第38話「笑えないやり取り」
車軸は直っていた。完璧に。
折れたはずの木と鉄が、まるで最初からそうだったように繋がっている。翌朝、わたしは馬車の下にしゃがんで、接合部を指でなぞった。
滑らかだ。工具の跡がない。金鋸で切った痕も、金槌で叩いた凹みもない。鉄と木が溶け合ったように、一つの面になっている。指の腹に伝わるのは、ただつるりとした金属の感触だけ。
「ロクス。これ、接合部がおかしくない?」
ロクスが馬車の横に立っていた。いつもの黒い執事服。白手袋。表情は穏やかで、何の変哲もない朝の顔。
「お嬢様は観察力がおありですね。金具の特性で、接合面が滑らかになるのです」
丁寧だ。いつもより丁寧だ。ロクスの言葉遣いは元から丁寧だが、今のは違う。説明が長い。普段なら「そのようです」の一言で済ませるところを、わざわざ理由を添えている。
嘘をつく時の人間は、饒舌になる。
——この人が人間かどうかは、今は置いておく。
「金具の特性ね」
「ええ」
「昨日、馬車に金具がないって言ったよね」
「森で見つけたものが、たまたま合いました」
「森に馬車の車軸に合う金具が落ちてたの」
「運が良かったですね」
ロクスの琥珀色の瞳が、穏やかに笑っている。口元にもいつもの微笑み。完璧な執事の顔。何一つ揺らいでいない。
でも、わたしの指は嘘をつかない。この接合部には工具の跡がない。人の手で直した痕跡がない。
***
馬車に乗り込んだ。学院への通学日ではなかったが、屋敷の周辺を一周して車軸の状態を確認する必要があった。
ロクスが御者台に座り、馬車が動き出す。車輪が石畳を鳴らした。振動は安定している。軋みもない。折れた車軸が、新品よりも滑らかに回転している。
馬車の中で、ミケがいた。
三毛猫は座席の隅にいた。わたしの膝ではない。一番遠い隅。背を丸めて、毛を逆立てて、目を逸らさずに——御者台の方を見ていた。
ロクスがいる方角。
「ミケ。おいで」
手を伸ばした。ミケは動かなかった。わたしの手をちらりと見て、すぐに視線を御者台に戻した。毛が逆立ったまま。尻尾が太くなっている。
いつもなら膝に飛び乗ってくる。丸くなって、喉を鳴らして、眠る。それが今日は、馬車の隅から動こうとしない。
ロクスの声が御者台から聞こえた。
「お嬢様、揺れますので少々掴まっていてください」
いつもの声。いつものトーン。何も変わらない。
「予備の金具がございましたので」。
——ロクスの丁寧語を、いつものように内心で雑に言い換える。
——「嘘」。
一文字。それだけ。
今までこの読み替えが面白かったのは、嘘でも笑えたからだ。「お茶の時間は死守します」を「要はサボりたいんでしょ」に読み替えるのは、笑えた。「記録しておきます」を「要は日記に書くんだね」に読み替えるのも、笑えた。
今回は笑えない。
馬車が揺れた。ミケが座席の隅で、低い声を出した。唸りではない。もっと小さい、引き絞ったような声。猫の警戒音。
***
森の出口に差し掛かった時、薪拾いの村人がいた。
枯れ枝を両腕に抱えた男。名前は知らない。カルセド領の村人だろう。すれ違いざまに、馬車の窓を見た。
「嬢さん。昨日の夕方、森で金色の光が見えたんだがね」
胃が縮んだ。
「金色の光ですか?」
令嬢モード全開。穏やかに。にこやかに。内臓が冷えている。
「ああ。一瞬だったけどな。ぴかっと。焚き火にしちゃ色がおかしかった」
「焚き火の反射でしょう。この時期、森で薪を燃やす人もいますし」
「そうかね。まあ、そうかもしれんな」
村人が去った。枯れ枝を抱えた背中が、森の道に消えていく。
御者台のロクスは、何も言わなかった。
わたしも何も言わなかった。
