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辺境令嬢と、退屈知らずの執事  作者: 猫野ひかる
第3章「隣人は選べない」

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第45話「父の契約書が、全部邪魔」

 父の書斎は埃の匂いがする。


 この部屋に入るのは三回目だけど、毎回新しい地雷が見つかる。今日もきっと、何か出てくる。出てこないでほしいけど。


 棚の上に積まれた書類の束を下ろした。埃が舞って、蝋燭の炎が揺れた。紙が古い。端が茶色くなっている。インクが褪せていて、文字がかすれている箇所がある。紙の表面がざらざらしていて、指先にその粗さが伝わる。何年も誰にも触れられなかった紙の手触りだ。


「ロクス、これ読める?」


「どれでしょう」


 一枚目を渡した。ロクスが白手袋の指で紙の端を持ち上げた。丁寧に、紙が破れないように。手袋越しでも指先の動きが繊細で、古い紙がまったく軋まなかった。


「カルセド領における木材の伐採権に関する取り決め、でしょうか。日付は——二十年前」


「二十年前。お父様がまだ若い頃?」


「おそらく」


 二枚目。商人との取引条件。三枚目。隣の領地との境界に関する覚書。どれもインクが褪せていて、文字を追うのに蝋燭を近づけなければならない。紙の端が炎の熱で僅かに丸まった。


 四枚目——


 手が止まった。


 インクが褪せた文字を、蝋燭の光に翳した。古い紙の匂いが鼻をつく。インクと、埃と、何か甘いような——古い糊の匂いだ。文字が揺れる炎に照らされて、影と光の間を行ったり来たりしている。


「ロクス」


「はい」


「この契約、通行税の徴収権って書いてある?」


 ロクスが紙を受け取った。琥珀色の目が文字を追った。白手袋の指が、紙の上をゆっくりと滑った。手袋の下で指先に凹凸があるのが、蝋燭の光でかすかに見えた。いつも見えているのに、いつも見ないふりをしている。


「カルセド領内を通過する物資および人に対する通行税の徴収権を、ガレド商会に委託する。期限は——記載がありませんね」


「期限なし?」


「正確には、『双方の合意をもって終了とする』とあります」


「双方の合意って、つまりガレドが嫌だと言ったら終わらないってこと?」


「そういうことになりますね」


 椅子の背にもたれた。天井を見上げた。書斎の天井は低くて、蜘蛛の巣がかかっている。蜘蛛の巣に埃がまとわりついて、揺れている。蝋燭の炎が作る影が天井を這って、蜘蛛の巣の影が壁に伸びた。


 通行税の徴収権。ガレド商会に。期限なし。


 つまり、カルセド領を通る物や人に税をかける権利が、ガレドにある。わたしたちの土地なのに、ガレドが通行料を取れる。


 ——何考えてたんだこの人。


***


 父を呼びに行った。


 書斎の奥の、さらに奥。暗い部屋の椅子に座っていた。窓から差す夕日が、父の横顔を照らしていた。無精ひげ。目の下の隈。四十代なのに、六十代に見える。夕日の橙色が顔の片側だけを照らしていて、反対側は影の中に沈んでいた。半分だけ光に当たった顔が、この人の今の在り方そのものだった。


「お父様、この契約について少しお伺いしたいのですが」


 令嬢モードの声。棒読み。声が部屋の暗がりに吸い込まれて、壁に跳ね返ってこなかった。


 ——何考えてたんだこの人。


「ああ。何だ」


 父が振り向いた。眠そうな目。興味がない。わたしの手にある紙を見て、少し目を細めた。細めた目の奥に、何かが動いた気がした。認識。あるいは記憶。ほんの一瞬で消えた。


「この契約です。ガレド商会に通行税の徴収権を委託した件」


「ああ、あれか」


 三文字。三文字で片づけた。二十年以上の契約を、三文字。


 ロクスが書斎の入口に立っていた。扉の枠に寄りかかることもなく、真っ直ぐに立っている。その姿勢が、この場の空気を張り詰めさせている。


「旦那様の過去のご英断が、今なお効力を発揮しておいでですね」


「褒めてない。絶対褒めてない」


 父はロクスの言葉に反応しなかった。視線が紙の上をさまよった。目が文字を追っているのか、追っていないのか。焦点が合っていないように見えた。


「あの頃は色々やったんだが」


 声が低くなった。遠い目をした。窓からの夕日が、父の皺を深く見せた。一瞬だけ、若い頃の面影が見えた気がした。何かを必死にやっていた頃の、まだ諦めていなかった頃の。顎の線が一瞬だけ引き締まって、すぐに緩んだ。


