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辺境令嬢と、退屈知らずの執事  作者: 猫野ひかる
2章「失敗は先払い」

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第37話「森の静寂」

 馬車が止まった。


 嫌な音がした。何かが軋んで、折れて、馬車全体が右に傾いた。座っていた体が壁にぶつかる。肩を打った。痛い。


 日はもう傾きかけている。森の中だ。


「ロクス?」


「車軸です。折れました」


 ロクスが馬車の外に出て、車体の下を覗き込んでいる。白手袋の手が地面についた。膝をついて、損傷箇所を確認している。


「あら」


 令嬢モードが出た。誰に対してだ。森の木しかいない。


 ——あらじゃないよ。帰れないんだけど。


 馬車の窓から外を見た。森の木々の影が長くなっている。日没まで、あと一時間あるかないか。学院帰りの道は、森の中を抜ける。この時間に車軸が折れるのは、かなりまずい。


「ロクス。直せる?」


「少々お時間をいただければ」


「どれくらい?」


「……少々」


 具体的な時間を言わない。それも珍しい。この人は普段、何でも正確に答える。「少々」が二回続くのは、答えを持っていないということだ。


「お嬢様。このような状況でも、お茶の時間は死守させていただきたいところですが、残念ながら道具がございません。非常事態ですね」


「非常事態なのはお茶じゃなくて車軸だよ」


 ロクスが口元だけ笑った。それから表情を戻して、馬車の下からもう一度覗き込んだ。


「少々お待ちください。工具を確認してまいります」


「工具って、馬車に積んでたっけ」


「確認してまいります」


 ロクスが馬車の後部に回った。荷台を開ける音。何かを探る音。しばらくして、戻ってきた。


「お嬢様。少し離れますので、馬車の中でお待ちください」


「え? どこに行くの?」


「車軸に合う金具がないか、近くを探してまいります」


「森の中に金具が落ちてるの?」


「……ごもっともですが。少々お待ちを」


 ロクスの姿が木々の向こうに消えた。灰銀色の髪が、薄暗い森の中で一瞬だけ光って、見えなくなった。


***


 一人になった。


 森が静かだった。


 馬車の中。傾いた座席に体を預けて、窓の外を見ている。木々の枝が風に揺れる音。それ以外、何も聞こえない。虫の声すら止まっていた。


 静かだ。


 前の世界を思い出した。深夜のコンビニの静けさ。午前三時。客がいない。蛍光灯がじりじりと唸る音だけが響いている。棚に並んだおにぎりと弁当。冷蔵庫のモーター音。自動ドアの向こうは暗い駐車場。


 あの静けさに、似ている。


 怖くなかった。前の世界では、深夜の静寂が好きだった。誰もいない空間。何の要求もされない時間。一人でいることに慣れていたから。バイトの帰り道、コンビニに寄って、肉まんを一つ買って、暗い部屋に帰る。それが日常だった。


 森の空気は冷たい。十月の夕方、木々の間を風が通り抜けると、指先がかじかむ。落ち葉の匂いが濃い。土と枯れ葉が混ざった、甘くて重い匂い。


 馬車の中で膝を抱えた。スカートの裾が足首に触れる。少しだけ寒い。


 一人は慣れている。


 でも最近、ロクスがいる方がいいな、と思うようになった。


 別に寂しいとかじゃない。あの人がいると、くだらないやり取りができるから。七十二点がどうとか、お茶がどうとか。そういう、どうでもいいやり取り。前の世界にはなかったもの。


 ——いつ帰ってくるんだろう。


 窓の外。森の暗さが増している。日が沈みかけていた。木々のシルエットが、黒い壁のように見える。


 月が出始めた。薄い三日月が、木の枝の隙間から覗いている。白い光が地面に届いて、落ち葉の輪郭を浮かべた。


 静かだ。


 深夜のコンビニの静けさは、安全だった。蛍光灯の下で、何も起きない。でも森の静けさは違う。何かがいるかもしれない。野獣か、盗賊か。何もいないかもしれない。分からない。分からないのが怖い。


 でも、怖くない。


 ロクスがいるから。森のどこかにいる。あの人がいる限り、大丈夫だと思える。根拠はない。ただ、そう感じる。


***


 どれくらい待っただろう。十分か、二十分か。


 森の奥で、何かが光った。


 金色の、一瞬の光。


 木々の間から漏れた。ほんの一拍。瞬きしたら見逃すくらいの、短い光。ロクスが消えた方角だった。


 そしてすぐに消えた。


 わたしは馬車の窓から目を凝らしたが、もう何も見えなかった。森は暗い。月明かりだけが、木の幹を白く照らしている。


「ロクス?」


 声は森に吸い込まれた。木々が吸い取るように、音を消した。返事はない。


 胸の奥が落ち着かない。あの光は何だ。焚き火じゃない。もっと鋭くて、もっと短かった。


 馬車の中に、森の匂いが入り込んでいる。湿った樹皮と、踏まれた落ち葉の甘い腐葉の匂い。窓の隙間から入る空気が首筋を冷やした。手を膝の上で握り直す。指先が震えているのか、寒いだけなのか、自分でも分からない。


 森はただ暗い。さっきまでの穏やかな静寂とは違う。何かが起きた後の、張り詰めた沈黙。木々の影がどれもロクスの背丈に見えて、でもどれもロクスではなかった。


 待った。息を詰めて、窓の外を見つめて。


 しばらくして、足音が聞こえた。枯れ葉を踏む音。規則正しく、静かに。


 ロクスが何事もなかったように戻ってきた。灰銀色の髪に落ち葉が一枚ついている。白手袋は汚れていない。息も切れていない。


「お待たせしました。車軸、直りましたので」


「……直った?」


「ええ。予備の金具がございましたので」


 嘘だ。


 そんな金具、馬車に積んでいなかった。さっき、ロクス自身が「金具がないか探す」と言ったのだ。馬車になかったから探しに行ったはず。森の中に馬車の車軸に合う金具が都合よく落ちているわけがない。


 でも、馬車は直っている。傾きが戻っていた。車輪がまっすぐに地面についている。


「帰りましょう、お嬢様。日が暮れる前に」


 ロクスが馬車の扉を開けた。白手袋の手が差し出される。


 その手を取った。革手袋の感触。いつもと同じ。何も変わらない。


 ——でも。


 金色の光が、まだ目の奥に残っていた。


 馬車が動き出した。車輪が枯れ葉を踏む音。さっきまで傾いていた車体が、まっすぐに走っている。何事もなかったように。


 ロクスは御者台にいる。背中だけが見える。灰銀色の髪が、夕暮れの最後の光を受けて、微かに光っていた。


 わたしは馬車の窓を閉めた。指先が冷たい。膝の上で手を握った。


 聞かない。今は聞かない。


 でも、あの光は、嘘じゃなかった。

お読みいただきありがとうございました!


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