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辺境令嬢と、退屈知らずの執事  作者: 猫野ひかる
2章「失敗は先払い」

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第25話「辺境令嬢の学院デビュー」

 馬車が学院の門をくぐったとき、わたしは三つのことを考えていた。


 一つ、令嬢モードの声が棒読みすぎないか。


 二つ、エプロンの下にまだ泥がついていないか。


 三つ、畑に水路を通す二回目の設計図のことだ。


 ——学院のことは一つも考えていなかった。


 馬車の革張りの座席は、屋敷のどの椅子より座り心地がよかった。半日揺られてきた体は疲れていたけど、疲れの種類が領地のそれとは違う。ただ座っていただけの疲労だ。生産性がない。


 門の向こうに石造りの建物が並んでいた。灰色の壁に蔦が絡まって、尖った屋根が秋の空を突いている。カルセド屋敷の三倍は大きい。


 馬車を降りる。石畳の冷たさが、長靴越しに——いや、今日は革靴だ。長靴は玄関に置いてきた。


 背筋を伸ばす。令嬢モード、起動。


***


 学院の廊下は、磨かれた石でできていた。


 足音が響く。こつ、こつ、と規則正しいリズム。カルセドの泥道とは別世界だ。窓から差し込む光が廊下の壁を白く照らして、どこからか花の香りがする。


 ——花。この時期に花? 魔法灯が王都にしかないなら、この花の匂いは何?


 考えているうちに、教室に着いた。


 木の扉を開ける。中には、もう十数人の令嬢が座っていた。


 全員がこちらを見た。


 一瞬の沈黙。それから、ひそひそと囁く声。


「辺境の……」


「カルセド男爵家の……」


「没落しかけてる家でしょう?」


 聞こえている。全部聞こえている。ひそひそ話というのは、聞こえるように話すから意味がある。前の世界でもそうだった。


 わたしは何事もないように席についた。窓際の、一番後ろ。ヒエラルキーの底辺に与えられる定位置だ。


 教室の中は上質な紙の匂いがした。教科書が机の上に積まれている。手触りが全然違う。カルセドの木板と炭筆とは、住んでいる世界が違う。


「ねえ」


 隣の席の令嬢が話しかけてきた。巻き毛の金髪、刺繍入りのドレス。わたしの三倍は布地を使っている。


「辺境って何があるの?」


「ええ、自然が豊かですわ」


 令嬢モード全開。棒読みの微笑み。


 ——何もないよ。道と畑とまずいパンしかないよ。


「自然? ふうん。虫とかいるの?」


「ええ、まあ。秋は虫の声が素敵ですわ」


 ——素敵じゃないよ。夜うるさくて眠れないんだよ。


 巻き毛の令嬢は興味を失ったように目を逸らした。もう話しかけてこない。最初から興味なんてなかったのだろう。辺境の男爵令嬢に話しかけたという実績だけが欲しかっただけだ。


