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辺境令嬢と、退屈知らずの執事  作者: 猫野ひかる
第3章「隣人は選べない」

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第49話「抜け道を見つけた、と思った」

「見つけた!」


 夜中の書斎で叫んだわたしに、ロクスが静かにお茶を差し出した。


「おめでとうございます。それで、何をお見つけになったのでしょうか」


 ——令嬢が深夜に書斎で叫ぶ。上品さゼロ。自覚はある。自覚はあるけど、今はそれどころじゃない。


 蝋燭の火が揺れている。窓の外は真っ暗だ。虫の声すら聞こえない深夜。机の上には契約書の写しが広げてあって、わたしの書き込みで余白が埋まっている。炭筆の粉が指先を黒くしていた。爪の間にも炭が入り込んでいて、もう落とす気力もない。お茶はとっくに冷めていて、カップの底に薬草の澱が溜まっている。


「第二条。通行税の対象は『物資』。で、物資の定義が第八条にある。『形を変えた品物、すなわち加工品及び加工を経た原材料を指す』」


「はい」


「形を変えた品物。加工品。つまり——加工してなければ、物資じゃない。丸太のまま運べば、通行税の対象外になるんじゃない?」


 ロクスが契約書を覗き込んだ。琥珀色の目が文字を追った。蝋燭の光を受けて、瞳の色が揺れている。


「なるほど」


「待って待って、これいけるかも。橋の補修材は丸太のまま届ける予定だった。加工は向こうでやる。つまり、カルセド領を通過する時点では『形を変えた品物』じゃない。生のまま。未加工。物資の定義に当てはまらない!」


 声が大きくなっていた。椅子から腰が浮いた。膝が机の裏にぶつかって、契約書の束がずれた。


「いや待って、これ本当にいけるの? いや、いける。条文通りなら、いける!」


「お嬢様」


「多分!」


「多分、ですか。——念のため、こちらの条項もお読みになっては」


 ロクスの白手袋の指が、契約書の別のページを指した。第十一条。指先が紙の上に影を落として、その影がある一行の上にぴたりと止まった。


 読んだ。


 読んで、椅子に沈み込んだ。体から力が抜けていく。


「『加工の有無の判断は、徴収権者が行う』」


「つまり」


「ガレドが『これは加工品だ』と言えば、加工品。丸太でも何でも、ガレドの判断一つで物資になる」


「さようですね」


 全部、台無しだ。


 抜け道だと思ったのに。条文の穴を見つけたと思ったのに。別の条項で蓋をされていた。ガレドの裁量。徴収権者の判断。つまりガレドが「空気は加工品だ」と言えば、空気にすら税がかかる。極端な話だけど、そういう構造になっている。


