第39話「面倒しかないけど」
問題が、五つある。
下流の水利問題。商人の妨害。母の追及。学院の課題。
そして、ロクスの「何か」。
全部同時に解決しろと? 誰に言ってるんだ、それ。
わたしだよ。
朝の食堂。窓から秋晴れの光が差し込んでいる。空が高い。雲がない。外は良い天気だ。天気だけは味方をしてくれる。
木板を引き寄せて、炭筆を取った。板の表面に、五つの問題を書き出す。
一、食糧。ガレドの干し肉停止。塩漬けと燻製で当面は持つが、冬の分が足りない。
二、水利。下流のハウゼ。再調整が必要。冬前に交渉。
三、学院。課題が溜まっている。次の通学日まであと五日。
四、ガレド。行商人への圧力が本格化。代替仕入れ先はコリンナと相談中だが、短期的な解決策なし。
五、ロクス。
五番目のところで炭筆が止まった。何を書けばいいか分からない。「ロクスが普通じゃない」? 「車軸の直し方が怪しい」? 「金色の光」?
書けない。書いたら、問題として認めることになる。
五番目を消した。炭筆の跡が黒く滲んだ。
——現状評価: 二十五点。前回十二点だったから十三点上がった。上がってるんだけど、問題も十三個増えてる気がする。
食堂の扉がことりと開いた。ペトラがパンを持ってきた。
「お嬢様、朝食です」
「ありがとう」
パンを受け取った。一口かじった。
美味しい。いや、美味しいは言い過ぎだ。でも前より確実に良くなっている。天然酵母のパン。最初は三十点だった。今は——六十点くらい。噛むと甘みがある。雑穀の香ばしさが鼻に抜ける。前の世界のパン屋には遠く及ばないけど、この辺境で、この材料で、この出来なら上出来だ。
パンを噛みながら、木板を見つめた。
まあ、善処いたしますわ。
——善処で何とかなるか、これ。
***
食堂を出て、中庭に出た。
石のベンチに座った。冷たい。十月の石は、朝の空気を吸い込んで凍っている。スカートの裾から冷気が上がってくる。
枯れた花壇の茶色い土。夏には何か咲いていたはずだが、今は枯れた茎が数本残っているだけ。遠くの山の稜線が、秋の空に青く浮かんでいる。
一人だ。
ロクスは台所で何かをしている。ヨルダと昼の仕込みの話をしているらしい。ペトラは洗濯。みんな、それぞれの仕事をしている。
わたしの仕事は、この五つの問題を何とかすることだ。いや、四つだ。五番目は消した。
——前の世界のわたし、出てきて。
脳内で、もう一人の自分を召喚した。前の世界の自分。二十一歳。大学中退寸前。バイト三つ掛け持ち。家賃は毎月遅れていた。
——出てきてなんとかしろ。
脳内のもう一人が、肩をすくめた。無理に決まってるでしょ、という顔。
——無理か。あいつも無能だった。大学中退寸前だったし、バイト三つ掛け持ちでも家賃遅れてたし。深夜のコンビニで肉まん買って帰るのが精一杯だった。あいつに何ができる。
でも。
あの自分は、諦めなかった。少なくとも、バイトを三つやった。家賃が遅れても、追い出されるまでは粘った。根性はあった。根性だけは。
わたしはその根性を受け継いでいる。受け継いでいるのか? それとも、この体の前の持ち主の性格が混ざっているのか。
分からない。でも、どっちでもいい。今のわたしが、ここにいる。
冷たい石のベンチから立ち上がった。膝が冷えている。手を太腿に当てて温めた。
問題は四つ。いや、五つ。五番目は消したけど、消えてない。
でも、パンは美味しくなった。水路は流れた。保存食はカビたけど、塩漬けと燻製は成功した。農夫が一人、手伝いに来てくれた。
全部ゼロだった頃より、ましだ。
確実に、ましだ。
***
食堂に戻った。
ロクスがお茶を淹れていた。台所から持ってきた盆に、カップが二つ。湯気が立ち上っている。いつもの茶葉の匂い。
「ロクス」
「はい」
昨日の沈黙がまだ残っている。あの重い、何も言えなかった帰り道の空気。今朝も、まだ少し引きずっている。
でも。
「……なんでこんなに面倒なことばっかりなの」
ロクスがカップを差し出した。受け取った。温かい。指先に温度が戻る。
「お嬢様の人生に退屈がないのは、大変結構なことですね」
——要は「忙しいのは自分のせいでしょ」ってことだけど。
笑った。口角が上がった。昨日から止まっていた何かが、動き出した。
「結構って、あんたね」
「はい?」
「退屈がないんじゃなくて、面倒しかないんだけど」
「面倒があるということは、やるべきことがあるということです。やるべきことがある人間は、退屈しません」
「それ褒めてるの?」
「さて。次の失敗の未来ですが、本日は見えません。珍しいですね」
「え、本当?」
「——ああ、多すぎて数えられないのかもしれません」
「期待させるな!」
ロクスが口元を緩めた。琥珀色の瞳が、面白がるように細くなる。いつもの顔だ。いつもの煽り。いつもの掛け合い。
あ、いつも通りだ。
昨日の沈黙が、溶けていく。完全にではない。まだ底の方に残っている。でも、表面はいつも通りだ。言い返せる。煽りに返せる。それだけで、少しだけ楽になる。
木板を引き寄せた。計画を書き直す。優先順位を付け直す。
一番、食糧。冬までに備蓄を確保する。燻製を増やす。塩の調達先を探す。
二番、水利。ハウゼとの交渉。下流への取水量を再計算する。
三番、学院。課題を片付ける。コリンナに代替仕入れ先の続報を確認する。
四番、ガレド。短期策はない。中期で代替ルートを確保する。
五番目は——書かない。でも忘れない。
計画が形になっていく。前よりは整理されている。前よりは優先順位が明確だ。
「ロクス。明日から忙しくなるよ」
「ええ。存じ上げております」
「あんたさ、いつも全部知ってる顔してるよね」
「さて。何のことでしょう」
わたしは笑った。いつものように。
でも心のどこかで、この人の「何か」を、いつか聞かなきゃいけない日が来ると思った。
——今日じゃないけど。
お茶を一口飲んだ。温かい。パンの残りをかじった。美味しい。前より美味しい。
面倒しかないけど、前よりパンは美味しくなった。
それだけで、今日はいい。
木板を持ち上げた。計画を眺めた。炭筆の文字が、朝の光に照らされている。問題は四つ。いや、五つ。でも、ゼロよりはいい。ゼロから始めて、ここまで来た。
まあ、なんとかなるでしょ。
——今回は、少しだけ本気で。
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