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辺境令嬢と、退屈知らずの執事  作者: 猫野ひかる
2章「失敗は先払い」

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第29話「講義中の設計図」

 植物学の講義は、驚くほど退屈だった。


 いや、退屈というのは正確じゃない。退屈なのはわたしの脳が、講義を聞いていないからだ。


 木板の上にはノートの代わりに、水路の改良設計図が広がっていた。


 前回の水路には問題があった。設計自体は正しかったが、下流への配慮が大雑把すぎた。「二割以下」なんてざっくりした数字じゃなくて、もっと正確に流量を詰めるべきだった。ハウゼが怒鳴り込んできた時の顔が、まだ頭にこびりついている。


 だから今度は、下流への流量をきちんと詰める。


 炭筆が走る。取水口の位置。分岐点の角度。水の流れる方向と速度。前回の失敗は繰り返さない。分岐路を追加して、下流の集落にも安定した水量が届くようにする。


 教室にはチョーク粉の匂いが漂っている。黒板の前で教師が何かを説明している。声は聞こえている。でも言葉として頭に入ってこない。脳の全部が水路に占領されている。


「傾斜をここで変えて、分岐点を三つにして……」


 呟きながら線を引く。いい感じだ。前回より明らかに良い図面。排水の流れが自然になる。余分な水は村の外れの低地に流す。


 ——待って。低地に流したら、下流の畑に影響しないか。


 炭筆が止まった。また同じ罠。上流の問題を解決すると、下流に問題が移る。水は高いところから低いところに流れる。当たり前のことなのに、図面を引いていると忘れる。


 頭を抱えた。


「カルセド嬢」


 低い声が降ってきた。


 顔を上げると、バルツ先生の厳格な顔が、机の横にあった。長身の男性教師。灰色のローブ。眼鏡の奥の目が、冷たい光を帯びている。


「授業中に何を描いている」


 教室が静まり返った。周囲の視線がこちらに集まる。ひそひそ話が止まる。


「申し訳ございません、先生」


 令嬢モード全開。背筋を伸ばして、申し訳なさそうに目を伏せる。


 ——いや、でもいい設計だったんだけど。


「植物学の講義で水路の設計図を描くとは。熱心なのは結構だが、それは自分の時間でやりなさい」


「はい。申し訳ございません」


 バルツ先生の怒り——七点。十点満点。ロクスの煽りと比べると迫力が足りない。ロクスなら同じ状況で「お嬢様、なかなかの度胸ですね」と目だけで笑うところだ。


 バルツ先生は木板をちらりと見て、何も言わずに教壇に戻った。淡々と叱る人だ。怒鳴りはしない。その分、叱られた後の沈黙が重い。


 教室の空気が元に戻るまで、長い数十秒がかかった。その間ずっと、隣の席の令嬢が面白がるような目でこちらを見ていた。辺境の男爵令嬢が授業中に内職して叱られた。格好の噂のネタだろう。


 木板を閉じた。水路の設計図は途中のまま。頭の中にはまだ排水路の線が残っているけど、さすがにこれ以上は描けない。


 残りの講義は、黒板を見ているふりをして過ごした。チョーク粉が光に舞うのを眺めながら、脳の半分は水路の続きを考えていた。


***


 帰りの馬車は、いつもより重かった。


 体が重いんじゃない。気分が重い。


 革張りの座席が冷たい。窓から見える景色は、秋の夕焼け。オレンジ色が空の端からじわじわと広がって、畑の上に影を落としている。


 頬杖をついた。


 学院と領地の往復。毎日、馬車で半日。講義を受けて、帰って、畑に出て、雑穀粥を改良して、寝る。起きて、馬車に乗って、講義を受ける。


 このまま学院と領地を両立し続けたら。体力が限界になる。倒れる。領地が放置される。破産する。路頭に迷う。


 ……やめよう、考えるの。


 瞼が重い。馬車の揺れが、眠気を誘う。座席の革が体温で少しだけ温まってきた。


「まあ、なんとかなるでしょ」


 口に出してみた。本当にそう思っているかは微妙だ。「なんとかなる」は前の世界でも口癖だった。なんとかなった試しは、あまりない。


 馬車の振動が一定のリズムを刻んでいる。がたん、がたん。三十点の道は、石を敷いたおかげで前より揺れが少ない。自分で直した道を、自分が使っている。それだけは確かな成果だ。


 窓の外で、日が暮れていく。空の色が橙から赤紫に変わる。遠くの山の稜線が黒くなっていく。


 ロクスなら今ここで何て言うだろう。


 脳内でロクスの声を再生した。


「お嬢様、授業中に内職とは。なかなかの度胸ですね」


 ……言わなくていいよ、脳内のあんたまで煽るな。


「しかし設計図は未完とのこと。講義の評価も下がり、設計図も仕上がらず。二兎を追う者は一兎をも得ず、でしょうか」


 ——脳内のくせに正論を言うな。


「もっとも、お嬢様は兎を追っているのではなく、兎に追われている側かと存じますが」


 ——うるさい。黙れ脳内ロクス。


 一人で笑ってしまった。馬車の中で、一人で。馬車を引く馬の蹄の音と、自分の笑い声だけが響いている。


 ばかみたいだ。疲れすぎて、脳内の執事と会話している。


 でも、少しだけ元気が出た。


 帰ったら本物のロクスに文句を言おう。「あんたの脳内バージョンが煽ってきた」って。たぶん「それは光栄です」とか言われる。想像できすぎて腹が立つ。


***


 屋敷に着いた時、ロクスが玄関で待っていた。


 夕闇の中、玄関灯の明かりが彼の銀灰色の髪を照らしている。白手袋の手が、さりげなくドアを開ける。


「おかえりなさいませ。お疲れのご様子ですね」


「ロクス、水路の改良案、思いついた。授業中に」


「それは素晴らしい成果ですね。ところで、授業の内容はいかがでしたか」


「……覚えてない」


「ええ。存じ上げておりました」


 帰ってきた。帰ってきたら帰ってきたで、この人は煽ってくる。


 でも、なんか安心する。


 玄関を入ると、お茶の匂いがした。暖炉の薪が爆ぜる音が、廊下の奥から届く。温かい屋敷の空気。暖炉が焚いてある。ミケが廊下の奥から歩いてきて、わたしの足元に擦り寄った。


「ミケ、ただいま」


 しゃがんでミケの頭を撫でた。柔らかい毛の感触。ミケはごろごろと喉を鳴らしている。ロクスのほうには見向きもしない。


 立ち上がって、ロクスの顔を見た。琥珀色の瞳が、いつもと同じ温度でこちらを見ている。


「設計図、食後に見せて。排水の部分がまだ途中なの」


「承知しました。お茶をお持ちします」


「うん。ありがとう」


 靴を脱ぎながら思った。


 学院は疲れる。領地も疲れる。両立は無理かもしれない。


 でも、帰る場所がある。お茶を淹れてくれる人がいる。足元に擦り寄ってくる猫がいる。


 ——明日からまた、忙しい日が続く。


 水路の設計図の続きが、頭の中でちらちらと光っている。あの排水路の問題を、どうにか解決しないと。


 でもそれは明日だ。今日はもう、疲れた。


 お茶を飲んで、設計図を見せて、寝よう。


 ——ただ、ひとつだけ気になることがある。最近ロクスの表情が、時々ほんの一瞬だけ、どこか遠くを見ている。気のせいかもしれない。でも、何かが少しずつ、変わり始めている気がする。

お読みいただきありがとうございました!


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