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辺境令嬢と、退屈知らずの執事  作者: 猫野ひかる
第3章「隣人は選べない」

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第48話「知らない場所なのに、知っている」

 下流の集落から少し外れた場所に、古い祠があった。


 苔むした石段と、欠けた屋根。見たことがないはずだ。


 なのに、この石段を何度も登った気がする。


***


 そもそも今日は水量確認の日だった。


 毎週やると約束したのだから、やらなければならない。ハウゼとの約束だ。木材の件はまだ解決していないけれど、水量確認を怠ったら、それはそれで信用を失う。一つ問題が増えたからといって、先に交わした約束を放り出すわけにはいかない。


「お嬢様が自ら取り決めた責務をお果たしになるのは、大変立派なことです」


「立派じゃない。後悔してるだけ」


 堰のところまで歩いた。水路から下流へ分岐する地点。石を組んだ堰が、水の流れを二つに分けている。上流側の水面は安定していた。下流への分岐は、先週調整した通りの開き具合。水面に映る空が、歩くたびに揺れた。


 目で見て確認する。水面の高さ。堰の石の位置。流れの速さ。道具がないから、全部目視だ。目と手と足が、唯一の測定器具。


「ええ、今週も問題なさそうですわ」


 ——何が問題ないだ。毎週ここに来る方が問題だ。


 ロクスが堰の脇にしゃがんで、水面を見ていた。白手袋の指先が水に触れそうで触れない。水面に手袋の白が映って、揺れている。そのまま手を引いた。


「水温が下がっていますね。季節が進んでいます」


「十月も後半だからね。そろそろ霜が降りる」


 確認作業を終えて、集落のほうへ歩き出した。水路の脇の道は草が伸びていて、足首まで埋まる。初夏の頃より草が黄色い。枯れかけている。踏むと乾いた音がして、草の茎が靴底でぱきりと折れた。


 集落が近づいてきた。屋根の低い家々。煙突から薄い煙が立ち上っている。昼食の支度だろう。パンを焼く匂いがかすかに風に乗ってきた。温かい匂いだ。腹が鳴りそうになって、慌てて息を止めた。令嬢がお腹を鳴らしてはいけない。


 ハウゼに報告する前に、集落の外れが目に入った。


 古い石の段。苔が張りついている。その上に、小さな屋根。


 祠だ。


***


 足が勝手に向いた。


 なぜだか分からない。報告の前に、ちょっと見てみよう、くらいの気持ちだった。集落の人に聞いても「古い祠ですよ、誰も使っていません」と言われるだけだろう。


 石段の前に立った。風が祠の方から吹き降ろしてきて、枯れた草を鳴らした。


 苔が厚い。長い間、誰も登っていない。石の角が丸くなっている。雨と風に削られて、何十年も何百年もかけて丸くなった石だ。表面に細かいひびが走っていて、その隙間から苔が生えている。


 一段目に足をかけた。冷たい。靴底を通して石の冷たさが伝わってくる。


 二段目。三段目。


 数えている。無意識に数えている。


 四。五。六。


 足が覚えている。この段差の高さ。次の石が少し斜めになっていること。七段目の右端が欠けていること。欠けた角の形まで、足の裏が知っていた。


 知っている。


 七。八。九。十。


 息が浅くなった。手のひらが冷たい。十月の風のせいだけじゃない。


 十一。十二。


 十三段。


 立ち止まった。


 祠の前だ。小さな石造りの建物。屋根の端が欠けている。入口は低い。腰を屈めないと入れない。壁に——


 壁に、模様がある。


 渦を巻いた線。交差する斜線。何かの紋章のように見えるけれど、風化してほとんど消えかけている。石の表面が削れて、模様の溝が浅くなっている。


 見覚えがある。


 前の世界の記憶じゃない。あの世界にこんな模様はなかった。


 この体の記憶だ。


 指が伸びた。壁の模様に触れた。冷たい石の表面。苔の感触が指先にざらりと伝わった。模様の溝を指先がなぞる。この動き。この軌跡。なぞったことがある。小さな手で。もっと小さな手で。子供の細い指が、この溝の上を何度も何度も滑った記憶。


