をつけて帰る。それだけのはずだった。往復の道を歩く時間を入れても半日で終わる、いつもの仕事だった。


 開口一番、「話がある」と言われた。


 ハウゼの家の前。壁に背をもたれて、腕を組んでいる。骨ばった指が二の腕に食い込んでいた。皺の奥の目が、わたしをまっすぐ見ている。


「ガレドの連中が来たよ。カルセドと組むなら手数料がかかるってな」


 声は静かだった。怒りより、疲労の色が濃い。ハウゼは怒鳴るタイプじゃない。静かに言って、静かに待つ。それが怒鳴られるより怖い。


「……手数料、ですか」


「おまえさんの名前は出さなかった。だがわかるだろう。カルセドの嬢さんと付き合うと面倒だ、って遠回しに言ってきたのさ。商人ってのは、そういう言い方がうまい」


 横で、ロクスが微動だにしない。白手袋の右手を背後で組んだまま、ハウゼの言葉を黙って聞いている。


 ——ガレド。あの商人は、下流にまで手を伸ばしている。


 通行税を課しただけじゃ飽き足らず、ハウゼたちにも圧をかけた。「カルセドと組むな」と。暫定合意の足元を崩しに来ている。やり方が周到で、腹が立つ。直接わたしに言うんじゃなくて、周りから固めてくる。


「ガレドさんのお話については、わたくしも存じております」


 令嬢モード。丁寧語で構えた。


 ——存じてるよ。腹が立ちすぎて泣きそうだけど。


「存じている、か」


 ハウゼが腕を組み直した。目が据わっている。


「嬢さん。おれは嘘をつかれるのが一番嫌いだ。正直に言え。あの通行税ってのは何だ」


***


 空気が冷たい。十月の終わり、下流の集落は風が通りやすい地形で、会話の合間に首筋を風が撫でていく。ハウゼの白髪が風に揺れた。


 正直に言え、とハウゼは言った。


 選択肢は二つだ。隠して維持するか、正直に話して信頼を試すか。


 指先が冷たい。手のひらを握り込んだ。爪が食い込んで、じわりと痛い。


 隠せば、ハウゼはいずれ別のルートで真実を知る。ガレドの連中が教えるだろう。その時の信頼の崩れ方は、取り返しがつかない。


「ロクス」


「はい」


「何も言わなくていい」


「承知いたしました」


 ロクスが一歩退いた。これはわたしの問題だ。


「ハウゼさん。正直に言います」


 ハウゼの目がこちらに固定された。逃げられない。


「ガレドさんがカルセド領を通る物資に通行税を課しています。これは六月からです。理由はカルセド領の道路使用に対する正当な権利を主張したもので、法的にはガレドさんの言い分が通る部分があります」


 声が乾いた。喉の奥に何かが引っかかっている。唾を飲み込む。ハウゼの表情は変わらない。腕を組んだまま、じっとこちらを見ている。


「ただし、例外条項があります。領地内で消費する物資は対象外です。この条項を使って、カルセド領に必要な物資は確保しています」


 ハウゼの眉が微かに動いた。聞いている。


「でも、外に出す物資には通行税がかかる。だから下流の皆さんと取引するにも、余計な費用がかかる状態です」


「……それを、なぜ最初に言わなかった」


「すみません。解決策を見つけてから話すつもりでした。問題だけ持ってきて不安にさせたくなかったんです」


 言い訳だ。自分でもわかっている。でも嘘はついていない。隠してはいたけど。


 ハウゼが黙った。


 長い沈黙だった。風が集落の間を抜けていく。遠くで犬が吠えた。二度、三度。また風。ハウゼの骨ばった手が、ゆっくりと腕組みを解いた。


「嬢さん」


「はい」


「考える。急かすな」


 拒絶ではなかった。即答でもなかった。「考える」と言って、腕組みを解いて、家の中に戻っていった。木戸が閉まる音が、秋の風に混じって消えた。


 握り込んでいた手を開いた。爪の跡が白く残っていて、じわじわと赤く戻っていく。


***


 帰路は暗かった。


 日が短くなっている。下流から屋敷まで歩くと、途中で日が落ちる。道の石が足の裏に当たるたびに小さな音がする。草が靴を擦る。空に星が出始めていた。


 もし暫定合意が破棄されたら。


 水路問題が再燃する。ハウゼが「もう付き合わない」と言えば、下流との関係は白紙だ。ガレドは喜ぶ。カルセド領は孤立する。通行税で物資は削られ、下流の協力もなくなり、水路の管理は村人だけで回すことになる。人手が足りない。冬が来る。保存食は限られている。監査官の期限も迫っている。


 破産。野垂れ死に。


 ——やめよう。考えるの。考えたら終わる。


 足元の石を蹴った。石がころころと転がって、道の端の草むらに消えた。乾いた音だった。秋の夜気が頬を冷やして、息が少し白くなった。


「ロクス」


「はい」


「最悪の未来、何通り見える?」


「失敗する未来のうち、一通りが先ほど消えました」


「え、減った?」


「はい。お嬢様がハウゼ殿に正直にお話しになったので」


「……褒めてる?」


「さあ」


 褒めてるのか褒めてないのかわからない。ロクスの声は涼しくて、暗い道でも表情が読めない。白手袋だけがぼんやりと闇に浮いている。でも、「一通り消えた」と言った。嘘をつかなかったことで、最悪の選択肢が一つ減った。


 なら、まだ道はある。


 ハウゼは「考える」と言った。急かすなと言った。でもガレドは急かしてくる。ガレドの連中が下流に来たのは、つまりハウゼたちとの関係を壊しに来たということだ。時間をかけるほど、ガレドが有利になる。


 時間は、わたしの味方じゃない。


「ロクス。別のルートの件。明日、コリンナに聞いてみる」


「別のルートとは」


「行商人。ガレドを通さないで物資を運べる人を探す。コリンナの実家は商家でしょう? 知り合いがいるかもしれない」


「なるほど。ガレド殿の独占に風穴を開ける、と」


「風穴って大げさ。穴じゃなくて、隙間。小さい隙間でいいの。一つでも」


 ロクスが何か言いかけて、やめた。珍しい。普段なら涼しく何か返すのに。


 暗い道が続いている。星が増えた。足元は見えにくいが、道は一本だ。曲がり角も分かれ道もない。ただまっすぐ、屋敷まで続いている。


「ロクス」


「はい」


「道が続いてるね」


「ええ。まだ続いております」


 それだけでいい。今は、それだけでいい。


 歩く。まだ道はある。

お読みいただきありがとうございました!


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