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辺境令嬢と、退屈知らずの執事  作者: 猫野ひかる
2章「失敗は先払い」

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第32話「塩漬けと燻製の微成功」

 干し肉が来月から止まる。


 つまりわたしたちは、自力で肉の保存法を確立しないと、冬に飢える。


「ロクス、『とある家で見た方法』って、具体的にどういうの?」


「塩漬けと燻製でございます。かつて仕えた家の台所で見かけたものですが」


「何年前?」


「さあ。覚えておりません」


 ——絶対百年以上前だろ。


 朝の台所。かまどの火が赤く燃えている。ヨルダが鍋の中身をかき回しながら、こちらの会話に耳を傾けていた。


「塩漬けは分かるけど、燻製ってこの辺りでやってる人いるの?」


「いませんね。だからこそ試す価値があるかと」


「ロクス。その『とある家』では、燻製に何の木を使ってたの?」


「ラーデン木と申しまして。樹脂が少なく、煙に甘い香りが出る上質な薪材でございました」


 ヨルダが振り返った。前掛けで手を拭く動作が止まっている。


「ロクス様、ラーデン木って」


「はい」


「あれ、二百年前に枯れた木ですよ。この辺りじゃ、おばあちゃんの昔話にしか出てこない」


 沈黙が落ちた。かまどの火がぱちりと爆ぜた。


 ロクスの表情は微塵も動かなかった。琥珀色の瞳が、かまどの炎を静かに映している。


「ほう。そうでしたか。時の流れとは、木をも枯らすものですね」


 ——「時の流れ」じゃなくて。あんたの時間感覚がおかしいんだよ。


「では代わりの木を。この地方で手に入る、樹脂の少ない木は?」


「カシワならありますよ。裏の林に」とヨルダが即答した。


「カシワですか。なるほど。私が知る限り、カシワの煙は——いえ、試してみましょう」


「ロクス、今『私が知る限り』って言いかけたけど、それも二百年前の知識?」


「さあ。覚えておりません」


 ——この人の「覚えておりません」は信用してはいけない。覚えている。絶対覚えている。ただ、答える気がないだけだ。


 ヨルダが困ったように首を傾げた。でも追及はしなかった。この屋敷では、ロクスの言うことにいちいち突っ込んでいたら日が暮れる。それは全員が分かっていた。


***


 裏庭に即席の燻製台を作った。


 石を積んで、上に鉄板を渡して、カシワの枝を燃やす。煙が立ち上る。白くて、少しだけ甘い匂い。ラーデン木とやらには負けるのかもしれないけど、悪くない。


 塩漬けのほうは、もっと単純だった。


 切り分けた肉に塩をたっぷり擦り込む。指先に塩の結晶が食い込んで痛い。手のひらがざらざらする。これは前の世界の知識でも分かる。塩の浸透圧で水分を抜く。水分がなければ細菌が繁殖しにくい。原理は単純だ。


