第42話「合理的に説明したら、怒らせた」
下流の集落は、カルセド村とは空気が違った。
乾いた土の匂い、山羊の糞と、焼いたばかりのパンの香り。家々の屋根は低く、石垣には苔がこびりついている。道の脇に亜麻の束が積まれているのが目に入った。茶色く枯れた茎の束。水に漬けるはずのものが、乾いたまま放置されている。
ここの暮らしに、わたしの水路が影響を出している。
集落の中ほどにある広場に、男が立っていた。
痩せた長身。日焼けした深い皺。灰白の短い髪。腕を組んで、こちらを見ている。骨ばった手の指が、二の腕に食い込むほど強く組まれていた。足は肩幅に開いて、地面にしっかりと根を張るように立っている。六十年この土地で生きてきた人の、動かない立ち方だった。
「カルセドの嬢さんか。——で、用件は」
挨拶なし。目が笑っていない。期待していないのが、声だけで分かる。声の低さが、広場の空気を重くしている。
「ご不便をおかけしております。水のことで、直接お話を伺いたくて参りました」
令嬢モード。棒読みだけど、精一杯の丁寧。自分の声が上ずっているのが分かる。喉の奥が乾いている。
——ご不便どころじゃない。わたしが水を奪ったって話だよね、これ。
ハウゼはわたしの言葉を聞いて、腕組みを解かなかった。視線だけがロクスに移った。値踏みするような目だ。ロクスの黒い執事服と白手袋を見て、目が細くなった。
「口だけじゃねえだろうな」
ロクスが軽く頭を下げた。
「ハウゼ殿は、お嬢様の誠意を確認なさりたいようですね」
——それ「信用してない」の丁寧版でしょ。
「誠意とかじゃねえ。カルセドの当主が何をしてきたか、おれは六十年見てきた」
六十年。ハウゼの皺の一本一本に、その年月が刻まれているようだった。額の深い横皺、目尻から頬に走る縦の線。この人はわたしを見ているんじゃない。カルセド家を、父を見ている。
「ハウゼさん。わたしは父とは違います。水路のことで下流に影響が出ているなら、それは」
「知ってるよ。上で水路を弄ったんだろう。おかげで淵の水が浅くなって、亜麻が漬けられん。今年の布はどうなる」
布。そうだ、亜麻の水漬けの件。秋に約束したまま、まだ解決していない。広場の隅に目をやると、亜麻の茎束が山積みになっていた。漬けられないまま、秋を越そうとしている。
***
「説明させてください」
広場の石段に座った。ハウゼは座らなかった。立ったまま、腕を組んだまま。わたしだけが見上げる形になる。石段が尻に冷たい。十月の石はもう冬の温度を含んでいて、座った瞬間に体温を奪っていく。
「水路の改修で川の流れが変わったのは事実です。でも、全体の水量は減っていません。畑に届く水は十分で」
「畑の話をしてるんじゃねえ」
「淵の水位については、補水の方法を検討しています。上流から分岐路を引いて、淵に水を回せるかと」
「数字の話はいい」
ハウゼの声が低くなった。それまでも低かったのに、さらに一段下がった。広場の空気が変わった。山羊が一頭、広場の隅で耳を伏せた。
「おれたちが布を作れなくなったのは事実だ。冬の着替えも、売りに出す分もない。そっちはどうするつもりだ」
「ですから、計算し直せば淵の水位は——」
言いかけた瞬間、ハウゼの表情が変わった。
閉じた。完全に。
腕を組んだまま、目が冷たくなった。「計算し直せば」。その言葉が、何かの蓋を閉めた。目の奥にあった僅かな「聞いてやるか」の色が、消えた。
「計算、ね」
ハウゼの声には感情がなかった。感情がないことが、怒りよりずっと怖い。声から温度が抜けて、乾いた砂のようになった。
「計算し直す。そうだろうな。計算ってのはあんたの頭の中の話だ。おれたちの暮らしは計算に入ってなかったんだろうよ」
「いえ、そういう意味では」
「帰れ」
ハウゼが背を向けた。広い背中が壁のようだった。
「口先だけなら、あんたの親父と同じだ」