 机の上に額をつけた。木の表面が冷たい。炭筆の粉がおでこにつく。気にしない。


「振り出しに戻った」


「もう一杯いかがですか。三杯目になりますが」


「飲む」


 ロクスが書斎を出て行った。お茶を淹れに。足音が廊下に遠ざかっていく。規則正しい足音だ。深夜でも乱れない。


 一人になった書斎で、蝋燭の火を見つめた。炎が揺れている。わたしの影が壁に大きく揺れた。影の形が歪んでいて、頭を抱えた自分の姿がやけに大きく見える。


 深呼吸した。吸って、止めて、吐く。蝋燭の匂い。溶けたロウの甘い匂い。


 振り出しじゃない。今の失敗から分かったことがある。条文の定義の穴は、別の条文で塞がれている。つまり、一箇所だけ見てもダメだ。全体の構造を見ないと。


***


 ロクスが戻ってきた。湯気の立つカップを二つ。薬草茶の苦い匂いが書斎に広がった。温かい匂いだ。苦いのに温かい。この矛盾が、深夜の書斎にはちょうどいい。


「ありがとう」


「どういたしまして。それで、お嬢様は続けられるのですか」


「続ける」


 契約書を最初から読み直した。今度は、一条ごとに例外条項を探す。穴を見つけるんじゃない。穴を塞いでいる条文を全部洗い出して、塞ぎ残しがないか確かめる。


 一条。二条。三条。


 四条。五条。


 六条。七条。八条。


 九条、十条、十一条。もう読んだ。全部ガレドに有利。文字を追うたびに、炭筆で木板にメモを書き足す。「ガレド有利」の印が並んでいく。


 十二条。


 手が止まった。


「ロクス」


「はい」


「十二条。『ただし、領地内で消費する分については徴収の対象外とする』」


 ロクスが契約書を覗き込んだ。指先が十二条の文字をなぞった。白手袋の指が、褪せたインクの上を滑っていく。


「領地内で消費する分。つまり、カルセド領の中で使う物は通行税がかからない」


「それはどのような範囲でしょう」


「範囲は狭い。カルセド領の外に持ち出すものは全部対象。でも、領地の中だけで使い切るなら対象外。ハウゼの集落はカルセド領の端だけど、領地内だ」


 お茶のカップを置いた。手が少し震えていた。興奮なのか疲れなのか、分からない。カップが机に当たって、こつ、と小さな音が鳴った。


「橋の補修材。樫の丸太。カルセドの山で切り出して、カルセド領内のハウゼの集落で使う。外には出ない。領地内消費」


「確かに、十二条の範囲内に見えますね」


「見えるでしょ?」


「ただし、ガレド殿がこの条項を知らないとは思えません」


「知っていても、使えなかっただけかもしれない。だって今まで、カルセド領内で物を動かす理由がなかった。父は何もしていなかったから。物が動かなければ、通行税も発生しないし、例外条項も意味がない」


 ロクスが小さく頷いた。蝋燭の光が頷く動きに合わせて、灰銀色の髪に影を落とした。


「つまり、お嬢様が動き始めたことで、例外条項が初めて意味を持つようになった、と」


「そういうこと。完全な突破じゃない。領地の外に物を出す時はガレドの通行税に引っかかる。でも、領地内のやりとりなら——」


 小さな穴だ。


 でも穴は穴だ。


***


 蝋燭がまた一本短くなっていた。机の上にロウが垂れて固まっている。固まったロウの表面が蝋燭の光を受けて、ぬらりと光った。窓の外はまだ暗い。虫の声が遠くで聞こえる。秋の虫だ。もうすぐ鳴かなくなる。


 木板に書き出した。


 一、領地内消費分は通行税の対象外。十二条。


 二、橋の補修材は領地内消費に該当する。


 三、ただし、ガレドが「これは領地外に出す予定だ」と主張した場合のリスクあり。


 四、領地外への物資輸送は、依然として通行税の壁がある。


 書き出して、眺めた。完全な勝利じゃない。領地内の小さなやりとりだけが通れる、細い穴。でも、この穴がなかったら、ハウゼに木材を届けることすらできなかった。


「失敗する未来が一通り減りまして、現在二通りです。改善ですね」


「改善て」


「失敗の見通しが三通りから二通りに減ったことを、改善と呼ばずして何と呼びましょう」


「普通は成功の見通しが増えたことを改善って言うんだよ」


「表現の違いですね」


 ——それ、失敗前提で話してるよね。


 小さな穴。でも穴は穴だ。


 ここから風を通せば、少しだけ空気が変わる。


「ロクス。明日からこの穴を広げる方法を考える」


「本日は四杯目のお茶でございますが、もう一杯いかがですか」


「……いる」


 蝋燭の火が一際明るく揺れた。窓の外がほんの少し、白くなりかけていた。夜明けが近い。闇の底が薄くなって、空の端に灰色が滲み始めている。


 明日の自分に任せよう。明日のわたしは、今日より少しだけ賢い。多分。きっと。


 お茶を受け取った。五杯目。苦い。でも温かい。その温かさだけが、夜明け前の書斎で確かなものだった。

お読みいただきありがとうございました!


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