第36話「七十二点の水路」
水が流れた。
今度こそ、設計通りに動いた。
設計通りの速度で、設計通りの量が、設計通りの場所へ。
土の溝を水が伝う音が聞こえる。
さらさらと、細く、途切れずに。
朝日が水面を照らして、白い光の帯が揺れた。
わたしは小さくガッツポーズをした。
「ロクス。見た? 見た?」
「ええ。お見事です。——七十二点といったところでしょうか」
「点数つけるのわたしの癖なんだけど!?」
朝の冷たい空気が頬を刺す。十月の半ば。秋はもう深い。畑の端に霜が降りていて、草が白く凍っている。その中を、水路だけが動いていた。流れている。止まらずに。妨害されることもなく、止まらずに。
ロクスが水路の縁にしゃがみ込んで、流量を確認している。白手袋の指先が、水に触れないぎりぎりの距離で水面をなぞった。
「流量は安定しています。傾斜の調整が効いていますね」
「でしょ。前回も傾斜は計算した。今回はそこに土の吸い込み速度まで入れたの。三段階の勾配で、詰まりにくくしてある」
「おめでとうございます。成功です」
ロクスが立ち上がった。琥珀色の瞳が穏やかに細められている。
「——ところで、成功の後に何が来るか、お嬢様はもうご存知ですよね」
「やめて。せめて今日だけは喜ばせて」
畑に水が染みていく。黒い土が少しずつ色を変えて、水分を吸い込んでいる。指先で土に触れた。冷たくて、湿っていて、ずっしりと重い。生きている土の感触。
——水路: 七十二点。いや、ロクスに先に採点された。わたしの仕事なのに。減点一点。合計七十一点。
***
苦情は、昼前に来た。
水路の下流。畑から百メートルほど離れた場所に、小集落がある。五軒の家と、共同の井戸。そこから一人、男が登ってきた。
骨ばった手。日焼けの深い皺。腕を組んで、こちらを見ている。目が据わっていた。怒っている、というより、困っている顔だった。
「ハウゼさん」
「嬢さん。また水の話だ」
令嬢モード起動。背筋を伸ばして、穏やかに微笑む。内心は総動員体制に入っている。先月、土嚢の件でひと悶着あった相手だ。苦情を持ってくるのは分かっていた。
「お茶でも——」
「茶はいい。水の話だ」
ハウゼが腕を解いて、水路ではなく、その先——川の下流を指差した。太い指が、森の手前の窪地を示している。
「上で水路を弄ったろう。おかげで淵の水が浅くなった」
淵。水路じゃなくて、淵?
「川の曲がりっ鼻にある淀みだ。うちは毎年そこで亜麻を漬ける。秋に刈った茎を二、三週間水に沈めて、繊維を取るんだ。あの淵がなけりゃ布が作れねえ」
ハウゼの声に怒りはなかった。ただ、疲れたような、当たり前のことを説明させられている苛立ちが滲んでいた。
「あんたの水路が川から水を引いた分、下の淵の水位が下がった。今年は茎が半分しか浸からねえ。これじゃ繊維が取れん」
胃がきゅっと縮んだ。
水量は計算した。下流への流量も、前回の反省を踏まえて引き直した。畑に届く水は足りているはず。でも——川の水が、畑だけに使われているなんて、誰が言った?
亜麻を漬ける。布を作る。そんな使い方があることを、わたしは知らなかった。
「……申し訳ありません」
令嬢モードが揺らいだ。素で謝った。ハウゼの目が少し丸くなった。
「嬢さんが謝るのか」
「わたしの水路ですから」
「ふん」
ハウゼが鼻を鳴らした。軽蔑ではなかった。意外そうな、それだけの反応。
横でロクスが口を開いた。
「つまりお嬢様の水路が、想定外の方面にまで影響力を発揮されたと。守備範囲が広うございますね」
——それ、フォローのつもり? 全然フォローになってないんだけど。
ハウゼがロクスを見た。「何言ってんだ、こいつ」という顔をしている。わたしも同じ気持ちだ。
「ハウゼさん。淵の水位を戻す方法を考えます。少しお時間をいただけますか」
「戻せるのか」
「水路を見直して、淵に水が回るようにします」
「口だけじゃねえだろうな」
「口だけだったら、また来てください。その時は——」
言葉に詰まった。何を賭ければいいか分からない。
「その時は、わたしが直接亜麻を漬ける場所を探します」
ハウゼが、じっとこちらを見た。数秒。長い数秒だった。
「……ふん。まあ、見とくよ」
背を向けて、下流に戻っていった。足取りは重い。でも、来た時よりは少しだけ軽かった気がする。
***
帰り道。秋の夕暮れが早い。西の空がオレンジ色に染まっていて、足元の枯れ葉が風に揺れている。遠くの下流の集落から、細い煙が上がっていた。夕飯の支度だろう。
「ロクス」
「はい」
「七十二点、やっぱり高すぎた」
「と言いますと」
「水の量は計算した。でも水の使われ方を知らなかった。六十点に下方修正」
「厳しいですね」
「甘くしたら次も同じことやるでしょ」
枯れ葉を踏んだ。乾いた音。かさり。十月の夕暮れは冷たい。吐く息が白くなりかけている。
——七十二点。減点理由: 川の水が畑だけのものだと思っていた。
木板を取り出して、炭筆で書きつけた。「下流: 淵の水位回復。亜麻の水漬け。冬前に交渉。優先度: 高」
水路から淵に水を分ける方法はあるか。分岐路を追加して、淵に水を回す? でも水路の水は流水だ。淵に必要なのは溜まった水。流し込んでも流れ出てしまう。淵の上流で堰を作って水を溜める? でもそうすると水路の流量が減る。
——採点: 分岐案、三十五点。堰案、四十点。どちらも穴がある。そもそも、流水と溜まり水は別の問題だということに今日気づいた。合格点の案がまだ一つもない。炭筆を持つ手に力が入った。板の表面に書き殴った文字が、夕日に照らされて黒く光っている。
——水路成功、淵が浅くなる、苦情、交渉、失敗、対立、孤立。
やめよう。最悪の想像が得意すぎる。
「お嬢様」
「うん」
「下流の集落の問題は、交渉で解決できる範囲です」
「うん。時間はかかるけど」
夕暮れの空が、オレンジから紫に変わっていく。遠くの山の稜線が、暗い影になって浮かんでいた。
成功した。でも、成功が問題を呼んだ。
——いつもこれだ。でも、前よりは上手くやれてる。前よりは。
枯れ葉を踏む音が、二人分。屋敷までの帰り道は、もう少しだけ続いた。
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