 一瞬だけだった。すぐに、いつもの投げやりな表情に戻った。肩が落ちて、背中が丸くなる。椅子に体が沈み込んでいく。


「好きにしろ」


 それだけ言って、父は椅子の背にもたれた。目を閉じた。会話は終わりらしい。


 好きにしろ。いつもそうだ。好きにしろ。でもこの契約は、好きにできないから問題なんだ。ガレドとの双方合意がなければ解除できない。ガレドが自分から「もういいですよ」と言うわけがない。あの商人は金の匂いがする場所から自分では離れない。


「お父様。なぜこの契約を?」


「金が要ったんだ」


 目を閉じたまま、ぼそりと言った。声が小さくて、聞き取るのに一瞬かかった。


「ガレドが金を出してくれた。代わりに通行税の権利をやった。当時は通行なんてほとんどなかったからな。タダで金が入ったようなもんだった」


「今は違います」


「そうだろうな」


 それだけだった。


 父の目は閉じたままだ。夕日が部屋を橙色に染めて、埃が光の中に漂っている。書斎に漂う古い紙の匂い。インクと、埃と、諦めの匂い。父の呼吸が浅くなって、もう眠りかけているのか、起きているのにそうしているのか、判別がつかない。


***


 自分の部屋に戻った。


 木板を引き寄せた。炭筆を持った。指先がまた炭で黒くなる。昨日も今日も、指先は黒い。


 現状を書き出す。


 一、水利の暫定合意は取れた。毎週の水量確認が必要。


 二、ガレド商会が通行税の徴収権を持っている。期限なし。解除にはガレドの同意が必要。


 三、父の過去の契約が、今のわたしの足を引っ張っている。


 四、ガレドの干し肉供給停止は継続中。


 五、監査官の期限は迫っている。


 書き出して、眺めた。炭筆の文字が木板の上に並んでいる。五つの項目。どれも解決していない。一つ目だけが「暫定」という頼りない冠詞つきで進んだだけだ。


 収入はほぼゼロ。支出は不明。通行税はガレド持ち。父は無関心。監査官の期限は刻々と近づいている。


 ——負債企業じゃん。起業どころの話じゃない。債務超過の会社を引き継いだ新人社長みたいな状況。新人社長っていうか、十五歳の令嬢だけど。


 窓の外が暗くなっていた。蝋燭の灯りだけが、部屋を照らしている。炭筆が木板の上を走る音。自分の呼吸の音。それしか聞こえない部屋が、今は広すぎる。


 足元に温かいものが来た。ミケだ。今日も来てくれた。足首に体を押しつけて、ぐるりと一周まわった。


 膝に乗せた。丸い体が、蝋燭の灯りに照らされている。金色の目が、わたしの顔を見上げた。まばたきを一度して、目を細めた。


「ミケ。今日の発見を報告します」


 ミケは答えない。目を細めて、欠伸をした。大きな欠伸だ。ピンク色の口の中が見えて、小さな歯が光った。


「お父様の契約が、全部邪魔です。通行税だけじゃなくて、他にもありそう。書斎の棚にはまだ読んでいない書類が山ほどある」


 ミケが膝の上で丸くなった。欠伸の後の、満足そうな顔。目を閉じて、体の力が抜けていく。丸くなるたびに体が少し沈んで、膝の上の重さが増す。


 木板の箇条書きを見返す。契約が邪魔。商人が邪魔。父が原因。


 水利は一歩前に進んだ。でも内側から新しい壁が出てきた。外の問題を解決しかけたと思ったら、中の問題が湧いてくる。もぐら叩きだ。一つ叩いたら隣から顔を出す。


「ミケ、この契約って他にもあるのかな」


 ミケは答えない。でも、木板の隅に「確認要」と書き込んでいた。


 蝋燭の炎が揺れた。窓の外で風が鳴っている。十月の夜風。冬が近い。風の音が遠くから近づいてきて、窓を叩いて、また遠ざかっていった。


 木板を壁に立てかけた。明日の朝、また見る。やることは増える一方だ。楽したいのに。楽したくて始めたのに。


 でも、やるしかない。


 ミケの寝息が膝の上で聞こえた。温かくて、重くて、何も考えていない寝息。小さな体が規則正しく膨らんで、しぼんで、また膨らむ。


 この重さだけが、今日も変わらない。

お読みいただきありがとうございました!


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