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辺境令嬢と、退屈知らずの執事  作者: 猫野ひかる
第3章「隣人は選べない」

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第51話「やらないことリスト、5分で破る」

 今日の「やらないことリスト」。


 一、領民同士の揉め事に口を挟まない。


 二、ロクスの煽りに乗らない。


 三、走らない。体力がない。


 結果から言うと、全部破った。五分で。


***


 朝露が水路の石を濡らしていた。踏むと靴の底が滑る。十月も末になると空気が痛い。吐く息は白く、指先がかじかんで木板を握る手に力が入らなかった。


 下流の若者が二人、水路の端に立っている。先日「見せてほしい」と言ってきた二人だ。日焼けした頬と、土が詰まった爪。今日も畑の合間を縫って来たのだろう。膝に泥がついていた。


 隣でニロが胸を張っている。


「えーと、ここが堰っす。水が多い時はこっちに流して、少ない時はこっちを閉じるんすよ」


 ニロが案内役を申し出てくれた。口下手だが、堰板の動かし方を実演しながら説明するのはうまい。手が先に動くタイプだ。堰板を持ち上げると水が勢いを変えて、若者たちが「おお」と声を上げた。


「すげえ。これ手作りですか?」


「そうっす。石を並べて、板を差し込んで。お嬢様が設計して、村の人で掘りました」


 設計、と言われると少し恥ずかしい。ロクスと一緒に木板に図を描いただけだ。でもニロはそれを「設計」と呼んでくれる。ありがたいけど、荷が重い。


 わたしは少し離れた場所に立って眺めていた。口を出さない。これは「やらないことリスト」の精神に則った行動だ。見守り。大人の対応。うん。


「お嬢様が領民の融和にお力添えくださるとは。感慨深いことです」


 ロクスが隣に立って、涼しい顔で言った。


 ——融和じゃない。揉め事の仲裁係を回避してるだけだ。融和とか言うな。語彙が大げさなんだよ。


「わたしは見てるだけ。口は出さない」


「ええ。そのように見えます」


「見えるじゃなくて、そうなの」


「はい。お嬢様は本日、大変ご立派にお控えになっています」


 煽りだ。「控えている」を褒め言葉にするのは煽りでしかない。やらないことリスト二番目、ロクスの煽りに乗らない。耐える。


***


 水路の説明が終わりかけた頃だった。


「おい。何をやっている」


 声が飛んできた。低く、苛立ちを含んだ声。水路の上流側から、年配の男が歩いてきた。五十代。日焼けの深い顔に白髪が混じっている。腰に鉈を下げた、いかにも古参の村人だった。


「よそ者に水路を見せてどうする。おれたちが汗かいて作ったもんだぞ」


 古参の男は若者たちを睨んだ。若者が一歩退がる。ニロが間に入ろうとしたが、言葉が出ない。口をぱくぱくさせて、手だけが前に突き出ている。


「あの、えっと、この人たちは、その」


 ニロの言葉が詰まった。口下手が最悪のタイミングで炸裂している。古参の男は腕を組んで、ニロの説明を待つ気配がない。


「勝手に人を連れてくるんじゃねえ。嬢さんの許可はあるのか」


 許可はある。わたしが出した。でも「口を挟まない」と決めたばかりだ。ニロが説明してくれるのを待つ。大人の対応だ。わたしは何もしない。何も——


「あの、おれが、その、案内をですね」


 ニロが汗を浮かべながら頑張っている。でも古参の男の眉間の皺は深くなるばかりだ。若者たちは居心地悪そうに視線を落としている。一人が「すみません、帰ります」と言いかけた。


 ——ああ、もう。


 気づいたら走っていた。五歩。いや、十歩。体力のない足が泥を蹴って、古参と若者の間に滑り込んだ。やらないことリスト三番目、走らない。破壊。


「皆さん、少しよろしいでしょうか」


 息を整えて、令嬢モード全開で。一番目の「口を挟まない」も破壊。五分。新記録を更新した。


「この方たちは、わたくしがお招きした見学の方です。カルセド領の水路について興味を持ってくださっています」


 古参の男がこちらを向いた。カルセドのお嬢さんが出てきた、という顔だ。


「嬢さん。よそ者に見せたら、真似されるだけだろう」


「真似していただけるなら、むしろありがたいことです。下流の水利が安定すれば、わたくしたちにとっても利がございます」


 古参の男の目が細くなった。利、という言葉には反応する。辺境の人間は理屈より実利で動く。


「利って、何だ」


「水の取り合いが減ります。下流が自分で水を管理できれば、うちの分水を削る必要がなくなる。お互いに楽になるんです」


 男がしばらく黙った。腕を組んだまま、若者たちとニロを交互に見て、最後にわたしを見た。


「……勝手にしろ。だが水路の堰には触らせるなよ」


 それだけ言って、歩いていった。鉈が腰で揺れている。完全に納得したわけじゃない。でも、その場で暴れる気もなくなったようだった。


 若者たちが胸を撫で下ろしている。ニロが深々と頭を下げた。


「すんません、お嬢様。おれがちゃんと説明できなくて」


「ニロのせいじゃないよ。あの人はもともと警戒していたんだから」


「でも、おれがもうちょい上手く言えれば」


「間に入ってくれただけで十分。あなたが先に立ってくれたから、わたしが出る前にワンクッション置けた。助かったよ」


 ニロが顔を上げた。日焼けした頬が少し赤い。照れているのか、朝の寒さのせいか。


「明日も来ていいっすか」


「もちろん」


***


 畑の端で、土の匂いを吸い込んだ。ニロは若者たちを集落の入口まで送りに行った。歩き方が来た時より少し軽い。


 わたしは木板を膝に置いて、今日の記録をつけようとした。炭筆の先が折れた。予備を持ってきていない。おっちょこちょいは治らない。


「ロクス。煽りの言葉をどうぞ」


「お嬢様の『やらないことリスト』は、大変意欲的な目標設定でございました」


 ——「意欲的」って、つまり「無理だった」の丁寧版でしょ。


「五分って記録、どう思う?」


「更新を目指される姿勢は素晴らしいかと」


「更新じゃない。短くしたいんじゃなくて、破らないようにしたいの」


「左様ですか」


 風が水路の方から吹いてきた。水の匂いと、泥の匂い。ニロの手についていた土と同じ匂いだ。


 遠くで若者たちが手を振っている。ニロが振り返す。その横顔が、少しだけ自信を持った表情に見えた。口下手でも、動ける人は強い。


 やらないことリスト、全滅。でもニロが「明日も来ていいっすか」と聞いてきた。あの若者たちが水路を見て目を輝かせた。古参は納得していないけど、その場で殴り合いにはならなかった。


 まあ、悪くない一日だった。ミケに報告しよう。「今日は三つ約束を破ったよ」って。


 ——ただ、ロクスの表情が少し気になる。涼しい顔の奥に、何か計算しているような色がある。あの目は「次はもっと面倒が来ます」の目だ。


 嫌な目だ。でも、大体当たるから困る。

お読みいただきありがとうございました!


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