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辺境令嬢と、退屈知らずの執事  作者: 猫野ひかる
第3章「隣人は選べない」

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第42話「合理的に説明したら、怒らせた」

 下流の集落は、カルセド村とは空気が違った。


 乾いた土の匂い、山羊の糞と、焼いたばかりのパンの香り。家々の屋根は低く、石垣には苔がこびりついている。道の脇に亜麻の束が積まれているのが目に入った。茶色く枯れた茎の束。水に漬けるはずのものが、乾いたまま放置されている。


 ここの暮らしに、わたしの水路が影響を出している。


 集落の中ほどにある広場に、男が立っていた。


 痩せた長身。日焼けした深い皺。灰白の短い髪。腕を組んで、こちらを見ている。骨ばった手の指が、二の腕に食い込むほど強く組まれていた。足は肩幅に開いて、地面にしっかりと根を張るように立っている。六十年この土地で生きてきた人の、動かない立ち方だった。


「カルセドの嬢さんか。——で、用件は」


 挨拶なし。目が笑っていない。期待していないのが、声だけで分かる。声の低さが、広場の空気を重くしている。


「ご不便をおかけしております。水のことで、直接お話を伺いたくて参りました」


 令嬢モード。棒読みだけど、精一杯の丁寧。自分の声が上ずっているのが分かる。喉の奥が乾いている。


 ——ご不便どころじゃない。わたしが水を奪ったって話だよね、これ。


 ハウゼはわたしの言葉を聞いて、腕組みを解かなかった。視線だけがロクスに移った。値踏みするような目だ。ロクスの黒い執事服と白手袋を見て、目が細くなった。


「口だけじゃねえだろうな」


 ロクスが軽く頭を下げた。


「ハウゼ殿は、お嬢様の誠意を確認なさりたいようですね」


 ——それ「信用してない」の丁寧版でしょ。


「誠意とかじゃねえ。カルセドの当主が何をしてきたか、おれは六十年見てきた」


 六十年。ハウゼの皺の一本一本に、その年月が刻まれているようだった。額の深い横皺、目尻から頬に走る縦の線。この人はわたしを見ているんじゃない。カルセド家を、父を見ている。


「ハウゼさん。わたしは父とは違います。水路のことで下流に影響が出ているなら、それは」


「知ってるよ。上で水路を弄ったんだろう。おかげで淵の水が浅くなって、亜麻が漬けられん。今年の布はどうなる」


 布。そうだ、亜麻の水漬けの件。秋に約束したまま、まだ解決していない。広場の隅に目をやると、亜麻の茎束が山積みになっていた。漬けられないまま、秋を越そうとしている。


***


「説明させてください」


 広場の石段に座った。ハウゼは座らなかった。立ったまま、腕を組んだまま。わたしだけが見上げる形になる。石段が尻に冷たい。十月の石はもう冬の温度を含んでいて、座った瞬間に体温を奪っていく。


