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辺境令嬢と、退屈知らずの執事  作者: 猫野ひかる
第3章「隣人は選べない」

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第46話「脳内裁判、判決は『たぶん有効』」

 学院の教室で契約書の写しを広げたら、隣の席のコリンナが目を丸くした。


「これ、あんたの家の? 条件がめちゃくちゃじゃない」


 知ってる。だから困ってる。


 午後の講義が終わった教室は人が少ない。窓から差す日差しがインクの匂いを温めて、古い木の机がほんのり光っている。コリンナは椅子を引き寄せて、契約書の写しに顔を近づけた。


「コリンナ、少し相談があるのだけれど」


 ——この契約書、見せたら引くかな。引かれても仕方ない。


「相談? あたしに?」


「商家の娘として、この契約をどう思うか聞きたくて」


 コリンナの指が紙の上を滑った。爪が短く整えられている。商会の帳簿を日常的にめくる手だ。指先がある一行で止まった。


「通行税の徴収権をガレド商会に委託する。期限は——双方の合意をもって終了。あんた、これ、ガレドが手放すわけないじゃん」


「知ってる」


「知ってて聞いてるの?」


「知ってるけど、他に誰に聞けばいいか分からなくて」


 コリンナが椅子の背にもたれた。天井を見上げて、ふうっと息を吐いた。


「これ、うちの商会でも見たことないくらい雑な契約だよ。まず有効期限が曖昧すぎる。『当主の代替わりまで』なのか『双方の合意まで』なのか、二箇所で言ってることが違う」


「それ父に言って」


「あんたの父上に言ったところでどうにもならないでしょ。ところで——」


 コリンナの声が少し低くなった。指が契約書の端を弾いた。


「カルセド家って、昔は商業拠点だったんでしょ? なんでこんな契約しちゃったの?」


 商業拠点。初めて聞いた。


「え、うちが?」


「うちの祖父が言ってた。カルセド領は街道の中継地で、荷が行き来していた時代があったって。あたしも詳しくは知らないけど」


 街道の中継地。わたしの知っているカルセド領は、道がぼろぼろで人もまばらな辺境の端っこだ。荷が行き来していた時代があった? それが今の惨状とどう繋がるのか。


 父に何があったのか。


 ——考えても今は答えが出ない。先にやることがある。


「コリンナ、もう一つ聞いていい? この契約の有効期限、曖昧だから無効にならないかな」


「曖昧だから無効、は甘いと思う。曖昧な契約って、だいたい書いた側に有利に解釈されるんだよ。うちの商会でもそう。後から文句を言う側が不利」


 商家の娘の言葉は、重い。実務の経験に裏打ちされた重さだ。


「つまり、ガレドが有利ってこと」


「ガレドが『この契約は有効だ』と言えば、くつがえすのは難しい。あんたが裁定官に持ち込んでも、曖昧な部分はガレドに有利に読まれる可能性が高い」


 窓の外で鳥が鳴いた。教室の壁に掛かった地図の端が、風でめくれた。


「カルセドさん——ミレイア。あんたの家って面白いね」


「面白くない。全然面白くない」


「いや、面白いよ。ボロボロなのに諦めてないところが」


 コリンナの目がまっすぐだった。からかっているのではない。本気で言っている。


***


 帰宅後、書斎の机に契約書の原本を広げた。


 蝋燭の火が揺れている。窓の外はもう暗い。十月の日は短い。書斎に漂う紙の匂い。インクの匂い。父がこの部屋で、この契約書に署名した日のことを考えた。


 考えても仕方がない。読む。


「ロクス、一行ずつ確認するから、読み上げて」


「長丁場になりそうですね。お茶をお持ちしましょう」


 ロクスが書斎を出て行った。戻ってきた手には、湯気の立つカップが二つ。薬草茶の苦い匂い。


「では、第一条から」


 ロクスがカップを机の端に置いた。陶器と木が触れる、ことりという音。


「お願い」


「カルセド領における通行税の徴収権を、ガレド商会に委託する。期間は双方の合意をもって終了とする」


「はい、これが問題の条項。次」


「第二条。通行税の対象は、カルセド領を通過する物資および人とする。ただし、領主一族およびその使用人は除外とする」


「領主一族は除外。つまりわたしとロクスが通るのは無料、と」


「さようですね。三条に参ります。徴収額は物資の評価額の一割とし、評価はガレド商会が行う」


「ガレドが評価する。つまりガレドが『これは高い品物だ』と言えば、高い税を取れる」


「はい」


 お茶を一口飲んだ。苦い。でも頭が冴える。


 四条、五条、六条。読み進めるたびに、条件がガレドに有利になっていく。父は何を考えてこの契約を結んだのか。いや、何も考えていなかったのかもしれない。「金が要った」。それだけの理由で、通行税の権利をまるごと渡した。


「お嬢様、お茶のおかわりをお持ちしました。もう三杯目ですが、お茶の時間だけは平等でございますので」


「ありがとう。で、七条は?」


「有効期限について。前段で『双方の合意をもって終了』、後段で『当主の代替わりをもって再協議とする』とあります」


「再協議。終了じゃなくて、再協議?」


「ええ。ここが曖昧でして」


 曖昧。コリンナも同じことを言っていた。


***


 脳内裁判を開廷する。


 議題: この契約は有効か。


 弁護側の主張。有効期限が曖昧である。「双方の合意」と「当主の代替わり」で条件が矛盾している。よって契約自体の有効性に疑義がある。却下の余地あり。


 検察側の反論。曖昧であるからこそ、ガレドが好きに解釈できる。「双方の合意」を盾にすれば永久に有効。「当主の代替わり」は「再協議」であって「終了」ではない。再協議してガレドが同条件を要求すれば、実質的に永続。


 弁護側の再反論。しかし——


 しかし、何だ。何も出てこない。


 判決。ギリギリ有効。控訴不可。最悪。


「ロクス」


「はい」


「この契約、たぶん有効。法的に崩すのは難しい」


「私の見立てでは三通りの解釈がございます。いずれもお嬢様にとって不利ですが」


「三通り全部不利なの? 一個くらい有利なの混ぜてよ」


「事実を申し上げたまでです」


 蝋燭の火が揺れた。書斎の隅が暗い。古い紙の山が、影の中で積み上がっている。


 法的に崩せない。コリンナの言う通りだ。曖昧な契約は、書いた側に有利。ガレドが手放す理由がない。


 お茶のカップを両手で包んだ。温かい。手のひらに伝わる熱が、唯一のまともな感覚だ。


 でも。


 法的に崩せないなら。契約の隙間を探す。条文の中に、ガレドが見落としている穴があるかもしれない。


「ロクス。明日もう一度、最初から読む。例外条項がないか、一条ずつ潰す」


「かしこまりました。四杯目のお茶もご用意いたしますか」


「明日は五杯飲むかもしれない」


 例外条項がないか、明日もう一度読む。


「ロクス、この契約、ガレドさんは当然知ってるんだよね」


「ええ。おそらく暗記なさっているかと」


 それは、つまり。ガレドは最初からこの武器を温存していた、ということだ。


 干し肉の供給停止。通行税の盾。次は何を出してくるか分からない。


 蝋燭の炎が、一つ、揺れた。

お読みいただきありがとうございました!


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