第40話「二度目」
深夜。屋敷の全員が寝静まった頃、ロクスは中庭に出た。
白手袋を外す。
右手の指先を、月明かりに翳した。
鱗があった。前回より、広い。
人差し指の第一関節から指先まで。前回はそこだけだった。今は違う。五本の指すべての先に、薄い金色の鱗が浮いている。親指。人差し指。中指。薬指。小指。そして——手の甲の端にも。関節の上に、二枚。爪の大きさほどの金色が、皮膚を押し上げるように張りついていた。
月明かりが鱗を照らした。鈍い金色の光。硬い。前回と同じ、人間の皮膚とは違う温度。冷たくもなく温かくもない。ただ、あるべき場所に出てきたという感触。
二度目か。
ロクスは手のひらを返して、鱗の広がりを確認した。前回——この屋敷の屋根を直した時は、指先に三枚だった。今回は車軸を修繕した。やったことの規模は似ている。だが鱗は増えた。
力を使うたびに、戻りにくくなる。
中庭に冷たい風が吹いた。十月の夜風。枯れた花壇の土が乾いた匂いを放っている。屋敷の石壁が月光に白く浮かび、蔦の影が這うように壁面を覆っていた。
今朝の食堂を思い出す。
あの子は木板を広げて、問題を五つ書き出していた。一番から四番まで。五番目を書いて、消した。それからロクスが茶を持って入った時、あの子は炭筆を置いて言った。
——面倒しかないけど、前よりパンは美味しくなった。それだけで、今日はいい。
何百年も人の世を見てきた。人間の「今日はいい」は、大抵明日には忘れる。消耗した夜に感じた小さな満足が、朝の光の中でどれほど残っているか、ロクスは知っている。
だが、あの子の「今日はいい」は——少し違う。
採点している。百点ではなく、昨日の自分と比較している。三十点が六十点になった、という見方をしている。その測り方は、百年先を見て「まだ足りない」と嘆く人間よりも、ずっと正確だ。そして、ずっと続く。
「契約の制約が——」
呟きかけて、止めた。声にする意味がない。契約の内容は自分がいちばん知っている。人の世に留まる代償。力を使えば形が崩れる。形が崩れれば、いずれ人の姿を維持できなくなる。
白手袋を右手に嵌め直した。鱗の上に革の布が被さる。指を一本ずつ通す。親指。人差し指。中指。薬指。小指。鱗の凹凸が手袋の内側に当たる。前回はなかった感触。
左手にも手袋を嵌めた。左は鱗が出ていない。まだ。
***
廊下に戻った。
深夜の屋敷は静かだった。燭台の残り火が壁に揺れる影を落としている。石造りの床が、裸足なら冷たいだろう温度を蓄えている。どこかで古い梁が軋む音がして、すぐに止んだ。ロクスの靴音だけが、規則正しく廊下に響いた。
主の部屋の前を通りかかった。
扉の向こうから、寝息が聞こえる。穏やかで、深い。昨日の夕方、「今日はもう寝る」と言って部屋に逃げ込んだ主人は、今は眠っている。
あの子は気づいている。車軸のことも、金色の光のことも。村人の噂をいなしたのは、ロクスの行動を隠すためだった。聞かない。聞けない。その判断が、信頼なのか恐怖なのか、あの子自身にも分かっていないだろう。
だが、今朝の「今日はいい」は本物だった。
足を止めた。
数日前のことを思い出す。あの子が居間で口走った言葉。焼き菓子の名前。「前の持ち主」の——前のこの体の主の、記憶の断片。
前のミレイア・カルセドは、そんな菓子を知らなかった。屋敷で出される菓子は限られている。あの名前は、この辺境では手に入らないもの。王都の菓子屋にしか並ばないもの。
あの子は、どこであの名前を知った。
寝返りの音がした。布がこすれる衣擦れの音。この子は寝るとすぐ寝返りを打つ。横を向き、膝を抱え、毛布をたぐり寄せる。前の持ち主は——仰向けのまま、微動だにせず朝を迎える子だった。
あの子は——
ロクスは思考を止めた。
いや、まだ断じるのは早い。
人は変わる。十五歳の少女が、ある日突然変わることはある。何百年も人の世を見てきた。少年が戦場で別人になったのも、老婆が孫の死で豹変したのも見た。人は変わる。変わり得る。
廊下の向こうから、小さな足音がした。
「お疲れ様です、ロクス様」
ペトラだった。水差しを持って、台所に向かうところらしい。夜中に喉が渇いたのだろう。栗色の髪を下ろした寝巻き姿で、目をこすりながらロクスに頭を下げた。
「ペトラ。遅くまでご苦労だ」
「いえ。……おやすみなさいませ」
ペトラが台所の方に消えた。小さな足音が遠ざかる。
人間は眠る。水を飲む。寝返りを打つ。些細な営みを繰り返して、朝を迎える。パンを少し美味しくして、「今日はいい」と言って、また次の問題を書き出す。
ロクスは視線を主の部屋の扉に戻した。扉の木目が、燭台の光に照らされている。
***
中庭に再び出た。
夜空が広い。星が散っている。秋の星座が、黒い天蓋に白い点を打っている。何百年も変わらない配置。ロクスの目には、人間に見えない微かな星まで映る。
屋根の縁に、影があった。
ミケだ。
三毛猫は屋根の瓦の上に座っていた。丸い体が月光のシルエットになっている。金色の目が、真っ直ぐにこちらを見ていた。
前回は茂みの中から唸っていた。今回は屋根の上。高い場所から見下ろしている。逃げではない。監視だ。
毛は逆立っていない。唸り声も出していない。ただ、見ている。金色の目を細めずに、瞬きもせずに。
エスカレーションの最終段階。恐怖から監視へ。この毛玉は、怖がるのをやめた。代わりに、見張ることを選んだ。
「毛玉殿。そう睨まないでいただけますか。私は別に、あの方を害する気はありませんので」
ミケは答えなかった。ただ、見ていた。金色の目が月光を反射して、二つの小さな灯りのように光っている。
ロクスは軽く首を傾げた。
面白い猫だ。勘が鋭い。最初は逃げ、次に威嚇し、次に唸り、そして今は見張っている。守るべきものがあるから、逃げるのではなく見張ることを選んだ。
あの子を、か。
ロクスは白手袋を嵌め直した。すでに嵌めてあるのに、もう一度。手袋の皺を一本ずつ伸ばすように。右手の鱗の上を、革の布がなぞった。
面倒しかないけど、前よりパンは美味しくなった。それだけで今日はいい——と、あの子は言った。
その「今日はいい」の積み重ねが、どこへ向かうのか。まだ見えない。だから見ている。それだけのことだ。
面白いから見ている。それだけだと、まだ言い切れるうちに。
ロクスは静かに、屋敷の中へ戻った。
扉を閉める瞬間、中庭を振り返った。月光が石畳に降り注いでいる。枯れた花壇。冷たい石のベンチ。あの子が今朝座っていた場所。
扉を閉めた。蝶番がかすかに鳴って、静寂が戻った。
屋根の上で、猫だけが残った。金色の目を細めず、瞬きもせず、静かに夜を見張っていた。
お読みいただきありがとうございました!
この話の点数、いかがでしたか?
【☆☆☆☆☆】やブックマークで採点いただけると、作者の執筆意欲が50点くらい上がります。




