第26話「雑穀に賭けるお嬢様」
母の「会いに行きます」の一行が、三日経っても頭から離れない。
だが今はそれどころではない。
植物学の講義で、教師が黒板に描いた雑穀の図を見た瞬間、わたしの脳は領地のことしか考えなくなった。
黒板のチョーク粉が、午後の光を浴びて白くきらめいている。教室には紙とインクの匂いが漂っていて、窓からは秋の風が吹き込んでいた。
教師の声は淡々としている。ヒエ、アワ、キビ。辺境の荒れた土壌でも育つ穀物の分類と加工法。乾燥させて粉に挽けば保存がきく。水で練って加熱すれば粥になる。
——これだ。
炭筆が走った。木板の上に、雑穀の名前と加工の手順を書き殴る。カルセドの土壌は荒れている。小麦は育たない。でも雑穀なら。雑穀なら可能性がある。
夢中になりすぎて、隣の席からの視線に気づくのが遅れた。
「ねえ。それ、値がつくの?」
横を向くと、赤毛の少女がわたしの木板を覗き込んでいた。指先にインクの染みがある。上質なドレスだけど、爪が短く切り揃えられている。飾りの指輪はない。実用的な手だ。
学院で話しかけられること自体が珍しい。辺境の男爵令嬢はたいてい空気だ。
「雑穀に値がつくかって聞いてるの」
真っ直ぐな目。計算高い光が、その奥にある。友達を作りたい目じゃない。商機を嗅ぎ取った目だ。
「ええと」
令嬢モード、起動。
「ええ、辺境は穏やかな場所ですわ。雑穀も、素朴な味わいで」
——穏やかじゃないよ。水路を妨害されたし。
赤毛の少女は、わたしの棒読みを一瞬で見切った。
「あたし、コリンナ。ヴェルデ商会の娘。穀物の相場なら少しは分かるけど」
商家の娘。学院には貴族だけでなく、裕福な商家の子女も通っている。身分制度の柔軟さというべきか、金の力というべきか。
「カルセドさん、でしょ? 辺境の」
「ええ、まあ」
「雑穀の粉、加工して売れるなら辺境の産物としていけるかもね。流通路の問題はあるけど」
早口。計算が先に立つ話し方。数字で世界を見ている人間特有の速度だ。
「……あなた、講義中なんだけど」
「カルセドさんも講義聞いてなかったでしょ」
——返す言葉がない。
***
講義が終わって、廊下に出た。
磨かれた石の床に足音が響く。午後の光が窓から差し込んで、廊下を白く照らしている。学院の鐘が、遠くで低い音を鳴らした。
「辺境って何が採れるの?」
コリンナが隣を歩いている。いつの間にか並ばれていた。
「雑穀と、あとは……山菜くらいですわ。質素な土地ですの」
令嬢モード継続。周りの目がある。
「山菜は相場が読みにくいからなあ。雑穀のほうがいい。粉に挽いて袋詰めすれば、保存も輸送も楽だし」
コリンナのインクの匂いが、すれ違うたびにふわりと漂う。帳簿をつけ慣れた手の匂いだ。
「……友達になりたいわけじゃないでしょ」
令嬢モードが一瞬外れた。素で聞いてしまった。
コリンナは足を止めない。振り向きもしない。
「友達? そんなの、お互い利益がないと成り立たないでしょ。あたしは辺境の産物に興味がある。カルセドさんは流通の知識が要る。それでいいじゃない」
——この子、商人の目だ。
利害一致の相手。仲間ではない。でも、情報は欲しい。
「雑穀の粉の相場、今度教えてもらえる?」
「いいよ。あたしも辺境の状況、聞かせてほしいし」
コリンナは廊下の角で手を振って去っていった。その背中に、商家の娘の自信が見えた。
わたしは一人、廊下に残された。窓の外から、また鐘の音。
——仲間じゃない。利害の一致した相手。
でも、悪くない。
***
屋敷に着いたのは、日が傾いてからだった。
食堂のテーブルにはロクスが淹れたお茶が置いてあった。帰宅に合わせて用意してくれたのだろう。湯気の立つカップに手を伸ばすと、指先が温まった。秋の馬車は冷える。
「ロクス、今日の学院で面白い話を聞いた」
「おや。学院の講義に面白い話があるとは。お嬢様には退屈なだけかと」
「植物学。雑穀の加工法。辺境の土壌でも育つ穀物があって、粉に挽けば保存がきくの。これ、カルセドの食糧問題に使えるかも」
ロクスがカップを置いた。琥珀色の瞳がこちらを向く。
「つまりお嬢様は、雑穀に全てを賭けると。大胆なご決断ですね」
「賭けるっていうな。投資って言って」
「では投資と。利回りの見込みはおありですか」
「……これから考える」
「なるほど。投資計画なしの投資。新しい手法ですね」
——要は「見切り発車だろ」って言いたいんでしょ。知ってるよ。
木板を広げて、炭筆を走らせた。雑穀の種類、加工法、必要な道具。学院で聞いた話を書き出していく。炭筆が板の上をこする音が、静かな食堂に響いた。
「あと、もう一つ」
「はい」
「コリンナって子に会った。ヴェルデ商会の娘。辺境の産物に興味があるって」
「ヴェルデ商会。中堅ですが手堅い商売をする家ですね。穀物と乾物が主力と聞いています」
「……なんでそんなこと知ってるの」
「執事ですので」
その一言で片づけるのが、この人の悪い癖だ。
ロクスが一枚の書面をテーブルに置いた。表情が変わらないまま。
「それから、ガレド殿の件です。今月に入り、物資の供給をさらに絞っているとの報告が」
空気が変わった。
「干し肉の供給が半分以下に。代替の仕入れ先にも圧力をかけている様子です」
書面を手に取った。ガレドの名前と、減った物資の一覧。数字が並んでいる。
「ガレド殿の動きは、想定の範囲内かと」
——要は「予想通りあいつ嫌がらせしてきたよ」。丁寧に言い直す意味ある?
書面を置いた。お茶を一口飲んだ。温かい液体が喉を通って、少しだけ落ち着いた。
ガレドが物資を絞っている。干し肉が来ない。行商人にも手を回されている。
でも。
「なら、雑穀で何とかする」
ロクスが微かに眉を上げた。
「物資が来ないなら、自分で作る。雑穀なら荒れた土でも育つ。粉に挽けば保存もきく。干し肉がないなら、雑穀で冬を越す手段を考える」
木板に「雑穀活用計画」と大きく書いた。
「"雑穀に賭ける"。大変力強いお言葉でしたので、記録しておきます」
「記録するな。あと賭けるじゃなくて投資」
「失礼しました。では"雑穀に投資する"と。利回りの見込みなしで」
「うるさいな」
でも、口元が緩んでしまった。ガレドの報告を聞いた直後なのに、この人と話していると緊張が解ける。悔しいけど。
「ロクス。雑穀の粉で、何か美味しいもの作れないかな」
「お嬢様。それはつまり、先日水路を妨害された方が、今度は台所で何かをされると」
「失敗の先払いは済んだの。今度は成功の番」
「その理論でしたら、破産するまで先払いが終わらない可能性もございますが」
「うるさいな。明日試す」
お茶のカップを両手で包んだ。湯気が顔にかかって、ほんのり温かい。
ガレドが何をしてこようと、わたしにはわたしのやり方がある。
雑穀で、冬を越す。
——十二点の領地を、せめて十五点くらいには上げたい。欲張りすぎかな。
いや。欲張りなくらいでちょうどいい。
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