第31話「カビた保存食」
蓋を開けた瞬間、匂いで分かった。
「あ」
「お嬢様」
「……カビてる」
三日前に仕込んだ保存食は、見事な青緑色をしていた。
台所の乾燥棚に並べた干し肉。切り分けて、風通しのいい場所に吊るして、塩を軽く振って。それだけで冬の備えになると思った三日前のわたしに、今すぐ会いに行きたい。
——保存食の完成度、マイナス20点。点数がマイナスに入ったの、初めてだ。
「ロクス、これ全部駄目?」
「全部ですね。見事なまでに均一にカビが広がっております。ある意味、お嬢様の仕事は丁寧だったということかもしれません」
——ありがたくない丁寧さだ。
カビの青緑色が、台所のかまどの赤い火に照らされて妙に鮮やかだった。酸っぱい、発酵しかけたような臭いが鼻をつく。この匂いは前の世界でも嗅いだことがある。大学の寮の共用冷蔵庫の奥、誰のものとも知れない弁当箱を開けたあの瞬間。
「だから言おうとしたんですよ」
ヨルダの声が、背後から飛んできた。
振り返ると、丸顔の料理人が前掛けで手を拭きながら立っていた。灰色がかった茶髪を布巾で包んだ頭を、小さく横に振っている。
「乾燥の工程も、塩の量も、悪くはなかったんです」
「……え」
「問題はあの棚ですよ、お嬢様。北側の石壁に面してるでしょう。秋になると地面の湿気が壁を伝って上がってくるんです」
北側の壁。確かに、あの辺りだけ石が黒ずんでいた気がする。
「この屋敷、古いですから。石の組み方がもう傷んでて、外の湿気をそのまま吸い込む」
「……それを言おうとしてた?」
「仕込む前の日に。でもお嬢様、もう干してたんですよ」
「……うん。ごめん」
ヨルダの「だから言おうとした」は、これで二度目だ。前はパンの時だった。あの時も、わたしがもう動いてしまった後だった。早朝の台所で一人で作業を始めて、ヨルダが来た頃にはもう手遅れ。言いかけて、止まっていた。
知識はあったはずだ。保存食の乾燥には湿度管理が要る。塩の量も場所の選択も、ちゃんと考えなきゃいけない。前の世界の大学で、食品科学の授業でやった。ノートに書いた。試験にも出た。
でも「この屋敷の北側の石壁が秋に何をするか」は、どこにも書いていなかった。前の世界の知識と、この場所の記憶は、別物だ。
ロクスが台所の隅で、何事もなかったかのようにお茶の支度を始めた。
「お嬢様、お茶の時間ですが」
「今?」
「お茶の時間は死守させていただきます。たとえ台所が戦場であっても」
白手袋の手が、慣れた動作で急須を傾ける。湯気が立ち上る。カビの酸っぱい臭いの中に、茶葉の苦い香りがかすかに混じった。
「ロクス。お茶飲んでる場合じゃないんだけど」
「お茶を飲まない場合のほうが、事態は悪化すると思いますが」
——要は「落ち着け」。はい。
カビた肉を片付けながら、ヨルダが深いため息をついた。前掛けの布が、脂と煤で黒ずんでいる。この人はいつも台所にいる。かまどの火を絶やさず、鍋を磨き、食材を無駄にしないように目を光らせている。
その台所で、わたしは食材を無駄にした。
***
村に謝りに行った。
保存食に使った肉は、村の共有の備蓄から分けてもらったものだ。冬に備えて少しずつ蓄えていた大切な食糧。それをカビさせた。
「すみません。全部、駄目にしてしまいました」
頭を下げた。令嬢モードは使わなかった。これは素で謝るべき場面だ。
村の広場に集まった数人の顔は、怒っていた。「またか」という疲れた空気の下に、今回は別の温度があった。腕を組んで目をそらす男の顎が、微かに動いた。黙っているが、何かを飲み込んでいる。年若い女が口を引き結んだまま、目の端を赤くしている。枯れ葉が足元でかさりと鳴った。
