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辺境令嬢と、退屈知らずの執事  作者: 猫野ひかる
2章「失敗は先払い」

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第23話「完璧な水路の設計図」

 あの日わたしは、自分のことを天才だと思っていた。


 水路の設計図を完成させた朝の話だ。


 結論から言うと、天才の設計した水路は、翌朝に急に細くなった。


***


 三日前に遡る。


 食堂のテーブルに木板を三枚並べて、わたしは水路の設計に没頭していた。暖炉の火がぱちぱちと小さな音を立てている。


 水は高いところから低いところに流れる。当たり前だ。つまり、取水地点と畑の高低差を測って、その間の距離で割れば傾斜が出る。傾斜さえ分かれば、どれだけの幅と深さで掘ればいいか計算できる。


 前の世界で理科の授業を真面目に聞いていたことが、ここにきて役に立つとは思わなかった。


「ロクス、屋敷の裏の小川と畑の高低差って分かる?」


「およそ1メートルほどかと。距離は150メートルほど」


「傾斜は150分の1——」


 炭筆の先で木板に数字を刻む。鼻の頭がむずむずした。炭の粉が舞っている。朝の冷たい空気が窓から入ってきて、パンの香りと混じる。


「……いける。この傾斜なら、幅30センチの溝で十分だ」


「お嬢様、朝食がまだですが」


「後でいい。待って、ここの合流地点をどうするか——」


 パンをちぎって口に放り込みながら、設計を続けた。ロクスが無言でお茶を横に置いてくれる。白手袋の指先がカップの縁に触れた瞬間だけ、ほんの少し間があった。


 わたしは気づかないふりをして、設計図に集中した。


 取水口。導水路。分岐点。排水路。


 前の世界の用水路の構造を思い出しながら、この土地の条件に合わせて修正していく。重機はない。コンクリートもない。あるのは鍬と石と、わたしの腕力だ。


 ——腕力、足りないけど。


「できた」


 三枚目の木板に最後の線を引いて、わたしは顔を上げた。


「できた。我ながら、いい線いってる」


「いい線かどうかは、水が証明するかと存じます」


「証明してやるよ。見ててよ」


***


 着工の日は、秋にしては穏やかな晴天だった。


 鍬を握る。木柄の硬さが手のひらに食い込む。水膨れの跡がまだ残っている手で、土に刃を入れた。


 重い。


 最初の一振りで思い知らされる。土を掘るというのは、こんなにも体力を使う作業なのか。腕が、肩が、腰が軋む。令嬢の体は薄い生地みたいなもので、力仕事には決定的に向いていない。


 でも止まれない。


「待って待って、ここの傾斜をこうすれば——いや待って、反対側から引いて、いやこっちが先で——」


 口が止まらなくなった。頭の中で設計図が回転して、手が追いつかない。鍬を振るいながら、次の区画のことを考えて、その次の合流点のことを考えて。


「ロクス、石! ここに石を積んで!」


「承知いたしました。——お嬢様、息を」


「息してる! いいから石!」


 ロクスが運んできた石を溝の壁に積む。手が泥だらけだ。爪の中まで土が詰まっている。汗が額を流れて、目に入って染みる。塩辛い。


 でも、溝が形になっていく。


 設計図の通りに、一本の線が畑の横を走り始める。取水口から導水路へ、曲がり角を過ぎて、分岐点を越えて——。


「いける。いけるいける、この角度、見てよこの角度」


「拝見しております」


「ねえ、この曲線! きれいに流れるでしょ!」


「ええ。曲線は大変美しゅうございます」


 ——その言い方、曲線だけ褒めてない?


 半日かけて、水路の基礎が完成した。


***


 夕焼けが溝の底を橙色に染めていた。


 疲労で手が震えている。足も腰も、もう自分のものじゃないみたいだ。でも目の前には、わたしが設計して、わたしが掘った水路がある。


 秋の虫が鳴き始めた。遠くで鳥の声がする。夕暮れの空気は少しだけ冷たくて、汗ばんだ肌に気持ちいい。


「水路の完成度——九十五点。残り五点は、明日水を通して確かめる」


 ロクスが水路の縁に立って、じっと溝を見下ろしていた。


「一つ、お聞きしてもよろしいですか」


「何?」


「いえ——」


 ロクスは言いかけて、口を閉じた。琥珀色の目が一瞬だけ光を帯びて、すぐに戻る。


「いえ、やはり、お嬢様がお気づきになるまで黙っておきましょう」


「何!? 何に気づくの!?」


「自分で気づくことに意味がございますので」


「なにその教育方針! 明日水を通すんだからね!?」


「ええ。楽しみにしております」


 ロクスの声に、かすかな笑みが混じっていた。面白がっている。完全に、面白がっている。


 わたしは溝の横に座り込んで、泥だらけの設計図を膝に広げた。取水口の位置、傾斜の角度、流量の見積もり。どこにも間違いは見当たらない。


 完璧だ。


 ——完璧なはず、なんだけど。


 炭筆の先が、設計図の線の上で止まった。ロクスが言いかけてやめたこと。なんだろう、何を見落としている?


 でも設計図は正しい。計算も合っている。


「まあ、なんとかなるでしょ」


 わたしは設計図を丸めて立ち上がった。明日の朝、水を通す。それで答えが出る。


***


 夜、部屋で設計図を広げ直した。


 蝋燭の揺れる光が木板の上で踊る。炭筆のインクが染みになって、端のほうが少し読みにくい。指先でなぞると、掘った時の土の感触がまだ爪の隙間に残っていた。


 取水口。傾斜。流量。幅。深さ。


 何度見ても、間違いはない。


 前の世界で見た用水路を思い出す。コンクリートで固めた、真っ直ぐな水の道。あれとは比べものにならないけど、原理は同じだ。水は高い所から低い所に流れる。それだけのことなのに、こんなに嬉しいのは多分、初めて「自分の頭で考えたことが形になった」からだと思う。


 木板の線を一本ずつ追っていく。取水口から導水路。曲がり角。分岐点。排水路。


 ——完璧じゃない?


 口元が緩むのを止められない。村人は誰も手伝ってくれなかった。職人もいない。それでも、わたしとロクスの二人で、ここまで作れた。


 ロクスが言いかけてやめたことが頭の隅を掠める。


 ——でも、何か忘れてない?


 蝋燭の炎がふっと傾いた。窓の隙間から入った風だ。炎が戻るまでの一瞬、部屋が暗くなって、木板の線が影に沈んだ。


 指先が冷たい。今日一日、土を掘り続けた手のひらは赤く腫れていて、握ると鈍く痛んだ。明日もこの手で鍬を握るのかと思うと少し気が重い。


 でも、水が流れる。明日、この水路に水が通る。


 それだけで十分だ。


 布団に入る。冷たい。秋が深くなって、夜がどんどん冷えてきた。毛布の端を引き寄せて丸くなると、体の芯に残った疲労がじわりと溶け出すみたいに広がった。腰が痛い。肩も痛い。足の裏にも、たぶん水膨れができている。


 令嬢の体で溝を掘る。冷静に考えると、かなり無茶なことをしている自覚はある。


 ——まあ、わたし、冷静じゃないからな。


「……大丈夫。ちゃんと考えたんだから」


 目を閉じる。疲労が体中に染み渡って、意識がすぐに沈んでいく。蝋燭の残り火がまぶたの裏で揺れている。


 明日は、きっとうまくいく。

お読みいただきありがとうございました!


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