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辺境令嬢と、退屈知らずの執事  作者: 猫野ひかる
2章「失敗は先払い」

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第33話「ガレドのことは考えない」

 今日のやらないことリスト。


 一、ガレドのことを考えない。


 二、ガレドの嫌がらせに反応しない。


 三、ガレドという名前を口にしない。


 書き終えて三秒後、わたしはロクスに言った。


「ガレドってさ——」


 ロクスがお茶を注ぐ手を止めなかった。朝の食堂、かまどの火が低く燃えている。木板に書いたばかりのやらないことリストが、テーブルの上でインクも乾かないうちに無効になった。


「——行商人にまで手を回してるんだよね。仕入れ先、全部塞がれてるって」


「ほぼ全て、と申し上げました」


「『ほぼ』って、どのくらい?」


「九割五分ほどかと」


「それ、ほぼ全部って言うんだよ」


「ええ。ですから、ほぼ全てと申し上げました」


 ——「詰んでる」って認めたくないだけでしょ、この人。


 朝食の粥を掬った。二十八点の雑穀粥。味は相変わらず足りないけど、温かいだけでありがたい。粥の湯気が顔に当たる。


「今日、学院に行く日だった」


「はい。馬車の支度は済んでおります」


「コリンナに相談してみる。商家の娘だし、ガレドを通さないルートを知ってるかもしれない」


「なるほど。お嬢様が人脈を活用なさるとは」


「活用っていうか、頼る。正直に」


「正直さは美徳です。特に、他に選択肢がない場合は」


 やらないことリストの木板を裏返した。表のインクが手についた。指先が黒い。


***


 学院の中庭は、秋の終わりの色に染まっていた。


 噴水は枯れていた。石の器の底に落ち葉が溜まって、茶色い水たまりになっている。ベンチの周りにも落ち葉が散らばって、踏むとかさかさと乾いた音がした。


 コリンナは中庭のベンチに座っていた。明るい栗色の髪を編み込みにまとめて、鼻梁のそばかすが秋の弱い日差しに浮いている。目つきが鋭い。指先がインクで汚れていた。何か書いていたのを中断して、こちらを見た。


「カルセドさん。顔が暗いね」


「そう見える?」


「見える。で、何?」


 単刀直入。この子はいつもそうだ。


 ガレドの話をした。干し肉の供給停止。行商人への圧力。自力で保存食を作り始めたこと。


 コリンナは最後まで黙って聞いていた。途中で目が細くなった。計算しているときの顔だ。


「うん。厳しいね」


「厳しいの、分かってる」


「ガレドの影響力、あんたが思ってるより広いよ。この辺りの行商人、王都経由の仕入れルートがほとんどでしょ。王都の卸商はガレドの商会と取引があるの。だから末端の行商人に圧力かけなくても、上流で止められる」


 コリンナの指がインクの染みを擦った。無意識の仕草。早口で、断定的で、容赦がない。


「あんた、ガレドって名前出すとき顔怖いよ」


「ふふ、そうかしら」


 ——怖いに決まってる。あいつ嫌い。


 令嬢モードの笑みを頬に貼り付けたまま、わたしは聞いた。


「じゃあ、完全に手詰まり?」


「手詰まりとは言ってないでしょ。方法がないわけじゃない」


 コリンナが身を乗り出した。ベンチのきしむ音。落ち葉の匂いが風に乗って、鼻先をかすめた。


「王都を経由しないルートがあるの。地方の小さな行商人。ガレドの網にかかってない連中。ただし、数が少ないし、信用もまだない。時間がかかる」


「どのくらい?」


「半年か、一年か。つてを辿って、少しずつ」


「……半年」


 改善勧告書の期限が頭をよぎった。残り四ヶ月。半年は長すぎる。でも糸口があるだけましだ。


「コリンナ、ありがとう。助かった」


「お礼はいいよ。あたしもガレドの一人勝ちは気に入らないし」


 コリンナが立ち上がった。スカートの裾から落ち葉を払う。その時、ふと振り返って言った。


「ねえ、カルセドさん。いつまでその呼び方?」


「え?」


「あたしの名前で呼んでいいよ、ミレイア」


 名前を呼ばれた。カルセドさん、じゃなくて、ミレイア。商家の娘の口から出た音は、思ったより軽くて、普通だった。


「……コリンナ」


「うん。そっちのほうが楽でしょ」


 コリンナが笑った。目つきは相変わらず鋭いけど、口元は柔らかかった。


 帰り際、コリンナがもう一つ言った。


「ガレドの件で分かったことがあるんだけど。あんたのお父様の旧友で、ヴァルターって人知ってる?」


「ヴァルター? 聞いたことない」


「昔、カルセド領に物資を運んでた行商人だったらしいの。でもガレドが台頭してから消えた。今どこにいるかは分からないけど、もしつてがあるなら使えるかも」


「分かった。調べてみる」


***


 帰りの馬車は揺れた。


 窓の外を秋の森が流れていく。日が短くなっている。まだ夕方の手前なのに、森の奥はもう暗い。木々の影が長く伸びて、馬車の車輪が枯れ葉を踏む音だけが一定のリズムを刻んでいた。


 脳内裁判を開廷する。


 ——議題、ガレドを何とかできるか。


 検察側の主張。ガレドの影響力は地方全域に及ぶ。行商人の九割五分が影響下。王都経由の仕入れルートは上流で遮断可能。資金力、人脈、商業ネットワーク。全てにおいてこちらが劣勢。


 弁護側の主張。


 ……なし。


 いや、一つあった。コリンナの言葉。「王都を経由しないルートがある。時間がかかるけど」


 ロクスならこう言う。「お嬢様の敵意は大変結構ですが、戦略なき敵意は浪費です」とか。


 ——うるさい。脳内のあんたは黙ってて。


 判決。現時点では無理。ただし控訴の余地あり。


 馬車が屋敷の前に着いた。石畳を踏んで降りると、夕方の冷たい空気が首筋に触れた。


 玄関でロクスが待っていた。いつもと同じ黒の執事服。白手袋。


「お帰りなさいませ、お嬢様」


「ただいま」


 コリンナとの会話を手短に報告した。ガレドの流通支配のこと。王都を経由しない地方ルートのこと。


「それと、コリンナが言ってたんだけど。父の旧友で、ヴァルターって人がいたらしい。昔カルセド領に物資を運んでた行商人で」


 ロクスの表情が、一瞬だけ止まった。カップをソーサーに戻す手が、途中で止まった。


 笑みでもなく、驚きでもなく。ただ、動きが消えた。琥珀色の瞳が、ほんの一拍だけ焦点を失ったように見えた。


 ——今の、なに?


「ロクス?」


「失礼。少し、考えごとを」


 すぐにいつもの表情に戻った。口元に薄い笑みが浮かんでいる。


 気のせい、かもしれない。長い馬車の旅で疲れているのかもしれない。わたしも疲れている。考えすぎだ。


「お嬢様、お帰りなさいませ。それと、水路の件で一つご報告が」


「何?」


「村の農夫が一人、お手伝いをしたいと」


「え?」


 ロクスが小さく頷いた。


 疲れていたはずの頭が、少しだけ軽くなった。

お読みいただきありがとうございました!


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