第35話「本当にミレイアなの?」
母は笑っていた。
お茶を飲みながら、穏やかに、優雅に。
だがその目は、笑っていなかった。
「ミレイア。手を見せて?」
居間の暖炉の火が、ぱちりと爆ぜた。秋の午後、窓から差し込む光が、セラの肩に薄い影を落としている。香水の匂いが居間に漂っていた。花と果実を混ぜたような、上品で、少しだけ甘すぎる匂い。
右手を差し出した。
セラの指が、わたしの手を取った。指先が冷たい。でも力は優しかった。
「あら」
わたしの手を裏返して、指の腹を見ている。爪の間の土。指先のひび割れ。塩漬けの作業でざらざらになった掌。
「手が荒れているわね。前は、こんなことなかったのに」
令嬢モードを全力起動した。微笑む。穏やかに。
「少し、庭の手入れに興味が出まして」
横でロクスが口を開いた。
「お嬢様は最近、庭の手入れに熱心でいらっしゃいまして。土いじりがお好きなようで」
——要は、畑仕事を「庭の手入れ」に言い換えてくれた。ありがたい。でもセラの目は笑っていない。
「庭の手入れ。ミレイアが?」
セラがお茶のカップを置いた。陶器がソーサーに触れる一瞬、音がしなかった。完璧に制御している。この人の所作には隙がない。
「それだけじゃないわよね。料理もしているでしょう? ヨルダから聞いたわ」
「少し、教養として」
——教養じゃないよ。生存のためだよ。
「教養、ね」
セラの視線がわたしの顔に止まった。薄い青灰色の瞳。娘と同じ色のはずなのに、深さが違う。この人の目は、ガラス玉のように透明で、その奥に何を考えているか読めない。
「最近、よく笑うようになったわね」
「そうですか?」
「ええ。前のミレイアは、もっと静かだった。本を読んで、部屋にいて、お菓子を食べて。それで満足していたでしょう?」
心臓の鼓動が早くなっている。自分で分かる。胸の奥で、とくとくと速くなるリズム。顔には出さない。出してはいけない。
「人は変わりますわ、お母様」
「そうかしら」
***
セラが、二杯目のお茶を注いだ。自分で。ロクスが注ごうとしたのを、手で制して。
「ロクスさん、ありがとう。でも自分でやるわ」
「かしこまりました、奥様」
ロクスが一歩引いた。白手袋の手が、膝の横で揃えられる。この人は、セラの前では少しだけ動きが硬い。
セラが茶を注ぎながら、視線を落としたまま言った。
「ミレイア。一つ聞いていい?」
「はい」
「本当にミレイアなの?」
居間の空気が止まった。
暖炉の火の音だけが聞こえる。ぱち、ぱちり。薪が崩れて、小さな火花が散った。
セラの瞳がこちらを真っ直ぐに見ていた。笑みは消えていない。穏やかで、優雅で、完璧な母の顔。でもその奥に、何か別のものがある。怒りじゃない。悲しみでもない。
——心配、だ。この人は心配している。だから怖い。
「わたしは昔から変わりませんわ、お母様」
声が棒読みになった。令嬢モードの精度が落ちている。三日間の特訓は足りなかった。セラの目は全てを見透かしている。手の荒れ。料理への関心。笑い方の変化。焼き菓子の名前を口にしたこと。
セラがカップを持ち上げた。唇をつけて、一口飲んだ。
「そう」
一言。
その一言の中に、信じていない響きが確かにあった。でも追及は来なかった。
「変わらないのね」
繰り返した。前回もこの言葉だった。同じ言葉を使って、同じ表情で、でも意味が少しずつ深くなっている。
わたしの手が、膝の上で握りしめられていた。指先が白い。
***
「奥様、お茶の支度が整いましたが——ご命令とあれば後ほど」
ロクスの声が、居間の空気を切った。
セラが振り向いた。ロクスが居間の入口に立っている。両手にお茶の盆を持って、わずかに頭を下げている。タイミングが完璧だった。あと三秒遅かったら、わたしは何か余計なことを口走っていた。
「あら、ロクスさん。気が利くのね」
「執事の務めでございます」
セラが立ち上がった。衣擦れの音。絹のスカートが床を擦った。
「そうね。お茶をいただこうかしら。もう少し、ゆっくりしていきたいのだけど——今日は帰るわ」
「お見送りいたします」
「いいの。ミレイアに見送ってもらうわ」
ロクスが引いた。盆を置いて、居間の隅に退いた。目だけがこちらを見ている。琥珀色の瞳が、微かに光った。
——助かった。
セラと並んで、居間を出た。廊下を歩く。母の歩幅は小さくて、靴音が規則正しい。わたしの歩幅はその半分くらい不安定で、ときどきつま先が引っかかる。
玄関まで送った。馬車が待っている。御者が扉を開けた。
セラが馬車に乗り込む前に振り返った。
「ミレイア。あなたは変わったわ」
わたしの足が止まった。
「……悪い意味じゃないの」
その言葉が、妙に優しかった。
セラの目が、初めて笑っていた。ほんの一瞬。口元の微笑みではなく、目の奥の光が和らいだ瞬間。それは確かにあった。
「また来るわね」
馬車の扉が閉まった。車輪が石畳を鳴らして、ゆっくりと動き出した。
***
母の馬車が見えなくなるまで、わたしは玄関に立っていた。
見えなくなった。
足が震えた。膝が笑っている。廊下の壁に手をついて、そのまま座り込んだ。石の床が冷たい。スカートの裾が広がった。
呼吸が荒い。自分の息の音が、やけに大きく聞こえる。
「……ふう」
長い、長い息を吐いた。
廊下の奥から、靴底が石を踏む静かな音が近づいてきた。目の前に、白い湯気が差し出された。お茶のカップ。
「ロクス」
「はい」
「ありがと」
カップを受け取った。指先が震えていて、少しこぼれた。温かい液体が手の甲を伝った。お茶の香りが鼻に届く。いつもの茶葉。いつもの淹れ方。ロクスの茶。
ロクスは何も言わなかった。隣に立って、何も言わなかった。
お茶を一口飲んだ。喉が熱い。温かさが胸の奥に落ちていく。
「ロクス。あの人は、気づいてる」
「ええ」
「気づいていて、泳がせてる」
「おそらく」
「次は、もっと踏み込んでくる」
「そうでしょうね」
ロクスの声は静かだった。煽りも言い換えもなかった。ただ事実を認めているだけの、低い声。
お茶のカップを両手で包んだ。まだ温かい。石の床の冷たさと、カップの温かさが、同時に体に触れている。
「次はもっと上手くやらないと」
「お嬢様」
「うん」
「令嬢モードの改善も結構ですが、まずは足元をご覧ください。石の床に直にお座りですよ」
見下ろした。確かに、廊下の石の上にべたんと座り込んでいる。令嬢が座る場所じゃない。通算五回目だ。
「……今だけは許して」
ロクスが小さく息を吐いた。笑ったのか、ため息なのか、分からなかった。
母は変わったと言った。悪い意味じゃないと言った。
あの人は——気づいている。気づいていて、泳がせている。
でも、「悪い意味じゃない」と言った目は、嘘じゃなかった気がする。
お茶を、もう一口飲んだ。少しだけ、手の震えが止まっていた。
お読みいただきありがとうございました!
この話の点数、いかがでしたか?
【☆☆☆☆☆】やブックマークで採点いただけると、作者の執筆意欲が50点くらい上がります。