息を吸おうとして、うまく吸えなかった。エプロンの裾を握りしめていた。いつの間に。ハウゼの背中が遠ざかっていく。大股の、迷いのない歩き方。一度も振り返らなかった。
広場に残されたのは、わたしとロクスだけだった。
山羊が一頭、広場の隅で草を食んでいる。何事もなかったかのように。山羊は交渉の失敗なんか知らない。草を食べて、水を飲んで、それだけだ。
***
帰り道は、長かった。
夕暮れの光が草原を橙色に染めている。足元の草を踏む音だけが続いた。風が冷たくなっている。十月の夕方は、もう冬の気配がする。首筋に当たる風がひんやりとして、体が縮こまる。
ロクスが何も言わなかった。
隣を歩いているのに、一言も。足音だけが規則正しく続いている。わたしの足音は乱れていて、石を踏む音がばらばらだ。歩幅が合わない。ロクスはいつも通りの半歩後ろ。その距離が今日は、やけに遠く感じる。
五十歩くらい歩いて、我慢できなくなった。
「ロクス、何か言ってよ」
ロクスが首をわずかに傾げた。琥珀色の目がわたしの顔を見て、また前を向いた。夕日を受けた琥珀色が、一瞬だけ金色に光った。一瞬だけ。
「何か言ってって、言ったんだけど」
沈黙。草原を渡る風の音だけが答えだった。
「それが一番きつい」
「お嬢様ご自身でお気づきになるのを待っておりました」
「気づいてるよ。全部わたしが悪い」
「私はそのような言い方をしておりませんが」
「してるよ。黙ってることで」
ロクスの白手袋の指先が、ほんの少し動いた。何かを言いかけて、やめたような動き。あの手袋の下の感触を、わたしは知らない。知ろうとしていない。
夕暮れの風が髪を揺らした。亜麻色の髪が視界にかかって、目の端が暗くなる。
気がつくと、頬杖をつくように顎に手を当てていた。歩きながら。考え事をするとこうなる。ロクスに「令嬢らしくございません」と言われる、あの癖。
——合理的に説明すれば通じると思った。数字を見せれば納得すると思った。前の世界なら、それで通じた場面もあった。
でもハウゼは計算の話を聞きたいんじゃない。漬けられなかった亜麻の束を見てほしいんだ。
***
屋敷に戻って、自分の部屋に入った。
蝋燭に火を灯した。揺れる炎が壁に影を作る。影が揺れるたびに、部屋の輪郭がぼんやりと動いた。木板を引き寄せて、炭筆を取った。指先が冷えていて、炭筆をうまく握れなかった。息を吹きかけて、指を温めてから書き始めた。
反省点を書く。
一、相手の話を聞く前に説明した。
二、数字で論破しようとした。
三、「全体」は相手にとって関係ない。
炭筆が木板の上を走る音だけが、部屋に響いた。外では風が窓を叩いている。かたかた、と乾いた音。
頬杖をついている自分に気づいた。また、この癖だ。令嬢がする姿勢じゃない。でも今は誰も見ていないから、いい。
三つ書いた反省点を見つめて、四つ目を足す。
四、相手には相手の、六十年分の理由がある。
炭筆を置いた。木板の表面に、炭の粉が散っている。指先が黒く汚れていた。
足元に温かいものが来た。見下ろすと、ミケが足首に体を擦りつけている。丸い体が、蝋燭の灯りに照らされてオレンジ色に見えた。毛並みが光を受けて、柔らかく揺れている。
「ミケ。今日、盛大にやらかした」
ミケを膝に乗せた。温かい。丸い。何も言わないけど、重い。この重さだけが、今日の唯一の成果だ。ミケの体温が膝を通じて伝わってくる。冷えた体に、じわじわと温もりが染みる。
窓の外で風が鳴った。十月の夜は冷える。蝋燭の炎がまた揺れて、壁の影が震えた。
木板をもう一度見た。四つの反省点。合理的に正しいことを言ったのに通じなかった。正しさだけじゃ足りないんだと、やっと分かった。
——明日、やり方を変える。
ミケが膝の上で丸くなった。目を細めて、喉をごろごろ鳴らしている。その振動が膝に伝わって、少しだけ力が抜けた。
明日。もう一回、行く。今度は、まず聞く。
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