「お嬢様。まあ、初めてのことですし」
年配の女性だけが声をかけてきた。気を遣う声だったが、前より張りがなかった。他の数人は、黙ったままだった。
「次は失敗しません。必ず」
自分で言って、自分で信じきれない。前も同じことを言った気がする。
帰り道、ロクスが隣を歩いていた。白手袋の手を背中の後ろで組んで、秋の低い日差しの中を長い影で進む。
「お嬢様。失敗する未来を先日お伝えしましたが、その通りになりましたね」
「……言わないで」
「私の予測精度は上がる一方です。次の失敗も、事前にお伝えできますが」
「いらない。次は失敗しないから」
「ほう。その宣言の成功率を計算してもよろしいですか」
——この人は本当に、落ち込んでるときに追い打ちをかけるのが上手い。
でも、不思議と腹は立たなかった。ロクスの声には、からかいの下に別の何かがある。煽っているようで、実はこちらの感情を動かそうとしている。落ち込んだままでいさせない、みたいな。
そう思ってから、ふと数日前のことがよぎった。あの「一拍の沈黙」。村人が目の光を報告してきた日、ロクスに問い詰めた時の、あの間。
——何か隠している。この人は確実に、何かを隠している。
でも今はその話じゃない。今は保存食だ。
「ロクス。次に試すとしたら、何がいい?」
「とある家で見た方法がありまして。塩漬けと燻製でございます」
「とある家?」
「ええ。昔、仕えておりました家の台所で見かけたものですが」
「何年前?」
「さあ。覚えておりません」
琥珀色の瞳が、夕日に照らされてわずかに金色に見えた。一瞬だけ。光の加減、だと思う。たぶん。
***
夜、部屋に戻った。
ベッドの上に丸くなっている三毛猫を見つけて、隣に座った。ミケは目を開けたまま、こちらを見上げた。丸い顔。ややふくよかな体。膝の上に乗ってきたので、背中を撫でた。
温かい。毛の下に、小さな骨と肉の感触がある。生きている重み。喉の奥から、ごろごろと低い音が伝わってきた。
「ミケ、聞いて。今日は保存食を腐らせた。大惨事」
にゃあ、と小さく鳴いた。
「三日前のわたしに言ってやりたい。ヨルダの『言おうとした』を、最後まで聞いておけって」
ミケが膝の上で丸くなり直した。体の向きが変わって、尻尾がわたしの手に触れた。柔らかくて、先っぽだけ冷たい。
前の世界でも、こういうことをしていた。コンビニの前にいた野良の三毛猫。名前は知らなかった。バイトの帰りに話しかけて、今日あったことを報告する。猫は当然、何も答えない。でも聞いてくれている気がして、それだけで少し楽になった。
蝋燭の火が揺れた。部屋の壁に影が伸びる。ミケの耳がぴくりと動いたが、わたしの膝からは降りなかった。
——でも、ロクスの部屋がある方角を、ときどきじっと見てるんだよね、この子。
ミケの目は閉じない。丸い瞳が、蝋燭の光を映して金色に見える。猫の目は、もともと光を反射するからだ。でもこの子がロクスの部屋の方を見る時の目は、それとは違う気がする。
考えても仕方ない。今日はもう寝よう。明日は塩漬けを試す。
「ミケ、明日は塩漬けを試す。ロクスが『とある家で見た方法』を教えてくれるって」
ミケが、にゃあ、と鳴いた。
「うん、わたしもちょっと気になってる。『とある家』って何年前の話なんだろうね」
そう呟いた時、台所からヨルダの声が聞こえた。
「お嬢様! 干し肉の備蓄なんですけど——ガレドさんの商会から、来月から卸さないって通知が!」
ミケの体が跳ねた。わたしの膝から飛び降りて、ベッドの隅に逃げる。
——嘘でしょ。
蝋燭の火が、風もないのに揺れた。
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