第50話「噂は止まらない、人は集まる」
「カルセド家の執事は、闇の中でも目が見えるらしい」
下流の集落で聞いた噂に、お茶を吹きそうになった。
——ロクス、あんた何したの。
水量確認のために集落を訪れたら、井戸端で女たちが話し込んでいた。三人。洗濯物を絞りながら、声を低くして何かを囁き合っている。わたしの顔を見て、声を潜めた。潜めたけど、聞こえた。辺境の声を潜める基準は、だいぶ甘い。
「あの執事さん、夜中に一人で歩いてるのを見た人がいるって」
「目が光ってたって話もあるよ」
「化け物みたいだって」
「でもカルセドのお嬢さんは平気な顔してるじゃないか」
平気な顔をしている。平気な顔をするしかない。ロクスの目がたまに光ることは知っている。琥珀色が金色に変わる瞬間。あれを見た人がいるのだろう。
「違います。うちの執事は目が良いだけです。暗いところでも遠くまで見えるんです」
火消しに入った。令嬢モードの丁寧語で。
女たちが顔を見合わせた。
「お嬢さん、執事さんをかばってるんだねえ」
「かばってるんじゃなくて、事実を言ってるんですけど」
「まあまあ。でもあの目は普通じゃないよ。金色に光るんだもの」
火が消えない。むしろ燃料を足している。わたしが否定するたびに「かばっている」と解釈される。否定が裏付けになっている。
「お嬢様が火消しにお出向きになったことで、逆に話題が増えたようですね」
ロクスが背後で小声で言った。
——それ「余計なことした」って言ってるよね。
「じゃあどうすればいいのよ」
「私に聞かれましても」
「毎回それ言うね」
***
火消しは諦めた。
集落の外れに歩いていくと、若い男が二人、畑の脇に座っていた。日焼けした顔。粗末な麻の上着。手は泥で汚れている。爪の間まで土が詰まっていて、それが畑仕事の証だった。昼の休憩中らしい。木の水筒を膝に置いて、汗を拭いていた。
わたしの顔を見て、一人が立ち上がった。
「カルセドのお嬢さんですか。ちょっと聞きたいことがあるんですけど」
「はい?」
「あの、水路。カルセド村に作ったっていう水路。あれ、自分たちで作ったんですか?」
意外な質問だった。噂の火消しに来たのに、水路の話が出るとは思わなかった。
「ええ、まあ。村の人と一緒に」
「すごいですね。おれたちの集落にも欲しいくらいで。見せてもらえたりしますか?」
もう一人の若者も立ち上がった。
「おれも見たいです。どういう仕組みなのか」
ロクスが半歩前に出た。
「大変貴重な交流の機会ですね」
「つまり『計画外だけど結果オーライ』ってこと。素直に言えばいいのに」
「私は常に素直ですが」
「どこがよ」
若者たちがきょとんとした顔でわたしたちのやりとりを見ていた。すみません、気にしないでください。うちの執事はこういう生き物です。
「見に来てもいいですよ。水路がどういう形をしているか、堰の仕組みとか、説明できます」
「本当ですか!」
若者の目が光った。素直な期待の光。お世辞や打算じゃない。本当に興味を持っている。畑仕事をしている人が水の管理に興味を持つのは当然のことだ。水は命に直結するから。
「この出来事は記録に値しますね。お嬢様の噂火消しが人材確保に繋がった、と」
「その記録、絶対に残さないで」
「後世の為に」
「残すな」
***
帰り道、考えた。
噂を止めに行った。止まらなかった。代わりに、水路に興味を持つ若者が見つかった。計画と全然違う。でも、悪くない結果だ。
人が集まるのは、たぶん悪いことじゃない。カルセド領は人手が足りない。何をするにも人が要る。道の補修も、水路の管理も、橋の木材を運ぶのも。
でも。
「ロクス。人が集まるのって、面倒も増えるってことだよね」
「人間は面白いものに集まる生き物です」
「面白いもの?」
「水路は珍しい。噂はもっと珍しい。珍しいところに人は寄ります。寄った人の全員が、同じ方を向いているとは限りませんが」
それは分かっている。水路見学に来た若者と、ハウゼみたいに慎重な年配者。トーバのように黙って見守る人。全員が歓迎するわけじゃない。
若者が来れば、古参は警戒する。新しい人が入れば、元からいる人の居場所が変わる。
面倒が増える。楽したいのに。
集落の端を通り過ぎる時、ふと視線を感じた。
ハウゼだ。
家の前に立っていた。腕を組んで、こちらを見ている。声はかけてこない。斧も薪も持っていない。夕日がハウゼの横顔を照らしていて、深い皺に影が落ちていた。ただ立って、わたしとロクスが集落を歩くのを遠くから見ていた。
目が合った。
ハウゼは何も言わなかった。腕を組んだまま、小さく頷いた。
小さな頷き。前回の「口だけなら次はない」から、ほんの少しだけ距離が縮まった気がする。言葉にはならない。でも、遠くから見て、頷いてくれた。あの頷きは「勝手にやれ」じゃない。「見ているぞ」だ。見ているということは、少なくとも無視はしていない。結果次第では、一緒にやってくれるかもしれない。
「ロクス。ハウゼさん、見てた」
「ええ」
「何も言わなかったけど、頷いてた」
「そうでしたね」
「それって、どういう意味だと思う?」
「さあ。私には人の心は量りかねますが」
それはそうだろう。でも、あの頷きは悪いものじゃなかった。
夕暮れの空が赤い。雲が細く横に伸びて、橙色に染まっている。二人分の足音が草の上に響いている。遠くで山羊が鳴いた。
帰り道、ロクスが小さく言った。
「若い方が来れば、ご年配の方は警戒します」
ああ。
人が集まるって、そういうことか。面倒が、増えるのか。
水路の件。通行税の件。噂の件。人が来る件。全部つながっている。一つ解決するたびに、新しい問題が二つ生えてくる。
楽したいのに。楽したくて始めたのに。
でも、あの若者たちの目は、悪くなかった。「見せてほしい」と素直に言える人は、たぶん一緒にやれる人だ。
蝋燭を灯す頃には、木板に書くことが三つ増えていた。
一、水路見学の日程を決める。
二、ハウゼに事前に伝える。若者が来ることを。
三、噂は、止められない。
三番目を書いて、炭筆を置いた。指先が炭で黒い。もう何日目だ。洗っても落ちない。ミケが窓の桟から降りてきて、膝の上に乗った。
「ミケ。今日の報告です。噂を止めに行ったら、人が集まりました。計画通りじゃないけど、悪くないかもしれない」
ミケはわたしを見上げて、あくびをした。
「そうだよね。猫には関係ない話だよね」
ミケの体温が膝に伝わってきた。丸い背中。柔らかい毛。この重さはいつも変わらない。
窓の外で風が鳴っている。十月の夜風。冬がまた一日分、近づいた。
木板を壁に立てかけた。やることはまた増えた。でも今日は、増えた分の中に「悪くないもの」が混じっていた。
それだけで、少しだけ、気が楽になった。
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