 足の裏が冷えている。祠の中は薄暗くて、外の光が入口から斜めに差し込んでいる。埃が光の中に舞っている。苔と、古い石と、湿った土の匂い。三つの匂いが混じって、祠の中だけの空気を作っていた。


「何か、言ってくれてもいいんだけど」


 背後に立つロクスに声をかけた。振り返らなかった。振り返れなかった。振り返ったら、この奇妙な感覚が途切れてしまう気がした。


 ロクスは何も言わなかった。入口に立って、空を見上げていた。小さく首を振っただけだ。白手袋の手が体の横にぶら下がっていて、指先だけが微かに曲がっていた。


 祠の中にしゃがんだ。壁の模様をもう一度見た。渦を巻いた線。これは何を意味する模様なのだろう。前の令嬢は知っていたのだろうか。


 この体が覚えている。この場所を。この石段の数を。壁の模様の感触を。


 わたしの記憶じゃない。わたしの体の記憶だ。


 胸の奥が、妙にざわついた。寂しいような、懐かしいような、でもどちらとも違う感覚。この体の持ち主だった誰かが、ここに来ていた。小さな手で壁を触って、石段を数えて、何度も登った。


 何のために。誰と一緒に。


 答えは出ない。この体は覚えているのに、わたしには分からない。


 膝を抱えた。冷たい石の床。膝小僧が石の表面に触れて、その冷たさが布越しに伝わってきた。祠の外から風が吹き込んで、髪を揺らした。入口の光が足元を照らしている。薄い光の帯。その向こうにロクスの影が、静かに立っている。


 ここに一人で来ていたのだろうか。それとも、誰かと一緒に。母か、父か、それとも——


 分からない。分からないけど、悲しい場所ではなかった。怖い場所でもなかった。何度も来た場所。何度も登った石段。壁の模様を指でなぞった記憶。それは、悪いものではなかった。祠の石段は十三段。その数だけが、確かなものとして残っていた。


***


 祠を出た。


 石段を下りた。十三段。今度は数えなかった。足が勝手に数を知っていた。最後の一段を降りた時、地面の柔らかさが靴底に戻ってきて、石の冷たさから解放された。


 帰り道は、しばらく黙って歩いた。


 ロクスも黙っていた。二人分の足音だけが、枯れかけた草の上に響いている。夕暮れが近い。空の色が変わりかけている。青から、薄い橙色へ。風が草を揺らした。冷たい風だ。草の穂先が風に倒れて、また起き上がる。冬が近い。


 前の世界では、誰かに話したいと思っても話す相手がいなかった。


 猫に話しかけていた。夜中に、一人暮らしのアパートで。「今日こんなことがあったんだよ」と。猫は聞いてくれなかったけど、声に出すだけで少し楽になった。


 今は。


 ——ロクスか。


 前の世界のわたしが見たら、笑うだろうな。猫から執事に昇格したねって。


 「誰かに話したい」と思った時に、自然にロクスの顔が浮かんだ。いつからだろう。分からない。でも、そうなっていた。気づいた時にはもう、そうなっていた。


「ロクス、あの祠のこと、知ってる?」


「いいえ。少なくとも、お嬢様がお生まれになる前からございますが」


「——わたし、石段の数を知ってた。十三段」


 ロクスの足が、一瞬だけ止まった。


 一瞬だけ。すぐに歩き出した。白手袋の指先が、ほんの僅かに握り込まれたのが見えた。


「十三段、ですか」


「うん。数えなくても分かった。足が覚えてた」


 ロクスは何も言わなかった。ただ、歩く速度がほんの少しだけ遅くなった。わたしに合わせるように。半歩分だけ、歩幅が縮まった。


 空が橙色に染まっていく。草の上に長い影が二つ、並んで伸びている。影の先が草の中に消えて、どこまで続いているのか分からなかった。


 祠のこと。石段のこと。壁の模様のこと。全部、話したかった。話してよかった。答えは返ってこなかったけど、隣に誰かがいて、聞いてくれている。それだけで、胸のざわつきが少し静かになった。

お読みいただきありがとうございました!


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