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辺境令嬢と、退屈知らずの執事  作者: 猫野ひかる
第3章「隣人は選べない」

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第43話「ロクスが傷口に塩を振ってくる」

「お嬢様は率直にご意見を述べられただけです」


 朝からそれか。昨日の反省が足りないとでも言いたいの、この執事。


 ——それ、「デリカシーゼロ」の丁寧版でしょ。


 中庭のベンチに座って、お茶を飲んでいた。ロクスが淹れた薬草茶。苦いけど体が温まる。十月の朝は、吐く息が白くなりかけている。石のベンチがお尻に冷たい。座った瞬間に体温を持っていかれて、何度座り直しても温まらない。カップの温かさだけが、両手に残る感触だった。


「率直じゃなくて、無神経だったんだよ。ハウゼさんが布を作れないって言ってるのに、計算の話をしたんだから」


「数字は事実ですが」


「事実を突きつけても、畑は元に戻らないでしょ」


 ロクスが湯気の立つカップを持ったまま、わたしの隣に立った。座らない。いつも立ったままだ。この人が座るところを見たことがない。立ったまま、カップの縁に唇を近づけて、湯気だけ吸い込んでいるようにも見える。飲んでいるのか飲んでいないのか、それすら分からない。


「ハウゼ殿のご不満はごもっともでして」


「要するに、わたしが全面的に悪いって言いたいんでしょ」


「私はそのような単純な表現は使いません」


「使ってるよ、丁寧に」


 ロクスのカップが僅かに傾いた。笑っているのか、呆れているのか。琥珀色の目が朝日を受けて、一瞬だけ金色に見えた。


 一瞬だけ。いつも一瞬だけ。その一瞬が、わたしの視界の端で消えていく。


「お嬢様。一つ、よろしいですか」


「どうぞ」


「お嬢様の交渉初戦の記録として、後世に残しておくべきかと」


「やめて。消して。燃やして」


「記録は大切です。同じ失敗を繰り返さないために」


「記録して煽るために残す気でしょ」


「お嬢様は、私のことをよくご理解くださっている」


 悔しいけど、否定できない。否定できないのが一番悔しい。


 中庭の隅で鶏が鳴いた。甲高い声が朝の空気を裂いて、余韻が石壁に跳ね返る。朝の光がベンチの上に模様を作っている。木漏れ日——と言いたいところだけど、木が少ないから石漏れ日だ。石壁の隙間から差し込む光が、足元の地面に細い線を引いている。その線の上を蟻が一列に歩いていた。蟻は迷わない。目的地が分かっているから。わたしは蟻以下だ。


 お茶をひと口飲んだ。苦い。でも、昨日の失敗よりは苦くない。薬草の渋みが舌の奥に残って、じわりと温かさに変わる。


 ロクスがカップを持ったまま、中庭の端に目を向けた。屋根の縁に、丸い影がある。ミケだ。朝からあそこにいる。屋根の上から中庭を見下ろしている。ロクスのほうを見ている、ように見える。金色の目が、朝日の中で光っている。


 ミケはロクスに近づかない。最初は逃げていた。次は威嚇していた。今は屋根の上から、ただ見ている。近づかないけど、逃げもしない。


 猫なりの距離感なのか、それとも。


「ロクス。ミケ、またあそこにいるよ」


「ええ。毛玉殿は見晴らしの良い場所がお好きなようで」


 毛玉殿。この人はミケをそう呼ぶ。ミケのほうはロクスを何と呼んでいるのか。呼んでいないか。猫だから。


 屋根の上のミケが、金色の目をこちらに向けた。わたしを見て、ロクスを見て、また前を向いた。何を考えているのか分からない。猫だから、何も考えていないのかもしれない。でも時々、あの金色の目は何かを知っているような顔をする。尻尾の先だけが、ゆっくりと揺れていた。


***


 昼前に村を歩いた。


 別に目的があったわけじゃない。屋敷にいるとロクスの煽りが続くから、外の空気を吸いたかっただけ。秋の日差しが薄く地面を照らしていて、石壁の間を歩くと影が交互に体を包む。暖かさと冷たさが、三歩ごとに入れ替わった。


