表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
辺境令嬢と、退屈知らずの執事  作者: 猫野ひかる
2章「失敗は先払い」

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
36/59

第36話「七十二点の水路」

 水が流れた。


 今度こそ、設計通りに動いた。


 設計通りの速度で、設計通りの量が、設計通りの場所へ。


 土の溝を水が伝う音が聞こえる。

 さらさらと、細く、途切れずに。

 朝日が水面を照らして、白い光の帯が揺れた。


 わたしは小さくガッツポーズをした。


「ロクス。見た? 見た?」


「ええ。お見事です。——七十二点といったところでしょうか」


「点数つけるのわたしの癖なんだけど!?」


 朝の冷たい空気が頬を刺す。十月の半ば。秋はもう深い。畑の端に霜が降りていて、草が白く凍っている。その中を、水路だけが動いていた。流れている。止まらずに。妨害されることもなく、止まらずに。


 ロクスが水路の縁にしゃがみ込んで、流量を確認している。白手袋の指先が、水に触れないぎりぎりの距離で水面をなぞった。


「流量は安定しています。傾斜の調整が効いていますね」


「でしょ。前回も傾斜は計算した。今回はそこに土の吸い込み速度まで入れたの。三段階の勾配で、詰まりにくくしてある」


「おめでとうございます。成功です」


 ロクスが立ち上がった。琥珀色の瞳が穏やかに細められている。


「——ところで、成功の後に何が来るか、お嬢様はもうご存知ですよね」


「やめて。せめて今日だけは喜ばせて」


 畑に水が染みていく。黒い土が少しずつ色を変えて、水分を吸い込んでいる。指先で土に触れた。冷たくて、湿っていて、ずっしりと重い。生きている土の感触。


 ——水路: 七十二点。いや、ロクスに先に採点された。わたしの仕事なのに。減点一点。合計七十一点。


***


 苦情は、昼前に来た。


 水路の下流。畑から百メートルほど離れた場所に、小集落がある。五軒の家と、共同の井戸。そこから一人、男が登ってきた。


 骨ばった手。日焼けの深い皺。腕を組んで、こちらを見ている。目が据わっていた。怒っている、というより、困っている顔だった。


「ハウゼさん」


「嬢さん。また水の話だ」


 令嬢モード起動。背筋を伸ばして、穏やかに微笑む。内心は総動員体制に入っている。先月、土嚢の件でひと悶着あった相手だ。苦情を持ってくるのは分かっていた。


「お茶でも——」


「茶はいい。水の話だ」


 ハウゼが腕を解いて、水路ではなく、その先——川の下流を指差した。太い指が、森の手前の窪地を示している。


「上で水路を弄ったろう。おかげで淵の水が浅くなった」


 淵。水路じゃなくて、淵?


「川の曲がりっ鼻にある淀みだ。うちは毎年そこで亜麻を漬ける。秋に刈った茎を二、三週間水に沈めて、繊維を取るんだ。あの淵がなけりゃ布が作れねえ」


 ハウゼの声に怒りはなかった。ただ、疲れたような、当たり前のことを説明させられている苛立ちが滲んでいた。


「あんたの水路が川から水を引いた分、下の淵の水位が下がった。今年は茎が半分しか浸からねえ。これじゃ繊維が取れん」


 胃がきゅっと縮んだ。


 水量は計算した。下流への流量も、前回の反省を踏まえて引き直した。畑に届く水は足りているはず。でも——川の水が、畑だけに使われているなんて、誰が言った?


 亜麻を漬ける。布を作る。そんな使い方があることを、わたしは知らなかった。


「……申し訳ありません」


 令嬢モードが揺らいだ。素で謝った。ハウゼの目が少し丸くなった。


「嬢さんが謝るのか」


「わたしの水路ですから」


「ふん」


 ハウゼが鼻を鳴らした。軽蔑ではなかった。意外そうな、それだけの反応。


 横でロクスが口を開いた。


「つまりお嬢様の水路が、想定外の方面にまで影響力を発揮されたと。守備範囲が広うございますね」


 ——それ、フォローのつもり? 全然フォローになってないんだけど。


 ハウゼがロクスを見た。「何言ってんだ、こいつ」という顔をしている。わたしも同じ気持ちだ。


「ハウゼさん。淵の水位を戻す方法を考えます。少しお時間をいただけますか」


「戻せるのか」


「水路を見直して、淵に水が回るようにします」


「口だけじゃねえだろうな」


「口だけだったら、また来てください。その時は——」


 言葉に詰まった。何を賭ければいいか分からない。


「その時は、わたしが直接亜麻を漬ける場所を探します」


 ハウゼが、じっとこちらを見た。数秒。長い数秒だった。


「……ふん。まあ、見とくよ」


 背を向けて、下流に戻っていった。足取りは重い。でも、来た時よりは少しだけ軽かった気がする。


***


 帰り道。秋の夕暮れが早い。西の空がオレンジ色に染まっていて、足元の枯れ葉が風に揺れている。遠くの下流の集落から、細い煙が上がっていた。夕飯の支度だろう。


「ロクス」


「はい」


「七十二点、やっぱり高すぎた」


「と言いますと」


「水の量は計算した。でも水の使われ方を知らなかった。六十点に下方修正」


「厳しいですね」


「甘くしたら次も同じことやるでしょ」


 枯れ葉を踏んだ。乾いた音。かさり。十月の夕暮れは冷たい。吐く息が白くなりかけている。


 ——七十二点。減点理由: 川の水が畑だけのものだと思っていた。


 木板を取り出して、炭筆で書きつけた。「下流: 淵の水位回復。亜麻の水漬け。冬前に交渉。優先度: 高」


 水路から淵に水を分ける方法はあるか。分岐路を追加して、淵に水を回す? でも水路の水は流水だ。淵に必要なのは溜まった水。流し込んでも流れ出てしまう。淵の上流で堰を作って水を溜める? でもそうすると水路の流量が減る。


 ——採点: 分岐案、三十五点。堰案、四十点。どちらも穴がある。そもそも、流水と溜まり水は別の問題だということに今日気づいた。合格点の案がまだ一つもない。炭筆を持つ手に力が入った。板の表面に書き殴った文字が、夕日に照らされて黒く光っている。


 ——水路成功、淵が浅くなる、苦情、交渉、失敗、対立、孤立。


 やめよう。最悪の想像が得意すぎる。


「お嬢様」


「うん」


「下流の集落の問題は、交渉で解決できる範囲です」


「うん。時間はかかるけど」


 夕暮れの空が、オレンジから紫に変わっていく。遠くの山の稜線が、暗い影になって浮かんでいた。


 成功した。でも、成功が問題を呼んだ。


 ——いつもこれだ。でも、前よりは上手くやれてる。前よりは。


 枯れ葉を踏む音が、二人分。屋敷までの帰り道は、もう少しだけ続いた。

お読みいただきありがとうございました!


この話の点数、いかがでしたか?

【☆☆☆☆☆】やブックマークで採点いただけると、作者の執筆意欲が50点くらい上がります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