第34話「水路と農夫」
土を掘り返すと、黒い匂いがした。
前の世界では嗅いだことのない、大地の匂い。重くて湿っていて、生きている。腐葉土と粘土が混ざったような、複雑で濃い匂い。
この土は水を吸うのか、通すのか。それが水路の成否を分ける。
今回は、何一つ手を抜かない。「水路を掘れば水が流れる」——それだけじゃ足りない。土の質によって水の流れ方は変わる。粘土質の土は水を通さない。砂質の土は水を通しすぎる。理屈は合っていても、条件を確認しなければ設計は完成しない。
前回の水路は設計も計算も正しかった。でも今回は、難癖をつける余地すら残さない。
鋤で穴を掘った。膝くらいの深さ。手桶で水を注いで、吸い込む速度を見る。
水が、じわりと沁みていく。速すぎず、遅すぎず。
「ロクス、ここの土、悪くないかも」
「ほう。根拠は?」
「穴に水を入れて、吸い込む速度を見た。粘土質だと水が溜まって動かない。砂質だとすぐ消える。ここは、ちょうどいい速度で沁みてく」
「現場で確認してから設計を始めていますね。念入りです」
「難癖の余地を作りたくないから」
「それは評価に値します」
——褒められてるんだと思いたい。
水路の設計図を、木板に一から描いた。今回は、土壌の状態を踏まえて勾配を見直す。水は高いところから低いところに流れる。当然だ。でもその「高低差」をどこに作るかで、畑への水の行き渡り方が変わる。
炭筆で線を引く。手が黒くなった。秋の低い日差しが、木板の上の線を照らして影を作った。
***
昼過ぎ、畑の横の水路予定地で鋤を振っていたら、人影が見えた。
日焼けした肌。がっしりした体格。短い髪。鋤を一本、肩に担いでいる。
ニロだった。
何も言わなかった。ただ、水路の端に立って、わたしが掘っている溝の延長線上に鋤を下ろした。土を掘り始めた。
「ニロ?」
「……手が空いてただけっす」
頭の後ろを掻いた。嘘だ。秋の収穫期に手が空いている農夫はいない。
「まあ、ありがたいですわ」
令嬢モードを薄く起動した。穏やかに微笑んで、軽く頭を下げる。
——嬉しい。めちゃくちゃ嬉しい。でも令嬢は喜びすぎない。落ち着け、わたし。
ニロはそれ以上何も言わなかった。ただ黙々と鋤を振った。土が切れる音が、二人分になった。ざく、ざく、ざく。一定のリズム。わたしの鋤は三回に一回空振りするけど、ニロの鋤は一度も外れない。農夫の腕だ。
ロクスが水路の上流側から歩いてきた。白手袋が秋の日差しに白く光っている。
「お嬢様。村に初めての志願者が現れました。歴史的な瞬間ですね」
「大げさだよ」
「歴史とは、小さな瞬間の積み重ねです」
ニロがロクスをちらりと見た。何か言いたそうにして、やめて、また鋤を振った。
「三十点の道の次は水路っすか」
「道は三十点だったけど、水路は何点になるかな」
「さあ。でも、道よりはましになるんじゃないっすか。土、ちゃんと調べてたみたいだし」
ニロの声は低くて、言葉が少ない。でも見ていた。わたしが朝から穴を掘って、水を注いで、土の質を調べていたのを。
午後の日差しが傾き始めた。二人で掘った溝は、予定の三分の一くらいまで伸びた。完成には程遠い。でも、確実に前に進んでいる。
***
日が傾いて、影が長くなった。
わたしは水路の横に座り込んだ。ぺたん、と。令嬢の座り方じゃない。地面に直接お尻をつけて、足を投げ出して。土の冷たさが、スカート越しに伝わってきた。
ニロが目を丸くした。鋤を持ったまま固まっている。
「お嬢様、その。地面、冷たくないっすか」
「冷たい。でも足が動かない」
額の汗を手の甲で拭った。手が土で汚れているから、額にも泥がついたと思う。前の世界でも、疲れると場所を選ばず座り込む癖があった。バイト先の倉庫の床。大学の廊下。コンビニの前の縁石。
「お嬢様が地面にお座りになった記録、更新されました。通算四回目です」
ロクスが横に立っていた。いつの間に来たのか、白手袋の手に水差しを持っている。
「記録つけてるの?」
「ええ。お嬢様の行動の中で、最も予測可能な現象ですので」
「……それ、褒めてないよね」
「事実を記録しているだけでございます」
ニロが困ったように、わたしとロクスを交互に見ている。この掛け合いに慣れていないのだ。
「ニロ、気にしないで。うちの執事はこういう人なの」
「はあ」
水差しの水を飲んだ。冷たい水が喉を鳴らした。
——今日の進捗、四十五点。まだ三分の一だから控えめに。ニロの参加で加点十点。合計五十五点。
悪くない。悪くないけど、まだ足りない。水路は三分の一。完成までに何日かかるか分からない。でも今日、一人じゃなかった。それだけで、前回とは違う。
日が沈みかけていた。空がオレンジ色から紫に変わっていく。ニロが鋤を肩に担いで、帰り支度を始めた。
「明日も来るっす。……手が空いてたら」
「ありがとう、ニロ」
令嬢モードを外して、素で言った。ニロが一瞬だけ目を見開いて、それから頭の後ろを掻いて、黙って歩いていった。
ロクスが横で茶器を片付けていた。ここでもお茶を淹れたのか。どこにでも茶器を持ってくる人だ。
「ロクス」
「はい」
「一人じゃなかった。今日は」
「ええ。お嬢様の采配の結果ですね」
「采配じゃないよ。ニロが勝手に来たんだから」
「『勝手に』人が来る場所を作ったのは、お嬢様です」
——素直に褒めてくれてもいいのに。
帰り道、ロクスが言った。
「お嬢様。奥様からお便りが届いておりました」
「内容は?」
「三日後にお見えになるとのことです。『ゆっくりお話ししたいわ』と」
わたしの足が止まった。
前回の「焼き菓子」の一件がまだ胸にある。母の前で、知らないはずの菓子の名前を口にしてしまったこと。セラの目が、あの時どんな色をしていたか。
「ロクス。わたし、三日で令嬢モードの精度を上げられると思う?」
「お嬢様の令嬢モードは、上げるというより、根本から疑問がございますが」
「……助けてくれるんでしょ?」
「ええ。お茶の支度は任せてください」
白手袋の手が、ポケットから手紙を取り出して差し出した。セラの筆跡。丸みのある、品の良い文字。
三日後。母が来る。
水路の土の匂いが、まだ手に残っていた。
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