第24話「夜の水路と嘘つきの土嚢」
翌朝——。
取水口の前に立って、水面を見下ろす。
——本当に、大丈夫なんだろうか。
不安を抱えたまま、水を流した。
取水口から導水路へ。曲がり角を抜けて、分岐点を通過して、排水路へ至る一本の線が、設計図の通りに動いていた。
朝日を受けた水面がきらきらと光っている。冷えた空気の中に、水が石を叩く軽い音が響いていた。
「ロクス、見て。流れてる」
「ええ。たいへん美しい水路ですね」
「美しいんじゃなくて、正しいの。計算通りなの」
わたしは溝の縁にしゃがみ込んで、水の流れを見つめた。導水路の幅、深さ、傾斜。全部、木板に書いた数字と一致している。手のひらの水膨れがじんじんと痛んだけど、そんなことはどうでもいい。
——水路の完成度、百点。天才か、わたし。
鼻の頭を泥だらけの手の甲でこすった。炭筆の粉と土が混ざって、たぶんひどい顔になっている。でも笑いが止まらない。
「今回の設計——百点。異論は?」
「異論は、今のところございません」
ロクスが水路の縁に立って、琥珀色の目で水の流れを追っていた。白手袋の右手を顎に添えて、何かを確かめるように首を傾げている。
——「今のところ」って何? 百点は百点でしょ。
でもまあいい。水が流れている。わたしの設計した通りに、水が流れている。
それだけで十分だった。
***
異変が起きたのは、昼過ぎだった。
畑の端で堆肥を混ぜ込んでいたとき、ふと水路に目をやった。
朝はあんなに勢いよく流れていた水が、弱くなっている。導水路の水面が明らかに下がっていた。底の石が半分ほど露出して、さっきまで聞こえていた水音がか細い。
「……あれ?」
鋤を置いて、溝の縁に近づく。
水量が、朝の半分以下になっていた。
「ロクス、水が減ってる」
「ええ。先ほどから気づいておりましたが」
「気づいてたなら先に言ってよ!」
「お嬢様がご自身で気づく方が——」
「いいから! 取水口を見てくる!」
長靴のまま畑の端を駆けた。取水口まではそう遠くない。屋敷裏の小川から水を引き込んでいる場所だ。
小川の水量は変わっていなかった。水は普通に流れている。ただ、取水口から水路に入る水の量が——確かに減っている。
おかしい。
設計は正しい。計算も合っている。小川の水量にも問題はない。なのに、水路に流れ込む水が減っている。
——何が起きてるの?
答えが出る前に、怒鳴り声が聞こえた。
***
畑に戻ると、見知らぬ男が三人、水路の前に立っていた。
日に焼けた、骨ばった顔。灰白の短髪を風に揺らしている痩せた長身の男が、腕を組んでこちらを睨んでいた。
「あんたがカルセドの嬢さんか」
声が低い。怒りを押し殺した、地を這うような声だった。
「水を取られて、こっちはどうすりゃいいんだ」
——下流の集落の人たちだ。
令嬢モード、起動。背筋を伸ばす。声のトーンを上げる。
「はじめまして。カルセド家のミレイアでございます。お話をお聞かせいただけますか」
——お願いだから怒鳴らないで。令嬢モードが今にも剥がれそうだ。
腕を組んだ男——後ろの二人が「ハウゼ」と呼んでいた——が、わたしを見下ろした。頭ふたつ分くらい高い。
「話も何もねえだろう。朝から水がこっちに来ねえんだ。あんたが上流で水路なんぞ作って、全部せき止めてるって聞いたぞ」
「せき止めて——いいえ、それは違います。わたしの水路は小川の水を一部引いているだけで、下流への流量は——」
「じゃあなんで水が来ねえんだ!」
ハウゼの声が大きくなった。後ろの二人も険しい顔でこちらを見ている。
わたしは一瞬、たじろいだ。
でも。
——待って。わたしの計算は合ってるはずだ。
取水量は小川の流量の二割以下に設計した。下流への影響は最小限のはず。計算が間違っているなら、朝の時点で水路が溢れるか、逆に水が足りないかのどちらかになる。
朝は完璧だった。
つまり、計算は正しい。
「わたしの設計は間違っていません」
令嬢モードが剥がれた。素の声が出た。
「……は?」
「水が来ないのは、わたしの水路のせいじゃないです。少なくとも、設計上はありえない。だから、別の原因がある」
ハウゼが眉を寄せた。後ろの男たちがざわつく。
「何言ってんだ、この嬢さん」
「わたしも今、調べているところです。明日の朝までに原因を突き止めます。——それまで、待っていただけますか」
沈黙が落ちた。秋の風が、乾いた草を揺らしている。
ハウゼが腕組みを解かないまま、じっとわたしの目を見た。
「……明日の朝だ。それで何も出てこなけりゃ、こっちにも考えがある」
