第41話「水が足りないのは、わたしのせいらしい」
朝食の粥に塩を振ったところで、ロクスが「お客様です」と言った。
客。この辺境に。しかもこの時間に。
粥から立ち上る湯気が、窓から差し込む朝日に白く揺れている。雑穀の匂いが鼻先をくすぐって、木の匙がまだ温かい。せっかく丁度いい塩加減にしたのに。粥の表面で塩が溶けていく、その小さな変化を見つめていたのに。
「客って、誰?」
「下流の集落からの使いだそうです。ヨルダが応対しております」
台所の奥からヨルダの声が聞こえた。困った声色だ。声に含まれるものは、遠慮と、申し訳なさと、少しの怒り。あの人が困るのは、相手がよほど面倒な用件を持ち込んできた時と相場が決まっている。
粥をひと口だけ口に入れて、匙を置いた。温かい粥が喉を通っていく。その温度が、これから聞くことの厄介さを予感させるように消えていった。
「下流って、水路の件?」
「おそらく」
ロクスが食堂の扉を開けた。蝶番がかすかに軋む音。廊下に立っていたのは、見覚えのない若い男だった。日焼けした顔、泥のついた長靴。朝早くから歩いてきたのだろう、額に汗が光っている。額だけじゃない。首筋にも汗の筋が伝っていて、荒い息を整えようとしている。朝一番で来るほど急ぎの用だ、ということだ。
「カルセドのお嬢さんに伝言です。ハウゼのじいさんが、水のことで話があるそうで」
伝言。話がある。丁寧に言い直してくれているが、要するに苦情だ。
「分かりました。ハウゼさんに、近いうちにこちらから伺うとお伝えください」
令嬢モードの声が自分の口から出た。棒読みの丁寧語。演技力は相変わらず低い。声の固さが自分でも分かる。使いの男は小さく頭を下げて、来た道を戻っていった。長靴が石の床を叩く音が遠ざかっていく。
食堂に戻ると、粥がぬるくなっていた。匙ですくうと、表面に薄い膜が張っていた。ぬるい粥の味。塩加減は変わっていないはずなのに、さっきより不味く感じた。
窓の外を見た。使いの男の背中が、屋敷の門を出ていくところだった。朝日を背負って歩く後ろ姿が小さくなっていく。あの人が帰る先で、ハウゼという人がわたしの返事を待っている。
——水路がうまくいったと思ったら、下流に迷惑をかけていた。成功して、問題が増える。もうこの展開、慣れてきた自分が嫌だ。
***
「まず話を聞きに行こう」
廊下を歩きながらロクスに言った。石の床が素足に冷たい。十月の朝はもう秋が深い。窓の外から吹き込む風に、枯れ草と土の匂いが混じっている。朝の光は薄くて、廊下の壁に差す影が長い。
「つまりお嬢様が外交に挑むと。大胆なご決断ですね」
ロクスが半歩後ろからついてくる。声の温度はいつもと同じ、穏やかで、どこか楽しそうで、絶対に本心が読めない。靴音が規則正しく石の床を叩いている。わたしの不揃いな足音と、ロクスの揃った足音。その差が妙に気になる。
——それ「無理だろ」の丁寧版でしょ。
「大胆じゃなくて、必要だから行くの。水路を使い続けたいなら、下流と折り合いをつけるしかない」
「ごもっともです。ただ、交渉というものは相手がいて成立するものでして」
「知ってるよ。相手がいるから行くんでしょ」
「相手が聞く気になっている、という前提が必要ですが」
足が止まった。窓から差す光が、廊下の途中で切れている。明るい場所から一歩踏み出せば暗がりだ。なんだか象徴的で嫌だ。
「聞く気がない、かもしれないってこと?」
「ハウゼ殿は、筋を通す方だと聞いております。筋が通らない要求をしなければ」
筋を通す。筋が通る要求。つまり、こっちがまともに話せばいけるってことだ。
——いけるよね?
「ロクス。わたし、交渉なんてしたことないんだけど」
「存じております」
「もうちょっと励ましてくれてもいいんじゃない?」
「嵐の日に洗濯物を干すようなものですが、お嬢様がお望みであれば」
励ましの欠片もなかった。白手袋の指先が背中の後ろで組まれている。あの仕草は、ロクスが状況を面白がっている時の形だと最近気づいた。面白がるなよ。わたしの外交デビューなんだぞ。
廊下の窓から中庭が見えた。ミケが屋根の上に座っていた。金色の目がこちらを見ている。見送りなのか、見物なのか。猫には分からないだろうけど、わたしは今からけっこう大変なことをしに行くんだよ。
***
下流の集落までは、歩いて半刻ほどだった。
道が悪い。石がごろごろしていて、草が膝まで伸びている箇所がある。馬車なんて通れたものじゃない。徒歩で正解だ。靴の底に小石が食い込むたびに足首がぐらつく。一度、大きな石を踏み外して体が傾いた。ロクスの手が伸びかけて、わたしが体勢を戻した瞬間に引っ込んだ。速い。そして無言。ロクスは涼しい顔で歩いている。道の悪さがまるで気にならないらしい。執事の歩き方に悪路対応は含まれているのか。
歩きながら、ロクスにハウゼの情報を聞いた。
「六十代の男性で、下流集落の代表格です。農地を二代にわたって守っておいでで、地元の方々からの信頼は厚い」
「それは分かった。性格は?」
「頑固で、口数が少なく、筋は通す」
「もう少し具体的にお願いできる?」
「カルセド家が、嫌いです」
足元の石につまずきそうになった。
「それ、一番大事な情報を最後に言うのやめてくれない?」
「大事なことから順に申し上げただけです」
「大事なことを最後に回すのは順番が逆だよ」
ロクスが小さく首を傾げた。白手袋の指先が、かすかに動いた。何か面白いものでも見つけたような仕草。こっちは面白くない。
わたしの外交力を採点してみる。交渉経験ゼロ、相手はカルセド家が嫌いで頑固な六十代。度胸だけはある、たぶん。
外交力: 三点。赤点も赤点。交渉前に採点するもんじゃないけど、現実を見ておくのは大事だ。
土埃が舞った。十月の乾いた草の匂い。遠くで水が流れる音がする。わたしが上流で弄った水路のせいで、この先の淵が浅くなっている。風が草原を渡ってきて、髪を揺らした。亜麻色の毛先が視界にかかる。
自分がやったことの結果が、この先にある。
丘を越えると、下流の集落が見えてきた。
山羊の鳴き声と、洗濯物の白が目に飛び込む。低い石垣に囲まれた家々。煙突から薄い煙が上がっている。煙は真っ直ぐに空に伸びて、途中で風に流されて消えた。
——生活感がある。ここにも人がいて、暮らしている。
わたしが水路を弄ったせいで、この人たちの暮らしに影響が出た。数字の話じゃない。ここで暮らしている人たちの、毎日の話だ。あの洗濯物を干した人も、あの山羊に水を飲ませている人も、わたしが知らなかった使い方で川の水に頼っていた。
「ロクス。わたし、合理的に話すから」
「ええ。楽しみにしております」
楽しみにしている、と言うロクスの声は、いつもと同じ温度だった。穏やかで、静かで、何を考えているか分からない。
白手袋の右手が背中の後ろに回っている。あの手袋の下に何があるのか、わたしは聞かないことにしている。
聞かないことにしている理由も、まだ自分では分かっていない。
足元の石を踏んで、集落へ下りていった。
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