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辺境令嬢と、退屈知らずの執事  作者: 猫野ひかる
第3章「隣人は選べない」

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第44話「交渉力、45点」

「橋が壊れかけているのは知ってるか」


 ハウゼの第一声がそれだった。挨拶もなし。でも今日は、わたしも挨拶から入るつもりはない。


「いいえ。教えてください」


 ハウゼの眉が動いた。ほんの少し、意外そうに。眉の下の目が一瞬だけ開いて、すぐに元の細さに戻った。


 前回と違うことが一つあった。今日はハウゼの家の前に、椅子が出ていた。粗末な木の椅子が二つ。座面の板が少し反り返っていて、何度も使い込まれた色をしている。座れ、と言われたわけじゃない。でも出ている。前回は立ったまま追い返されたのだ。椅子があるだけで、空気が違う。


「座れ」


 短い一言。ハウゼは自分の椅子に腰を下ろして、腕を組んだ。椅子が軋んだ。腕組みは変わらない。でも、座った。前回は背中を見せて歩き去ったのに、今日は座って、こっちを見ている。


 わたしも座った。椅子が軋んだ。ロクスは立ったまま、半歩後ろに控えている。白手袋の両手が背中の後ろで組まれていて、気配を消すように静かだった。


「ほう。今日は聞きに来たのか」


 前回との違いに、気づいている。


「はい。ハウゼさんが何に困っているか、教えてください」


「水のことじゃなくてか」


「水のことも含めて。それ以外にも」


 ハウゼの指が自分の膝を叩いた。ゆっくりとしたリズムで、二回、三回。骨ばった指が布越しに膝の骨を叩く、こつ、こつ、という音。考えている時の癖らしい。四回目で止まった。


「橋の木が腐りかけてんだ。水の話の前にこっちだ」


 橋。水じゃない話が出てきた。ハウゼの口から水以外の話が出たということは、少なくとも今日は追い返す気がないということだ。


「集落の東にある橋だ。川を渡る唯一の道で、あれが落ちたら向こう岸の畑に行けなくなる。木材が要る。だがこの辺りじゃ良い木が手に入らん」


「木材ですか」


「カルセドの山のほうには樫がある。前にあんたの親父に頼んだが、返事がなかった」


 父に頼んだ。返事がなかった。


 また父だ。ハウゼの声に怒りはなかった。怒りではなく、諦めだった。「返事がなかった」という五文字に、何度頼んでも無視された時間が詰まっている。


 口を開きかけて、止めた。ここで「お父様は無関心で」と言ったら、前回と同じだ。言い訳になる。言い訳は聞きたくない。ハウゼも、わたし自身も。


「橋の木材のこと、もう少し詳しく聞かせてください。何本くらい必要で、いつまでに」


 ハウゼの指が膝を叩くのを止めた。手が膝の上で止まって、指先が布を掴んだ。


「三本。太さはおれの腕ぐらい。冬前に替えないと、雪でやられる」


「冬前」


「そうだ」


 木材三本。カルセドの山には樫がある。トーバの畑の近くにも、使えそうな木を見た覚えがある。


 これなら、できる。


***


「ハウゼさん。提案があります」


 ハウゼが腕を組んだまま、顎を引いた。聞く姿勢だ。前回は背を向けたのに、今日は顎を引いてくれた。顎を引くだけの動きが、前回の「帰れ」よりもずっと重い意味を持っている。


「淵のことと、橋のこと。両方一緒に考えさせてください」


「一緒に?」


「水路から淵に水を引く補水路を作ります。流水を直接入れるんじゃなくて、手前で堰き止めて、ゆっくり淵に溜まるようにします。来年の秋までに、亜麻が漬けられる水位に戻します」


「来年、ね」


「それと、橋の木材。カルセドの山から樫を三本、冬前にお届けします」


 沈黙が落ちた。


 ハウゼが何も言わない。腕を組んだまま、わたしの顔を見ている。表情が読めない。目が細くなって、口元が一文字に結ばれている。視線がわたしの目から離れない。こちらの覚悟を測っているのか、嘘を探しているのか。


 ——もし断られたら。振り出し。下流との関係が切れる。水路の問題が残る。孤立。冬を越せない。破産。


 やめよう、考えるの。今は黙って待つ。


 日差しが強い。広場の地面に陽が当たって、土の色が明るく見えている。ハウゼの影が長く伸びていた。影の先がわたしの足元まで届いている。沈黙が続く。虫の音が耳に入ってきた。秋の虫が草の中で鳴いている。


