第28話「知らないはずの焼き菓子」
母が来た。
その一言で、わたしの胸は騒がしくなった。
令嬢モード起動。スマイル装填。棒読み丁寧語、準備完了。
——嘘だ。全然準備できていない。
屋敷の居間は、いつもより片づいていた。ペトラが朝から掃除をしてくれたらしい。暖炉の火が赤く揺れて、部屋を柔らかい光で満たしている。窓の外には灰色の秋空が広がっていた。
母——セラは、馬車を降りた瞬間から優雅だった。
淡い紫のドレス。ゆるく巻いた髪。甘い香水の匂い。カルセドの屋敷には似合わない、上品すぎる佇まい。この人は歩くだけで空気を変えてしまう。
「ミレイア。元気そうね」
「ええ、お母様。お元気そうで何よりですわ」
棒読み。我ながら棒読み。令嬢演技力、本日の立ち上がり——三十点。
「まあ、座りなさい」
居間のソファに向かい合って座った。ロクスがお茶の支度をしている。カップに注がれる茶の音が、静かな居間に響いた。
セラがテーブルの上に包みを置いた。上品な紙で丁寧に包まれている。紙がかさりと音を立てた。
「お菓子を持ってきたの。あなたが昔好きだったやつ」
昔好きだった、お菓子。
わたしは「前のミレイア」の記憶を持っていない。好きだったお菓子なんて知らない。知らないはずだ。
「何が好きだったか、覚えてる?」
セラの目が、優しく笑っている。でもその奥に、何かを測る光がある。試されている。
知らない。答えられない。適当にごまかすしかない。
「ええと——」
口を開いた瞬間、言葉が出た。
「あの、クランメル?」
言葉が出た。それから、手が止まった。
焼き菓子。バターの香りがする、薄くて丸い、サクッとした——知っている。なぜか知っている。手に取った感触、口の中で崩れる甘さ、焼き上がりの匂い。
知らないはずなのに。
セラの目が、一瞬だけ鋭くなった。ほんの一瞬。それから、柔らかい微笑みに戻った。
「ええ、そう。クランメル。覚えていたのね」
覚えていた? 違う。わたしは覚えていない。覚えているわけがない。前の世界にあんなお菓子はなかったし、この体の前の持ち主の記憶なんて持っていない。
なのに、口から出た。「あの焼き菓子」。
「デジャヴかしら。なんとなく、ふと浮かんだだけですわ」
令嬢モード全力。声が上滑りしている自覚がある。
「ロクスさん。焼き菓子に合うお茶をお持ちしましょうか」
ロクスの声だった。ちょうどいいタイミングで、ちょうどいい温度の言葉。助け舟だ。
「奥様、こちらのお茶は焼き菓子との相性が良いかと存じます。お嬢様の記憶力には定評がございますので、きっとお気に召すかと」
——助け舟と煽りを同居させるの、やめてほしい。
セラは微笑んで、包みを開いた。
***
焼き菓子は、確かにあのクランメルだった。
薄い丸い形。表面に粉砂糖がかかっていて、手に取るとサクッとした感触がある。バターの匂いが、温かい居間の空気に溶けていく。
一口かじった。甘くて、脆くて、口の中で崩れていく。
知っている味だった。どこで食べたのかは分からないのに、舌が覚えている。
「美味しいですわ」
これは嘘じゃない。本当に美味しい。
「あなた、手が荒れてるわね」
セラの視線が、わたしの手に落ちた。
畑仕事で荒れた手。水路を掘って、堆肥を混ぜて、鋤を振るって、雑穀粉をこねた手。令嬢の手ではない。
「庭仕事をしまして」
——畑仕事だよ。水路掘って堆肥混ぜたんだよ。
「庭仕事。そう。あなたは庭なんて興味がなかったのにね」
セラの声は柔らかい。柔らかいのに、刃物のように鋭い。言葉の端に棘がある。直球では聞かない。試すように、確認するように、少しずつ距離を詰めてくる。
社交界仕込みの探り方だ。この人は、直接聞くことをしない。だから怖い。
「最近のあなた、変よ? 手紙にも書いたけど」
「わたしは昔から変わりませんわ」
棒読みが苦しい。自分でも分かる。セラの目は、もう信じていない。
「そうかしら。畑に出ている。道を直した。水路を作ろうとした。前のあなたは、お菓子を食べてお茶を飲んでいただけでしょう?」
暖炉の炎が揺れた。薪がぱちりと爆ぜる音がした。
セラの上品な手と、わたしの荒れた手が、テーブルの上で向かい合っている。同じ家の母と娘なのに、手だけが全然違う。
「お母様。わたしは変わっていません。ただ、少しだけ——領地のことに興味を持つようになっただけですわ」
「そう」
セラが焼き菓子をひとつ口に運んだ。咀嚼する音がしない。上品に、静かに食べる。
「変わらないのね」
その呟きには、信じていない響きがあった。
お茶を飲んで、焼き菓子を食べて、他愛ない会話をして。秋の陽が傾く頃、セラは帰っていった。馬車の窓から手を振る姿は優雅で、甘い香水の残り香が居間に漂った。
「……疲れた」
ソファに沈み込んだ。ガレドとの駆け引きより、母との会話のほうが何倍も疲れる。
***
夜。
自分の部屋で、ミケを膝に乗せて天井を見た。
ミケの体温が膝に伝わる。喉の奥でごろごろと低い振動が鳴っている。毛布のごわついた感触が、指先に触れる。窓の外から月光が差し込んで、部屋を青白く照らしていた。
あの焼き菓子。わたしは知らないはずだ。前の世界にあんなお菓子はなかった。
この体の、前の持ち主の記憶?
——そんなわけない。
でも、口から出た言葉は確かに「あの焼き菓子」だった。ふと浮かんだ、としか言いようがない。考える前に、口が勝手に動いた。
前の世界で、何かあった日は野良猫に話しかけていた。コンビニの駐車場にいる三毛の野良。帰り道にしゃがみ込んで、「今日はこんなことがあってさ」と話す。話す相手がいなかったから。
今もそうだ。ミケがいる。話したい。でも今日は、何を話したらいいのか分からない。
「知らないはずのことを、知ってた」
声に出してみた。ミケが耳をぴくりと動かした。
「この体の前の持ち主の記憶が、残ってるの? そんなことってある?」
ミケは答えない。当たり前だ。猫に聞いてどうする。
自分の荒れた手を見た。月光が手の甲を白く照らしている。水仕事で荒れた指先。この手は前のミレイアの手で、今のわたしの手だ。同じ手なのに、使い方が全然違う。
デジャヴだ。それだけのこと。
——と、自分に言い聞かせる。でも不安が消えない。
ミケが、にゃあ、と鳴いた。
「うん。わたしもよく分からない」
毛布を引き上げて、目を閉じた。焼き菓子の甘い匂いが、まだ指先に残っている気がした。
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