「水路の改修で川の流れが変わったのは事実です。でも、全体の水量は減っていません。畑に届く水は十分で」


「畑の話をしてるんじゃねえ」


「淵の水位については、補水の方法を検討しています。上流から分岐路を引いて、淵に水を回せるかと」


「数字の話はいい」


 ハウゼの声が低くなった。それまでも低かったのに、さらに一段下がった。広場の空気が変わった。山羊が一頭、広場の隅で耳を伏せた。


「おれたちが布を作れなくなったのは事実だ。冬の着替えも、売りに出す分もない。そっちはどうするつもりだ」


「ですから、計算し直せば淵の水位は——」


 言いかけた瞬間、ハウゼの表情が変わった。


 閉じた。完全に。


 腕を組んだまま、目が冷たくなった。「計算し直せば」。その言葉が、何かの蓋を閉めた。目の奥にあった僅かな「聞いてやるか」の色が、消えた。


「計算、ね」


 ハウゼの声には感情がなかった。感情がないことが、怒りよりずっと怖い。声から温度が抜けて、乾いた砂のようになった。


「計算し直す。そうだろうな。計算ってのはあんたの頭の中の話だ。おれたちの暮らしは計算に入ってなかったんだろうよ」


「いえ、そういう意味では」


「帰れ」


 ハウゼが背を向けた。広い背中が壁のようだった。


「口先だけなら、あんたの親父と同じだ」


 息を吸おうとして、うまく吸えなかった。エプロンの裾を握りしめていた。いつの間に。ハウゼの背中が遠ざかっていく。大股の、迷いのない歩き方。一度も振り返らなかった。


 広場に残されたのは、わたしとロクスだけだった。


 山羊が一頭、広場の隅で草を食んでいる。何事もなかったかのように。山羊は交渉の失敗なんか知らない。草を食べて、水を飲んで、それだけだ。


***


 帰り道は、長かった。


 夕暮れの光が草原を橙色に染めている。足元の草を踏む音だけが続いた。風が冷たくなっている。十月の夕方は、もう冬の気配がする。首筋に当たる風がひんやりとして、体が縮こまる。


 ロクスが何も言わなかった。


 隣を歩いているのに、一言も。足音だけが規則正しく続いている。わたしの足音は乱れていて、石を踏む音がばらばらだ。歩幅が合わない。ロクスはいつも通りの半歩後ろ。その距離が今日は、やけに遠く感じる。


 五十歩くらい歩いて、我慢できなくなった。


「ロクス、何か言ってよ」


 ロクスが首をわずかに傾げた。琥珀色の目がわたしの顔を見て、また前を向いた。夕日を受けた琥珀色が、一瞬だけ金色に光った。一瞬だけ。


「何か言ってって、言ったんだけど」


 沈黙。草原を渡る風の音だけが答えだった。


「それが一番きつい」


「お嬢様ご自身でお気づきになるのを待っておりました」


「気づいてるよ。全部わたしが悪い」


「私はそのような言い方をしておりませんが」


「してるよ。黙ってることで」


 ロクスの白手袋の指先が、ほんの少し動いた。何かを言いかけて、やめたような動き。あの手袋の下の感触を、わたしは知らない。知ろうとしていない。


 夕暮れの風が髪を揺らした。亜麻色の髪が視界にかかって、目の端が暗くなる。


 気がつくと、頬杖をつくように顎に手を当てていた。歩きながら。考え事をするとこうなる。ロクスに「令嬢らしくございません」と言われる、あの癖。


 ——合理的に説明すれば通じると思った。数字を見せれば納得すると思った。前の世界なら、それで通じた場面もあった。


 でもハウゼは計算の話を聞きたいんじゃない。漬けられなかった亜麻の束を見てほしいんだ。


***


 屋敷に戻って、自分の部屋に入った。


 蝋燭に火を灯した。揺れる炎が壁に影を作る。影が揺れるたびに、部屋の輪郭がぼんやりと動いた。木板を引き寄せて、炭筆を取った。指先が冷えていて、炭筆をうまく握れなかった。息を吹きかけて、指を温めてから書き始めた。


 反省点を書く。


 一、相手の話を聞く前に説明した。


 二、数字で論破しようとした。


 三、「全体」は相手にとって関係ない。


 炭筆が木板の上を走る音だけが、部屋に響いた。外では風が窓を叩いている。かたかた、と乾いた音。


 頬杖をついている自分に気づいた。また、この癖だ。令嬢がする姿勢じゃない。でも今は誰も見ていないから、いい。


 三つ書いた反省点を見つめて、四つ目を足す。


 四、相手には相手の、六十年分の理由がある。


 炭筆を置いた。木板の表面に、炭の粉が散っている。指先が黒く汚れていた。


 足元に温かいものが来た。見下ろすと、ミケが足首に体を擦りつけている。丸い体が、蝋燭の灯りに照らされてオレンジ色に見えた。毛並みが光を受けて、柔らかく揺れている。


「ミケ。今日、盛大にやらかした」


 ミケを膝に乗せた。温かい。丸い。何も言わないけど、重い。この重さだけが、今日の唯一の成果だ。ミケの体温が膝を通じて伝わってくる。冷えた体に、じわじわと温もりが染みる。


 窓の外で風が鳴った。十月の夜は冷える。蝋燭の炎がまた揺れて、壁の影が震えた。


 木板をもう一度見た。四つの反省点。合理的に正しいことを言ったのに通じなかった。正しさだけじゃ足りないんだと、やっと分かった。


 ——明日、やり方を変える。


 ミケが膝の上で丸くなった。目を細めて、喉をごろごろ鳴らしている。その振動が膝に伝わって、少しだけ力が抜けた。


 明日。もう一回、行く。今度は、まず聞く。

お読みいただきありがとうございました!


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