 井戸のそばを通りかかった時、声が聞こえた。


「執事殿は夜目が利くらしいよ」


「あの目は普通じゃないって。金色に光るって聞いたけど」


 村の女たちが二人、井戸の水を汲みながら話していた。わたしに気づいていない。声がよく通る。辺境の村は静かだから、噂話は遠くまで届く。


「うちの旦那が言ってた。夜中に中庭にいるのを見たって。あの目で暗がりを見てたって」


「竜の伝承で聞いたことあるよ。金色の目は——」


「やめなよ、そういう話。軽々しく口にするもんじゃないって」


 足が止まった。


 井戸の水を汲む音が響いた。桶が水面を叩く、ぱしゃんという音。その音が、静かな村に妙に大きく響いた。水の跳ねる音が消えても、胸の中で余韻が鳴り続けている。


 噂が、変わっている。「金色の光を見た」が「夜目が利く」になって、「目が普通じゃない」になっている。尾ひれがついて、でも本質には近づいている。


 気のせいだ。


 気のせい。


 聞かなかったことにする。わたしは水路と下流の問題で手一杯で、ロクスの目がどうとかいう噂に構っている余裕はない。余裕がないから聞かない。余裕がないだけ。それだけ。


 そう自分に言い聞かせながら、井戸の脇を足早に通り過ぎた。遠くで鶏が鳴いている。土埃が舞った。日差しが背中を照らして、自分の影が前に伸びた。影は何も語らない。


***


 書斎に戻った。


 ロクスが窓際に立っていた。午後の光が書斎の埃を照らしている。細かな塵が光の中を漂って、ゆっくりと落ちていく。古い本の匂い。紙とインクと、少しだけカビ。この匂いは、もう慣れた。


「ロクス」


「はい」


「明日、もう一回行く」


「そうおっしゃると思っておりました」


「今度は、やり方を変える」


「どのように」


 木板を引き寄せた。炭筆を持った。指先が炭で少し汚れる。その感触が、考えを形にする合図のようだった。炭筆の先が木板の表面をこする、乾いた小さな音が書斎に響く。


 昨日の反省点は四つ書いた。今日は、方針を書く。


「まず、聞く。相手の困りごとを、全部聞く。こっちの提案は後」


「なるほど。では、お嬢様はハウゼ殿の何を知っておいでですか」


 手が止まった。炭筆の先が木板の上で止まって、黒い点だけが残った。


「何をって」


「ハウゼ殿が何に困っているか。水以外に何を求めているか。なぜカルセド家を嫌っているのか。六十年の間に何があったのか。お嬢様はそのうちどれかをご存じですか」


 全部、知らない。


 淵の水が浅くなって亜麻が漬けられないこと。それしか知らない。それ以外のことを、何一つ聞いていない。聞こうともしなかった。


「何も」


 認めるのは悔しかった。声が小さくなった。でも事実だ。事実から目を逸らすのは、昨日のわたしがやったことだ。


「何も知らない。だから、聞きに行く」


 ロクスが小さく頷いた。白手袋の指先が、腕の前で組まれた。窓からの光がロクスの横顔を照らして、灰銀色の髪が白く輝いた。


「よろしいかと思います」


 煽りじゃない、素の声だった。たぶん。声の温度がほんの少しだけ変わった。いつもの面白がっている温度ではなく、もっと静かな、認めるような温度。


 たぶん、だけど。


 木板に炭筆を走らせた。方針は、たった一行。


 「まず、聞く」


 単純すぎて笑える。でも昨日のわたしにはこれすらできなかった。


 炭筆を置いて、木板を壁に立てかけた。明日、出かける前に見る。忘れないように。文字が斜めになっているのは、手が震えていたからじゃない。もともと字が下手なだけだ。


 窓の外で風が鳴った。夕方が近い。光が橙色に傾いて、書斎の埃が金色に見えた。明日は、まず聞く。それから考える。

お読みいただきありがとうございました!


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