 遠くの軒先に、小柄な老女が立っていた。白髪を後ろで束ねた、腰が曲がり気味の人。トーバだ。こちらを見ている。口は出さない。ただ、見守っている。皺だらけの手が前掛けの裾を握っていた。


 ハウゼの指が、膝の上で一度だけ叩いた。乾いた音。


「まあ、試してみてもいい」


 息が止まった。肺の中の空気が全部固まったような感じがした。


「ただし、淵の水位は定期的に確認する。浅くなったら、今度はおれが直接行く」


「定期的に」


「そうだ。口約束だけじゃ信用できん。目で見せろ。——あんたが前に計算がどうとか言ったんだ。計算通りにいってるか、見届ける」


 前回のわたしの言葉を、そのまま返された。


 皮肉なのか、条件なのか。たぶん両方。ハウゼの口の端が、ほんの僅かに上がった。笑ったのではない。「ここまでは認めてやる」という線引きの表情だった。


「分かりました。淵の水位を定期的に確認して報告します」


 立ち上がった。ハウゼも立ち上がった。椅子が軋んで、木の音が広場に響いた。


 手を差し出した。握手。辺境では、これが約束の形。


 ハウゼの手は硬かった。骨ばっていて、節くれ立っていて、六十年分の畑仕事が刻み込まれた手だ。握り返す力は強い。掌のたこが指にこすれた。土と日差しの匂いがした。


「次に嘘ついたら、許さんぞ」


「嘘はつきません」


「そうか」


 手が離れた。ハウゼの指先が離れる瞬間、力が少しだけ緩んだ。ほんの少しだけ。


 ロクスが半歩後ろで、静かに頭を下げた。白手袋の指先が、かすかに揺れた。


「お嬢様の粘り強い交渉のおかげですね」


 ——粘り強いというか、しつこいだけでは。


 軒先のトーバが、微かにうなずいた気配があった。見間違いかもしれない。でも、あの小さな動きが、合意の証人のように思えた。


***


 帰り道は、足取りが軽かった。


 夕暮れが近い。秋の空が高い。雲が薄く伸びて、西の端がうっすらと橙色に染まりかけている。草を踏む足音が、行きより速い。靴底が草を蹴る小気味いい音が続いて、体が前に前に進みたがっている。


「やった」


 声に出した。小さく。でも声に出したら、体の奥からじわりと温かいものが込み上げてきた。


「おめでとうございます。暫定合意ですね」


「暫定だけどね。まず第一歩」


「素晴らしい第一歩です。ところで、定期的な水位確認はどなたが」


 足が止まった。


「わたし......だよね」


「でしょうね」


「定期的に、下流まで歩いて?」


「淵の水位を目視で確認し、報告するという約束でしたが」


「目視って、何を基準に?」


「淵の縁に印をつけて、水面が印より下がっていないかを見るのが現実的かと」


「つまり、定期的にここまで来て、目で見て、ハウゼさんに報告する」


「はい」


 楽したいから水路を直した。水路を直したら下流の淵が浅くなった。淵の問題を解決したら、定期的な確認作業が増えた。


 楽したいのに、やることが増える。この構造、もうずっとこれだ。


「交渉力: 四十五点。前回が三点だから、十五倍の成長」


「大変な伸びですね」


「比較対象が低すぎて参考にならない」


 ロクスが小さく首を傾げた。あの動き。面白いものを見つけた時の、あの仕草。灰銀色の髪が風に揺れて、琥珀色の目が細くなった。


「でも」


 空を見上げた。夕暮れの空が広い。橙と薄紫が混じった色が、地平線まで続いている。


「四十五点は、悪くない」


 帰りの道すがら、ふと思い出す。父の書斎にあった契約書の束。棚の上に積み上げられた、埃を被った紙の山。


 あの中に「通行」って書いてあったような気がする。水の件が片付きかけた今だから、気になる。ガレドの妨害はまだ続いている。通行に関する契約があるなら、それは次の問題に直結する。


「ロクス。お父様の契約書、全部読んだことある?」


「——いえ。旦那様は、あまり見せたがらないようでして」


 ロクスの声が、ほんの少しだけ低くなった。珍しいことだ。いつもの穏やかな声より、半音だけ低い。白手袋の指先が、一瞬だけ握られた。


 見せたがらない。父が隠しているのか、単に無関心で整理していないだけなのか。


 どちらにしても、確認しないわけにはいかない。

お読みいただきありがとうございました!


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