第46話「脳内裁判、判決は『たぶん有効』」
学院の教室で契約書の写しを広げたら、隣の席のコリンナが目を丸くした。
「これ、あんたの家の? 条件がめちゃくちゃじゃない」
知ってる。だから困ってる。
午後の講義が終わった教室は人が少ない。窓から差す日差しがインクの匂いを温めて、古い木の机がほんのり光っている。コリンナは椅子を引き寄せて、契約書の写しに顔を近づけた。
「コリンナ、少し相談があるのだけれど」
——この契約書、見せたら引くかな。引かれても仕方ない。
「相談? あたしに?」
「商家の娘として、この契約をどう思うか聞きたくて」
コリンナの指が紙の上を滑った。爪が短く整えられている。商会の帳簿を日常的にめくる手だ。指先がある一行で止まった。
「通行税の徴収権をガレド商会に委託する。期限は——双方の合意をもって終了。あんた、これ、ガレドが手放すわけないじゃん」
「知ってる」
「知ってて聞いてるの?」
「知ってるけど、他に誰に聞けばいいか分からなくて」
コリンナが椅子の背にもたれた。天井を見上げて、ふうっと息を吐いた。
「これ、うちの商会でも見たことないくらい雑な契約だよ。まず有効期限が曖昧すぎる。『当主の代替わりまで』なのか『双方の合意まで』なのか、二箇所で言ってることが違う」
「それ父に言って」
「あんたの父上に言ったところでどうにもならないでしょ。ところで——」
コリンナの声が少し低くなった。指が契約書の端を弾いた。
「カルセド家って、昔は商業拠点だったんでしょ? なんでこんな契約しちゃったの?」
商業拠点。初めて聞いた。
「え、うちが?」
「うちの祖父が言ってた。カルセド領は街道の中継地で、荷が行き来していた時代があったって。あたしも詳しくは知らないけど」
街道の中継地。わたしの知っているカルセド領は、道がぼろぼろで人もまばらな辺境の端っこだ。荷が行き来していた時代があった? それが今の惨状とどう繋がるのか。
父に何があったのか。
——考えても今は答えが出ない。先にやることがある。
「コリンナ、もう一つ聞いていい? この契約の有効期限、曖昧だから無効にならないかな」
「曖昧だから無効、は甘いと思う。曖昧な契約って、だいたい書いた側に有利に解釈されるんだよ。うちの商会でもそう。後から文句を言う側が不利」
商家の娘の言葉は、重い。実務の経験に裏打ちされた重さだ。
「つまり、ガレドが有利ってこと」
「ガレドが『この契約は有効だ』と言えば、くつがえすのは難しい。あんたが裁定官に持ち込んでも、曖昧な部分はガレドに有利に読まれる可能性が高い」
窓の外で鳥が鳴いた。教室の壁に掛かった地図の端が、風でめくれた。
「カルセドさん——ミレイア。あんたの家って面白いね」
「面白くない。全然面白くない」
「いや、面白いよ。ボロボロなのに諦めてないところが」
コリンナの目がまっすぐだった。からかっているのではない。本気で言っている。
***
帰宅後、書斎の机に契約書の原本を広げた。
蝋燭の火が揺れている。窓の外はもう暗い。十月の日は短い。書斎に漂う紙の匂い。インクの匂い。父がこの部屋で、この契約書に署名した日のことを考えた。
考えても仕方がない。読む。
「ロクス、一行ずつ確認するから、読み上げて」
「長丁場になりそうですね。お茶をお持ちしましょう」
ロクスが書斎を出て行った。戻ってきた手には、湯気の立つカップが二つ。薬草茶の苦い匂い。
「では、第一条から」
ロクスがカップを机の端に置いた。陶器と木が触れる、ことりという音。
「お願い」
「カルセド領における通行税の徴収権を、ガレド商会に委託する。期間は双方の合意をもって終了とする」
「はい、これが問題の条項。次」
「第二条。通行税の対象は、カルセド領を通過する物資および人とする。ただし、領主一族およびその使用人は除外とする」
「領主一族は除外。つまりわたしとロクスが通るのは無料、と」
「さようですね。三条に参ります。徴収額は物資の評価額の一割とし、評価はガレド商会が行う」
「ガレドが評価する。つまりガレドが『これは高い品物だ』と言えば、高い税を取れる」
「はい」
お茶を一口飲んだ。苦い。でも頭が冴える。
四条、五条、六条。読み進めるたびに、条件がガレドに有利になっていく。父は何を考えてこの契約を結んだのか。いや、何も考えていなかったのかもしれない。「金が要った」。それだけの理由で、通行税の権利をまるごと渡した。
「お嬢様、お茶のおかわりをお持ちしました。もう三杯目ですが、お茶の時間だけは平等でございますので」
「ありがとう。で、七条は?」
「有効期限について。前段で『双方の合意をもって終了』、後段で『当主の代替わりをもって再協議とする』とあります」
「再協議。終了じゃなくて、再協議?」
「ええ。ここが曖昧でして」
曖昧。コリンナも同じことを言っていた。
***
脳内裁判を開廷する。
議題: この契約は有効か。
弁護側の主張。有効期限が曖昧である。「双方の合意」と「当主の代替わり」で条件が矛盾している。よって契約自体の有効性に疑義がある。却下の余地あり。
検察側の反論。曖昧であるからこそ、ガレドが好きに解釈できる。「双方の合意」を盾にすれば永久に有効。「当主の代替わり」は「再協議」であって「終了」ではない。再協議してガレドが同条件を要求すれば、実質的に永続。
弁護側の再反論。しかし——
しかし、何だ。何も出てこない。
判決。ギリギリ有効。控訴不可。最悪。
「ロクス」
「はい」
「この契約、たぶん有効。法的に崩すのは難しい」
「私の見立てでは三通りの解釈がございます。いずれもお嬢様にとって不利ですが」
「三通り全部不利なの? 一個くらい有利なの混ぜてよ」
「事実を申し上げたまでです」
蝋燭の火が揺れた。書斎の隅が暗い。古い紙の山が、影の中で積み上がっている。
法的に崩せない。コリンナの言う通りだ。曖昧な契約は、書いた側に有利。ガレドが手放す理由がない。
お茶のカップを両手で包んだ。温かい。手のひらに伝わる熱が、唯一のまともな感覚だ。
でも。
法的に崩せないなら。契約の隙間を探す。条文の中に、ガレドが見落としている穴があるかもしれない。
「ロクス。明日もう一度、最初から読む。例外条項がないか、一条ずつ潰す」
「かしこまりました。四杯目のお茶もご用意いたしますか」
「明日は五杯飲むかもしれない」
例外条項がないか、明日もう一度読む。
「ロクス、この契約、ガレドさんは当然知ってるんだよね」
「ええ。おそらく暗記なさっているかと」
それは、つまり。ガレドは最初からこの武器を温存していた、ということだ。
干し肉の供給停止。通行税の盾。次は何を出してくるか分からない。
蝋燭の炎が、一つ、揺れた。
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