焚き火の反射。そう言った。嘘をついた。金色の光が焚き火の反射でないことは、わたしが一番よく知っている。昨日、この目で見た。森の奥で、一瞬だけ光った金色。焚き火ではなかった。もっと鋭くて、もっと純粋な光。
——また嘘をついた。ロクスのために。
いや、ロクスのためじゃない。わたしのためだ。本当のことを認めたら、次の疑問が来る。あの光は何か。ロクスは何をしたのか。答えを知りたくない。知ったら、今のままではいられない気がする。
馬車の窓から夕方の空が見えた。茜色が薄れて、灰色の雲が広がっている。森の出口の光が、車内に斜めに差し込んでいた。
ミケが、また小さな声を出した。御者台の方を見たまま。
***
屋敷に着いた。
玄関の扉を開けて、廊下に入った。いつもなら、ここでロクスが何か言う。「お茶をお持ちしましょうか」とか、「本日のお嬢様の成功失敗比率を記録しておきます」とか。くだらない一言。それが、いつもの帰宅の合図だった。
今日は何も言わなかった。
ロクスが廊下を歩いている。わたしの後ろ、いつもの距離。足音は静かで規則正しい。黒い靴が石の床を踏む音。
何も言わない。
わたしも何も言えない。「車軸のこと、本当はどうやって直したの?」と聞けばいい。聞けば答えが返ってくるかもしれない。嘘の答えかもしれないけど。でも聞けない。聞いて、答えが返ってきたら、何かが変わる。変わってほしくない。
台所の前を通り過ぎた。ヨルダの声がどこかから聞こえる。鍋の蓋がかたかたと鳴り、包丁がまな板を叩く音。日常の音。
「お嬢様」
ロクスの声。振り返った。
「お茶をお持ちしましょうか」
それだけだった。いつもの煽りも、予言も、採点も、記録もない。「お茶をお持ちしましょうか」。ただの一文。
「……うん。お願い」
ロクスが台所に消えた。白手袋の手が扉を押す。手袋の白さが、薄暗い廊下に浮かんでいた。
あの白手袋。いつも嵌めている。外したところを見たことがない。風呂に入る時も、寝る時も、どうしているのか知らない。
考えたくない。今は。
部屋に戻った。寝台に腰を下ろした。ミケが部屋の隅にいた。いつもは膝に飛び乗ってくるのに、今日は窓辺の棚の上から、じっとこちらを見ている。いや、こちらじゃない。ドアの方を見ている。ロクスが通った廊下の方を。
猫は嘘をつかない。
わたしは知っている。ロクスが「普通じゃない」ことを。前から知っていた。瞳が金色に光ること。屋根の雨漏りがいつの間にか直っていたこと。「何百年」という言葉がぽろりとこぼれること。
でも聞かない。聞けない。聞いて、答えが返ってきたら——
「ミケ。あの人は、味方だよね?」
ミケが、にゃあ、と鳴いた。
答えにはなっていなかった。
ロクスがお茶を持ってきた。いつもの茶葉。いつもの淹れ方。湯気が立ち上る。温かい匂い。カップを受け取って、一口飲んだ。喉の奥に温かさが落ちていく。
いつもの味だった。
「ロクス」
「はい」
「今日はもう寝る」
「かしこまりました。おやすみなさいませ」
ロクスが部屋を出た。扉が閉まった。足音が遠ざかる。
お茶のカップを両手で包んだ。まだ温かい。温かさが手のひらに伝わっている。
——信頼と理解は、違う。
あの人を信頼している。味方だと思っている。でも理解していない。何者なのか、何をしたのか、何を隠しているのか。何一つ分かっていない。
信頼だけで、どこまで一緒にいられるんだろう。
ミケが窓辺の棚から降りて、ようやく膝に飛び乗ってきた。丸くなる。温かい毛の感触。重み。喉が鳴り始めた。
この子だけは、嘘をつかない。
お茶を飲み干した。カップを置いた。目を閉じた。
金色の光が、まだ瞼の裏にちらついていた。
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