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辺境令嬢と、退屈知らずの執事  作者: 猫野ひかる
2章「失敗は先払い」

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第27話「二十八点の粥」

 雑穀粉を水で溶いた時の、あのざらざらした感触。


 指先からぬるっと抜けていくのが、前の世界で触ったことのあるどんな食材とも違った。


 これが食べ物になるのか。正直、疑わしい。


 屋敷の台所は薄暗い。窓が小さくて、朝の光が斜めにしか入ってこない。竈の火が赤く揺れて、鍋の中の水がぽこぽこと音を立てている。蒸気が天井に向かって立ち上って、台所全体がぬるい湿気に包まれていた。


「で、何回目ですか」


 ロクスが壁に背を預けて、腕を組んでいる。白手袋の指先で自分の肘を軽く叩いているのは、退屈なのか呆れているのか。たぶん両方だ。


「四回目」


「失敗の回数を正確に数えていらっしゃるのは、学習の証ですね」


 ——要は「四回失敗してもまだやるの?」。知ってる。でもやる。


 一回目は水が多すぎて、灰色の水になった。飲み物ですらない。


 二回目は水が少なすぎて、鍋底に焦げ付いた。焦げの匂いが台所に充満して、ヨルダに「お嬢様、竈が泣いてますよ」と言われた。


 三回目は火加減を間違えた。沸騰して吹きこぼれて、火が消えかけた。


 四回目。今度は水の量を慎重に測った。雑穀粉を少しずつ入れて、木べらでゆっくり混ぜる。鍋の中で粉が溶けていく。ざらざらだった粉が、熱を受けてとろりと変わっていく。


「……お」


 粘度が出てきた。木べらを持ち上げると、糸を引くように粥が垂れる。前の三回とは明らかに違う手応え。


「ロクス、見て。これ、粥っぽくない?」


「お嬢様の基準で"粥っぽい"は、およそ常人の基準で"ぎりぎり"ですが、改善には違いありません」


「褒めてるのかけなしてるのか分からない」


「褒めております。四回目にして"食べ物の形状に近づいた"というのは、なかなかの進歩です」


 木べらで鍋の中身をかき混ぜた。蒸気が顔に当たって、雑穀の青っぽい匂いがする。甘さはない。香ばしさもない。ただ穀物を煮ただけの、素朴を通り越して地味な匂いだ。


 木べらに少量を取って、ふうふうと息を吹きかけてから口に入れる。


 舌の上にざらつきが残る。薄い甘みが、ほんの少しだけある。前の世界でいうところの、味付け前のおかゆに近い。調味料がないから、味はほぼ「穀物を煮た水」だ。


 でも、食べられる。


 三回目までの「食べられない」から「食べられる」に変わった。たった一段だけど、確実に上がった。


 粥の進化——五点から二十八点。二十三点の上昇。偏差値でいうと……いや、偏差値の概念がこの世界にない。


「二十八点」


「採点されるのですか」


「する。いつだってする。五点の黒パンから二十八点の雑穀粥。わたしの料理はたった今、歴史的な進歩を遂げた」


「歴史的。大きく出ましたね」


 でも口元が、ほんの少し緩んでいた。ロクスの目が面白がっている時の温度。わたしはもう、それを見分けられるようになっていた。


***


 椀に粥をよそって、村に向かった。


 秋の午後だった。カルセド村までの道は短い。三十点の道を歩いて、畑の間を抜ける。水路は今のところ動いている。でも下流との話し合いはまだ途中だ。見るたびに頭が痛むけど、今日は別の用事だ。


 トーバの家は村の端にあった。小さな家。軒先に干し草が積んであって、犬が一匹寝そべっている。


「トーバさん」


 戸口に立つと、中からしわがれた声がした。


「なんだい、お嬢さん。また何か壊したかい」


「壊してない。今日は持ってきたの」


 椀を差し出した。トーバが戸口から出てきた。白髪の、小柄な老婦人。皺だらけの顔に、鋭い目がある。


「……何だい、これ」


「雑穀の粥。自分で作った」


「ほう」


 トーバの皺だらけの手が椀を受け取った。指が短くて太い。畑仕事を何十年も続けた手だ。


 椀を口元に近づけて、匂いを嗅ぐ。一口すする。


 わたしは息を止めていた。


 トーバが咀嚼している。ゆっくり。表情が変わらない。軒先の干し草が風に擦れる音だけが聞こえる。沈黙が長い。


 だめだったかもしれない。二十八点は自分の中の点数であって、他人の口に合うかどうかは別の話だ。


 トーバが椀を下ろした。


「前よりマシだね」


 それだけだった。


 前よりマシ。五点の黒パンよりマシ。妨害されながらも動いている水路よりマシ。


 たったそれだけの言葉なのに、口元が緩むのを止められなかった。


「……ありがとう」


「礼を言うほどのことじゃないよ。まだマシなだけで美味いとは言ってない」


「うん、知ってる」


「味が薄い。塩を足しな。あと、煮る時間がもう少し長いほうがいい」


「塩。煮る時間。分かった」


 木板を取り出して、炭筆でメモする。塩。煮る時間を延ばす。トーバの皺だらけの顔が、少しだけ呆れたように見えた。


「お嬢さん。あんた、本気でやるつもりなのかい」


「うん。本気」


「そうかい」


 トーバは椀を返して、家の中に戻っていった。戸口で振り返って、もう一度だけ言った。


「前よりマシだからね。ちゃんと、前より」


 その一言が、最大限の肯定だと分かった。


***


 帰り道は、秋の夕暮れだった。


 畑の間の小道を歩く。砂利を踏む音が、静かな空気に響いた。空が橙色に染まっていて、遠くの山の稜線がくっきりと黒い。


 風が冷たくなってきた。もう秋も深い。冬の足音が、すぐそこまで来ている。


 足取りが軽い。


 久しぶりに、何かが上手くいった気がする。二十八点の粥。マシだと言われた粥。それだけのことなのに、足取りがどんどん軽くなる。


 ——前の世界で、スーパーの半額惣菜を手にした時の嬉しさに似ている。


 閉店間際の値引きシール。赤い「半額」の文字。安い惣菜が半額になる。それを見つけた時の、あの小さな勝利感。大した金額じゃない。大した料理でもない。でも「見つけた」という嬉しさが、胸の真ん中にぽっと灯る。


 今もそうだ。同じ温度の喜びが、ここにある。


 ——安い惣菜で喜んでた頃と変わらないな、わたし。


 でも、変わらなくていい。小さなことで喜べるのは、たぶん悪いことじゃない。


 木板を取り出して、歩きながらメモを書いた。


「雑穀粥——二十八点。改善の余地あり。だけど、これが領地の食事の第一歩」


 足取りは軽い。久しぶりに、何かが上手くいった気がする。


 ——次はもっと美味しくする。三十点まで上げる。いや、四十点。欲張ってもいいでしょ。


 夕日が沈みかけていた。空の橙色がゆっくりと紫に変わっていく。


 だけど翌日、学院で思い知らされた。


「辺境って雑穀の粥なんでしょ?」


 誰かの声が、廊下を通り抜けた。


 わたしは令嬢モードで微笑んだ。


「ええ、素朴な味わいですわ」


 ——うるさいな。あれは二十八点の努力の結晶なんだよ。


 微笑みの裏で、拳をぎゅっと握った。いつか見返してやる。この粥が、美味しくなった時に。

お読みいただきありがとうございました!


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