 問題は、塩の量だった。


「どのくらい入れるの?」


「肉の重さの二割ほどが目安かと。かつてはそのように」


「二割ね。で、それも二百年前の基準?」


「……記憶が曖昧でございますので、少し多めにしておきましょう」


 ロクスが白手袋のまま塩の袋を持ち上げた。持ち上げ方が妙に丁寧で、袋の口を片手で支える所作が執事というより、もっと古い時代の作法に見えた。


 ——この人の動きは、ときどき「執事」から外れる。


 燻製台の煙がもうもうと立ち上って、目が沁みた。ヨルダが咳き込みながら鉄板の位置を調整している。わたしは塩漬けの肉を裏庭の日陰に並べた。


「ロクス、燻製ってどのくらい時間かかるの?」


「半日ほど。煙を絶やさぬよう、薪を足し続ける必要があります」


「半日」


「はい。かつて見た職人は、夜通し火の番をしておりました。……何百年前かは、聞かないでいただけると」


「聞いてない。でも自分で言ったよね、今」


 ロクスが小さく口の端を上げた。琥珀色の瞳が面白がっている。この人は自分の「時間感覚のズレ」を、わざと見せている節がある。からかっているのか、試しているのか。


 半日後、燻製台から肉を取り出した。


 色が変わっていた。生の赤みが消えて、飴色に近い茶色。表面が乾いて、薄い膜ができている。触ると硬い。


「食べてみていい?」


「どうぞ」


 一切れ噛んだ。硬い。歯が軋むような音がする。塩味が強くて、舌がひりひりする。


 美味しくはない。


 でも。


「……保存できる。これ、保存できるよね」


「ええ。おそらく」


 ヨルダが隣で一切れ齧った。しばらく無言で噛んで、頷いた。


「悪くないですよ、お嬢様。味はまだまだですけど、腐りはしないでしょう」


 じわりと、胸の底が温かくなった。


 前の世界で、図書館の奥の棚に埋もれていた古い本を見つけた時の気持ちに似ている。誰も注目していない、地味な本。でも開いてみたら面白くて、一人で静かに嬉しかった。コンビニの惣菜を温める時の手軽な嬉しさとは違う。もっと地味で、もっと小さい。でも同じくらいの温度がある。


 ——わたしは、こういう小さい発見が好きなんだ。前の世界でも、この世界でも。


***


 成功の喜びは、夕方まで持たなかった。


 食堂のテーブルに、見覚えのある上質な紙が置かれていた。ガレドの商会の紋章が押された通知書。インクは黒く、筆跡は事務的に整っている。


 ロクスが紅茶を注ぎながら、静かに言った。


「通知書の前に、ひとつ。町でガレド殿の使用人と行き合いまして。興味深い話を聞きました」


「興味深い?」


「ガレド殿がここのところ機嫌を損ねておいでだと。供給を絞ったのに、この屋敷から泣きついてこない。手応えがないと苛立っておられるそうです」


 ロクスの声は天気の話と同じ温度だった。


「それから——パンの質が上がった、水路が直った、といった些末な情報を帳簿に書き込んでは消しているとか」


 手が止まった。


「帳簿に書いてるの? パンの点数を?」


「点数かどうかは存じませんが、逐一記録なさっているようで」


 ——わたしもやってるけど。木板に。炭筆で。


 口元が引きつりそうになるのを堪えた。いや、あっちは敵の帳簿だからまったく別物だ。まったく別物。


「効いてないと思ってるんだ」


「そのようで」


 効いてる。めちゃくちゃ効いてる。塩の在庫を見るたびに胃が重くなるくらいには効いてる。ただ、顔に出さないだけだ。


 ——まあ、勘違いしてくれてるなら好都合か。


 そう思ったのは、次の報告を聞くまでだった。


「ガレド殿の商会から、正式な通知でございます。干し肉の卸売りを、来月をもって全面停止すると」


「昨日ヨルダが言ってたやつの、正式版ってこと?」


「ええ。書面による通告は、この地方の商慣習では最終通知を意味します」


 紙を手に取った。上質な紙だった。厚みがあって、手触りが滑らかで、端が真っ直ぐに裁断されている。紙を広げるとかさりと乾いた音がした。インクの匂いが、紅茶の香りに混じった。


 ——良い紙を使うんだな、ガレドは。嫌がらせにも品質を求めるタイプか。


「ロクス。ガレドが干し肉を止めたってことは、わたしたちの保存食が脅威になったってことでしょ?」


「つまり、お嬢様の保存食の成功をガレド殿がご評価なさったと。光栄なことですね」


 ——要は「敵に認められた」って言いたいんだろうけど、全然嬉しくない。


「成功すると敵が動く。これで何度目でしょうか。お嬢様の成功は、予測可能な範囲で確実にトラブルを呼びますね」


「予測できるなら防いでよ」


「防ぐのはお嬢様のお仕事です。私はお茶を淹れる係ですので」


 紅茶のカップを持ち上げた。湯気が立つ。温かくて、少しだけ渋い。


 通知書を木板の横に置いた。


「なら、次はガレドを通さない仕入れ先を見つける」


「お嬢様。この地方の行商人は、ほぼ全てがガレド殿の影響下にあります」


「全部?」


「……ほぼ、全てです」


 ロクスの声から、いつもの面白がる調子が消えていた。琥珀色の瞳が、紅茶の水面を見つめている。


 外から冷たい風が吹き込んだ。秋が深まっている。冬は、確実に来る。

お読みいただきありがとうございました!


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