第30話「執事殿の目が光った」
村人が屋敷に来た。顔が青い。
「お嬢様。あの、執事殿のことで」
「ロクスがどうかした?」
「目が、その。光ったんですよ。金色に」
朝の玄関だった。石畳が冷たい。風に乗って畑の土の匂いがする。秋の乾いた空気のはずなのに、村人の声だけがやけに湿っていた。
「光った?」
「はい。昨日の夕方、村の外れで薪を運んでいた時に。執事殿がそこにいらして。夕日が差した瞬間、目が——金色に光って」
村人の手が震えている。五十がらみの男で、日に焼けた腕は太い。畑仕事で鍛えた体。それが、目の色が光ったくらいで青ざめている。
「夕日の反射じゃないかな。ロクスの瞳は琥珀色だから、光の加減で金色に見えることもあると思う」
「でも、お嬢様。あれは普通じゃ——」
「大丈夫。わたしがちゃんと確認する。心配してくれてありがとう」
令嬢モードを軽めに起動した。穏やかに微笑んで、村人の肩をぽんと叩く。令嬢がやる仕草じゃないけど、今は安心させるほうが先だ。
村人は半信半疑の顔で帰っていった。石畳の上を遠ざかる足音が、やけに長く響いた。
***
食堂にロクスがいた。
いつもと同じ姿。黒の執事服に白手袋。銀灰色の髪を軽く後ろに流して、テーブルの上でお茶の支度をしている。カップがソーサーに触れるかちりという音。置く所作が、いつもと変わらず正確だ。
「ロクス」
「はい」
「村の人が来た。あんたの目が光ったって」
ロクスの手が一瞬止まった。カップを置く動作が、ほんの半拍だけ遅れた。
——今の。
琥珀色の瞳がこちらを向いた。今は、普通に見える。夕日もない。暖炉の火の光が映り込んでいるだけ。穏やかな琥珀色。
「ご心配をおかけしました。夕日の角度と瞳の色が織りなす視覚的な演出かと。なかなか風情がありますね」
——「嘘つけ」。
そう突っ込もうとして、言葉が出なかった。いつもなら笑えるのに。今回は、笑えない。
「本当のところは?」
聞いてしまった。素の声で。令嬢モードでも、内心のツッコミでもなく。
ロクスが沈黙した。
一拍。
目だけが動いた。こちらを見て、窓のほうを見て、またこちらに戻る。その間、表情は変わらない。変わらないのに、空気だけが変わった。
それからロクスは、ティーポットを持ち上げた。何事もなかったように、わたしのカップにお茶を注ぎ直す。
「光学的な現象かと存じます。琥珀という鉱石は、ご存じの通り光の角度によって色味が大きく変わります。それと同じ原理です」
丁寧な説明。理路整然とした言い訳。
いつものロクスなら、質問に一瞬の間もなく答える。皮肉の一つを添えて、余裕を見せて、涼しい顔で。
今日だけ、一拍、遅かった。
お茶のカップに手を伸ばした。陶器の感触が指先に冷たい。暖炉の火が揺れて、ロクスの影が壁に長く伸びていた。
「……分かった。夕日の反射ね」
「ええ。それ以上でも以下でもございません」
追及しないことにした。材料がない。「目が光った」と言った村人の言葉と、ロクスの一拍の沈黙。それだけで「何を隠しているの」とは聞けない。
追及するだけの根拠が、まだない。
でも。
***
中庭に出た。秋の午後の光が、乾いた石畳に落ちている。
ミケがいた。
日向で丸くなっている——と思ったけど、違った。ミケは丸くなっていない。体を低くして、毛を逆立てている。視線はまっすぐ、屋敷の窓のほうを向いていた。ロクスがいるであろう方角。
「ミケ?」
声をかけた。ミケの耳がぴくりと動いたが、体の向きは変わらない。毛が逆立ったまま。
しゃがんで手を伸ばした。ミケの背中に触れる。毛が硬い。力んでいる。普段のふわふわした手触りとは全然違う。
「どうしたの、ミケ。ロクスのこと、そんなに嫌い?」
ミケは答えない。ただ、ロクスがいる方角を見つめている。目を閉じない。
前からミケはロクスに懐かなかった。近づかない。毛を逆立てる。唸る。でも今日は、それ以上だ。警戒の度合いが、一段上がっている。
秋風が中庭を吹き抜けた。乾いた風に、夕日の赤い光が混じっている。石畳に落ちるミケの影が、風でかすかに揺れた。
「気のせいだよね?」
ミケに聞いてみた。返事はない。
ミケの反応は「気のせい」では説明できないレベルに来ている。動物は人間より敏感だ。前の世界でもそうだった。地震の前に犬が騒ぐとか、嵐の前に猫が隠れるとか。
ミケが察しているものが何なのか、わたしには分からない。
分からないけど、ミケが間違っているとは思えなかった。
***
夜。自分の部屋。暗い。
木板を膝に置いて、炭筆を握った。何を書くでもなく、ただ握っている。
「光学的な現象」。ロクスの言い方を、頭の中で百回くらい再生した。
あの人はいつも、一瞬の間もなく返事をする。どんな質問にも、どんな状況でも。皮肉を挟む余裕すらあるのが普通だ。
今日だけ、一拍、遅かった。
それがどうしても頭から離れない。
脳内で裁判を開廷した。
議題——ロクスの目が光った件を追及するか。
検察側。怪しい。目が金色に光る。猫が異常に警戒する。そして、あの一拍の沈黙。怪しいに決まっている。
弁護側。今まで何度も助けてもらっている。嵐の夜に屋根を直してくれた。水路の妨害工作を夜中に一緒に調べてくれた。お茶を毎日淹れてくれる。何か隠していたとしても、わたしに害があるとは思えない。
判決——保留。
理由——証拠不十分。
木板に「保留」と書いた。炭筆の線が、暗い部屋の中で黒く光った。
——追及する。する。いつかは必ずする。でも今じゃない。今は材料が足りない。
窓の外には星が見えた。辺境の空は星がよく見える。余計な明かりがないから。
布団に入っても眠れない。
ミケが足元にいた。丸くなっている。でも、目を閉じていない。ロクスの部屋がある方角を、じっと見つめている。
わたしはミケの背中に足を寄せた。体温が伝わってくる。温かい。毛が逆立ったままなのが、足の裏越しに分かった。
「ミケ。何が見えてるの」
返事はない。
夜が深くなっていく。窓の外の星が、少しずつ動いていく。
眠れないまま、わたしは天井を見つめていた。
ロクスの琥珀色の瞳。普段は穏やかで、面白がっている時だけ少し温度が変わる。あの瞳が、金色に光った。
何が起きているのか、分からない。でも何かが変わり始めている。
確実に。
少しずつ。
わたしの知らないところで。
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