三人は背を向けて歩き去った。足音が遠ざかっていく。
わたしは膝が震えているのに気づいた。冷や汗が背中を伝っている。
「お嬢様、お茶を」
振り返ると、ロクスが陶器のカップを差し出していた。いつの間に淹れたのか聞く気力もない。
「……ありがと」
受け取った手が震えた。温かい。お茶の湯気が冷えた指先を包んでくれる。
「ロクス。わたしの設計、合ってるよね?」
「ええ。取水量は適正範囲内です。計算に誤りはありません」
「じゃあ、なんで水が減ったの?」
ロクスの琥珀色の目が、ほんの一瞬、光を帯びた。
「——見に行きましょうか。今夜」
***
深夜。蝋燭を持って屋敷を出た。
秋の夜気が肌を刺す。息が白くなる季節だ。草を踏む音が暗闇に響いて、自分の足音なのにびくりとする。
ロクスは音もなく歩いていた。白手袋が闇の中でぼんやり浮かんでいる。足元に蝋燭の光が揺れて、水路の縁が橙色に照らされた。
「上流から順に見ていきます。お嬢様は足元にお気をつけて」
「うん」
水路の流れを辿る。導水路から取水口に向かって、溝の縁を歩いた。
夜の水路は、昼とは違う顔をしていた。蝋燭の光が水面に映って、ゆらゆらと揺れている。虫の声がやけに大きく聞こえる。冷えた空気に混じって、湿った土の匂いがした。
取水口まで来た。小川の水は変わらず流れている。
「取水口は問題ないね。じゃあ、もっと上流——小川そのものを見る?」
「ええ。そちらに」
ロクスが先導して、小川の上流へ向かった。
灌木を掻き分けて、小川に沿って歩く。足元が悪い。石がごろごろしていて、長靴の底が滑った。ロクスの背中がすっと手前に寄って、腕を差し出される。
「大丈夫。転ばないから」
「ええ。ですが転んだ場合、私の仕事が四つほど増えます」
——それ、心配してるの? それとも自分の手間を減らしたいだけ?
五分ほど上流に進んだとき、ロクスの足が止まった。
「お嬢様」
声のトーンが変わっていた。静かな、けれど鋭い響き。
蝋燭を掲げて前方を照らす。
小川の流れが、不自然にせき止められていた。
土嚢だ。積み上げられた六つの土嚢が、小川の半分以上を塞いでいる。水は細い隙間からちょろちょろと漏れるだけで、大部分が土嚢の手前で溜まって、別の方角へ流れ出していた。
「これは……」
「わざと堰き止めた跡ですね」
ロクスがしゃがみ込んで、土嚢に触れた。白手袋の指先が、袋の縫い目をなぞる。
「真新しい。昨日の夕方以降に積まれたものです。——それと」
ロクスが蝋燭を土嚢の周囲にかざした。濡れた地面に、足跡が残っていた。複数の。大きめの靴底の跡が、上流から来て、ここで作業して、同じ道を戻っている。
「人が入りました。昨夜、ここに」
わたしは土嚢に近づいて、膝をついた。
蝋燭の火で照らす。土嚢の生地は、ただの麻袋じゃなかった。生成りの麻に、赤い糸で端がかがってある。見覚えのある仕事だ。
「この赤い糸……」
記憶を辿る。ガレドが荷物を届けに来たとき、馬車に積まれていた麻袋。あの袋の端にも、同じ赤い糸のかがりがあった。ガレド商会の出荷印だ。値段の安い麻袋に、品を区別するために入れる簡単な目印。
「ガレド商会の袋だ」
手を握った。声が出なかった。
「ロクスの足跡の見立ては?」
「二人分。体格は中肉中背。靴底の摩耗具合からして、革底の商人靴。農夫の履き物ではありません」
わたしは立ち上がった。膝についた泥を払う気にもなれなかった。
——ガレドの手下が、わたしの水路を潰しに来た。
水路を作ったことは、村中が知っていた。ガレドの耳に入るのは時間の問題だった。ミレイアが水路を引けば、農業が改善する。農業が改善すれば、ガレドから買う食糧が減る。独占が崩れる。
だから、上流で水をせき止めた。下流に水が行かなくなれば、下流の集落がカルセド領に怒りをぶつける。ミレイアの評判が落ちる。一石二鳥。
——なるほどね。商売人らしい、嫌らしいやり方だこと。
「お嬢様。この土嚢をどうしますか」
「今は動かさないで。明日、証拠として使う」
ロクスが首をわずかに傾げた。面白がっている顔だ。目が細くなって、口元にかすかな笑みが浮かんでいる。
「——お嬢様の成長速度には、一定の期待を上方修正する必要がありそうです」
ロクスがこういう言い方をするのは珍しい。レアだ。記録しておこう。
「帰ろう。明日の朝、仕事がある」
***
翌朝。ハウゼが約束通り来た。今度は五人連れだった。
腕を組んだまま、水路の前に立つ。後ろの男たちも同じ構え。
「で? 原因とやらは見つかったのか」