 前の世界の学校でも、こういうことはあった。新しい環境で、どの程度の相手かを測る偵察行為。測った結果、価値なしと判定されたら、あとは空気になる。


 ——まあ、空気でいいけどね。面倒くさいし。


 授業が始まった。歴史。領地経営の基礎。礼法。


 歴史は眠かった。領地経営の基礎は——知ってることと知らないことが半々だった。水路は妨害されたけど、理屈自体は授業で教えるレベルの話らしい。


 ——じゃあなんでカルセドには水路がないんだよ。


 礼法は令嬢モードの練習だと思えば耐えられた。立ち方、座り方、お辞儀の角度。前の世界のビジネスマナー研修みたいなものだ。


***


 昼食は、食堂で取った。


 白い皿に、焼いた肉と温かいスープと、ふわふわのパン。食堂のざわめきが遠く聞こえている。銀の匙が皿に当たる音、椅子が引かれる音。


 学院の食事——七十五点。


 領地と比べたら天国。パンが柔らかい。スープに野菜が入っている。肉に味がついている。


 ——だけどこの点数、前の世界なら学食レベルだな。


 席はやっぱり端っこだった。周りに誰も座らない。辺境の男爵令嬢の隣に座ると、自分の格も下がると思われているのだろう。


 別にいい。一人で食べるごはんは、まずくはない。前の世界でも昼休みに一人で弁当を食べていた時期がある。慣れている。


 慣れているから、平気だ。


 ——平気。


 パンをちぎって口に入れた。柔らかくて、ほんのり甘い。カルセドの五十点パンとは比べものにならない。でも、なぜかあの五十点のパンが恋しくなった。


 ロクスが何も言わずに横に置いてくれるお茶が、恋しくなった。


 いや、恋しいとか言ってる場合じゃない。令嬢演技力、ここまでの自己評価——四十点。棒読みすぎた。微笑みが引きつっている自覚がある。


 午後の授業をこなして、放課後。


 帰りの馬車に乗り込んだ瞬間、令嬢モードを解除した。


「だっる」


 座席に沈み込む。半日の演技で、顔の筋肉が疲れている。笑顔を作り続けるのは、鋤を振るうのとは別の種類の重労働だ。


***


 揺れる馬車の中で、手紙を開いた。車輪が石畳から土道に変わるたびに、振動の質が変わる。


 出発前に届いていた、母からの手紙。上等な紙だ。指先に触れる質感が、カルセドの木板とは全然違う。繊細で、薄くて、でもしっかりしている。お母様らしい紙だ。


 流れるような筆跡。


「ミレイア、元気ですか。お母様は元気です」


 お母様の手紙は、いつも穏やかな書き出しから始まる。近況報告があって、季節の挨拶があって。


「最近のあなたは、少し変よ?」


 手が止まった。


「お屋敷の使用人から聞きました。畑に出ているとか。道を直したとか。以前のあなたは、そんなことに興味がなかったでしょう?」


 窓の外を秋の夕日が橙色に染めている。馬車の中は薄暗くて、手紙の文字が少しだけ読みにくい。


「お母様は心配しています。あなたが無理をしていないか。何か困っていることがあるなら、言ってくださいね」


 無理はしている。困っていることはたくさんある。でもそれは、お母様に言えることじゃない。


 だって、「前の世界のわたし」がこの体に入り込んでいるなんて、誰にも説明できないから。


「変」なのは事実だ。前のミレイアと今のわたしは、同じ体で別の人間だ。それに気づかれるのは、まずい。


 ——大丈夫。ばれてない。お母様は遠くにいるから、噂を聞いて心配しているだけだ。直接会わなければ、大丈夫。


 手紙を畳もうとして、追伸に気づいた。


 本文より小さな字で、紙の端に書いてあった。


「次の休みに会いに行きます。お菓子を持って」


 馬車が揺れた。


 窓の外を流れる景色を眺めながら、わたしは思った。


 領地の問題。学院の問題。そして——母。


 最近変なのは、全部変だからだ。前の世界のわたしは、こんなに忙しくなかった。


 お母様が来る。直接会う。手紙じゃごまかせても、面と向かって「変よ?」と聞かれたら。


 わたしは手紙を畳んで、胸元にしまった。上等な紙が、服の内側でかさりと音を立てた。


 ——まずい。


 十二点の領地。ガレドの妨害。底辺の学院デビュー。


 そして、母の訪問。


 問題が多すぎる。手が足りない。頭も足りない。ロクスもいない。


 でも、まあ。


 ——なんとかするしかないでしょ。いつも通り。


 馬車の窓から手を伸ばした。秋の風が、指先を冷たく撫でた。


 明日はまた、畑に出る。水路の設計図を直す。


 お母様のことは——その時に考える。


 わたしはいつだって、目の前のことしかできないのだから。

お読みいただきありがとうございました!


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