「見つかりました。ついてきてください」
わたしは先に立って歩き始めた。ハウゼたちが一瞬戸惑ってから、後を追ってくる。
上流の現場まで案内した。土嚢はそのまま残っていた。
「これです」
ハウゼが土嚢を見た。目が鋭くなった。
「……誰がやった」
「これを見てください」
わたしは土嚢の一つを指さした。赤い糸のかがり。
「この赤い糸は、ガレド商会の出荷印です。荷物を届けに来た馬車の袋と同じ目印がついています。そして——」
ロクスが足跡を示した。
「足跡は二人分。靴底は商人靴。農夫の履き物ではありません。この辺りに商人靴で歩き回る理由のある人間は限られます」
ハウゼの顔が険しくなった。腕組みを解いて、土嚢を自分の目で確かめるように屈み込む。赤い糸に指で触れる。
「ガレドか」
「断言はできません。でも、わたしが水路を作ったことを嫌がる人間は、今のところ一人しかいない」
後ろの男たちがざわめいた。
「あの商人……うちにも値上げを吹っかけてきやがったぞ」
「おれんとこもだ。塩を倍にされた」
ハウゼが振り返って男たちを黙らせた。それから、わたしを見た。
「嬢さん。あんたの水路は、本当にうちの水を取ってねえのか」
「はい。取水量は小川の流量の二割以下です。この土嚢を外せば、下流への水量は元に戻ります。——今、ここで外しますか?」
ハウゼが短く頷いた。
ロクスが土嚢を一つずつ外していく。白手袋が泥に汚れるのも構わず、淡々と作業する。わたしも手伝おうとしたら、ハウゼの後ろにいた男の一人が黙って手を貸してくれた。
六つの土嚢を外し終えると、せき止められていた水が一気に流れ出した。
水音が戻った。小川の水が、本来の流れを取り戻す。
下流に向かって水が走っていく。朝日を受けて、きらきらと光りながら。
「……ちゃんと流れてるな」
ハウゼが川面を見つめて呟いた。
「ええ。わたしの設計ですから」
——今度は、素の声で言えた。
ハウゼがわたしをじっと見た。長い沈黙。秋の朝風が、灰白の短髪を揺らしている。
「嬢さん。水のことは分かった。——だが、こんなことをされて、どうする気だ」
「ガレドとはいずれ向き合わなきゃいけないので。今日は証拠を確保しただけです」
「あんた一人でか」
「一人と一匹と一人。わたしと猫と執事で」
ハウゼが一瞬、呆れたような顔をした。
「……まあ、見とくよ。次に何かあったら、今度はこっちから声をかける」
背を向けて歩き去る。後ろの男たちもついていく。一人が振り返って、小さく頭を下げた。
わたしは手を振った。泥だらけの手を。
***
屋敷に戻って、着替えて、食堂に座った。
ロクスが淹れたお茶から、いつもと同じ温かい湯気が立ち昇っている。窓から差し込む朝の光が、木板の上に落ちた。
炭筆を持つ手が、まだ少し震えていた。
「ロクス」
「はい」
「今回の設計——百点。わたしの計算は合ってた」
「ええ。百点です。お嬢様の設計に瑕疵はございませんでした」
「ただし」
木板に炭筆を走らせる。今回の教訓。
「敵がいることを計算に入れてなかった。マイナス五点」
「十分な採点かと存じます。——ちなみに、敵の妨害を予見できなかった点についてですが」
「知ってた。ロクスが言いたいのは、『設計は正しかったけど、環境に敵がいることまで設計に入れろ』でしょ」
「お嬢様がご自身で言語化されるとは。成長度合い、上方修正です」
——つまり「ちょっと見直した」。煽り精度、今日は九十二点。いつもより微妙に優しいぞ。
「ねえロクス。ガレドは次も何かしてくるよね」
「ええ。むしろ、しない理由がございませんね」
「じゃあ次は何をしてくるか、三通りくらい予想してみて」
「三通り、ですか。——そうですね。一つ目は——」
「あ、やっぱり言わないで。自分で考える」
「お嬢様の成長機会が、また一つ増えましたね」
——成長機会が多すぎるんだよ。
窓の外で秋の風が枯れ葉を転がしている。お茶を飲んだ。温かい。ロクスが淹れるお茶は、百点の設計図の日でも、敵に妨害された日でも、変わらない味がする。
十二点の領地。水路は百点。でも敵がいて、下流との関係はまだ薄くて、ガレドの次の手は読めない。
木板に書き足す。
「敵の妨害を設計に含めること」
炭筆の先が折れた。力を入れすぎた。
——まあ、なんとかなるでしょ。
なんとかするしかないから。
お茶のカップを置いて、わたしは木板を膝に乗せ直した。
次の設計図を描くために。今度は、敵がいる前提で。
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