第22話「協力者ゼロの改善計画」
堆肥の匂いは、正直に言うと、酷かった。比較する気力もないほどに。
わたしはエプロンで鼻を押さえながら、畑の端で途方に暮れていた。
「ロクス、これ本当に効くの?」
「堆肥による土壌改善は、古来より農業の基本でございます」
「基本の匂いじゃないんだけど」
屋敷の裏手に広がる小さな畑。秋の乾いた風が吹くたびに、積み上げた堆肥から強烈な臭気が漂ってくる。目が痛い。
でも、土壌を改善しないと始まらない。
知識を掘り起こす。輪作——同じ作物を連続して植えると土が痩せる。だから、種類の違う作物を順番に植え替えていく。根の深さが違うものを交互に使えば、土の栄養を無駄なく使える。
理屈は分かる。分かるんだけど。
「この土、栄養あるの?」
手のひらで土を掬い上げてみた。灰色がかった、さらさらの砂みたいな土。指の間からぱらぱらと零れ落ちる。
「お嬢様、土壌の判定をされるのでしたら、まず匂いを嗅ぐことをお勧めします」
「いやだよ! さっきの堆肥で嗅覚が死んでるの!」
ロクスは白手袋の手でティーカップを持ったまま、畑の縁に立っている。こっちは泥だらけなのに、あの人は服に土一つついていない。
「堆肥の分量ですが——お嬢様、この匂いは何に似ているとお感じですか」
「……え? 腐った草?」
「左様で。つまり、発酵ではなく腐敗が進んでおります」
——この人、お茶飲みながら言うことじゃないでしょ。
午前中いっぱいかけて、堆肥を畑に混ぜ込んだ。鋤で土を返すたびに腕が軋む。令嬢の体は、農作業用にはできていない。手のひらに水膨れができて、破れて、じんじんと痛む。
でも、堆肥を混ぜた区画の土は少しだけ色が変わった。灰色から、ほんの少し茶色に近づいた気がする。
気がするだけかもしれないけど。
***
午後、カルセド村に出かけた。
村の広場は、秋の陽光の下でひっそりとしていた。わたしは令嬢モードを起動する。
背筋を伸ばす。声のトーンを上げる。微笑みを貼り付ける。
共用窯の前に集まっていた数人の村人に声をかけた。
「皆さまのお力添えをいただければ、畑の改善が——」
——お願いだから手伝って。一人は無理。
村人たちの反応は、予想通りだった。
日に焼けた手を腰に当てたおじさんが、困ったような笑みを浮かべた。
「お嬢様が畑ですか。はあ」
「輪作という方法がございまして、作物を順番に——」
「うちは先祖代々、同じやり方でやっとりますんで」
別のおばさんが、干し物を畳みながら言った。
「お嬢様はお屋敷のことだけ見ていてくださいまし。畑のことは、わしらが分かっとります」
分かってるから痩せた土地で収穫量が落ちてるんじゃないの、とは言えない。
何人かに声をかけたけど、反応はどれも似たようなものだった。困り顔か、曖昧な笑みか、目を逸らすか。悪意はない。ただ、興味もない。
没落寸前の男爵家の令嬢が、急に「農業を改善します」と言い出しても、信じろというほうが無理だ。
それは分かってる。分かってるけど。
広場を離れるとき、背中に小さな囁き声が聞こえた。
「カルセドのお嬢様、最近おかしいよね」
「ねえ。急に畑とか言い出して」
——まあ、そうだろうね。
わたしは振り返らずに歩いた。秋の夕日が短くなって、村の建物の影が長く伸びている。自分の影が、やけに小さく見えた。
***
屋敷に戻って、部屋の床に座り込んだ。
椅子はある。机もある。でもなんとなく、床のほうが落ち着く。冷たい木の床に足を伸ばして、背中を壁にもたれかけて、木板を膝に乗せる。
炭筆で計画を書き直す。指先が黒くなる。爪の間にまで粉が入り込んで、洗っても取れない色だ。
窓から冷えた夜風が入ってきた。蝋燭の炎が揺れる。
食糧。水路。
この二つに絞る。他は後回しだ。
物流は道を直したからひとまず保留。人望は……時間をかけるしかない。収入は食糧が改善すれば少しは見えてくるはず。
「村人、誰も手伝ってくれなかった」
ドアの外から、ロクスの声が聞こえた。扉の蝶番がかすかに鳴って、ノックもせずに入ってくるのはいつものことだ。
「つまりお嬢様は本日、人望の不在を実証されたと。貴重な調査結果ですね」
「調査じゃないし、貴重でもないよ」
ロクスがドアの前で足を止めた。わたしが床に座っているのを見て、琥珀色の目がほんの一瞬だけ何かを捉えたように動く。
「お嬢様、椅子がございますが」
「知ってる。床がいいの」
「……承知いたしました」
追及しないのがロクスのいいところだ。前の世界の習慣なんて、説明できないし、する気もない。
「独力での実施も、お嬢様の成長機会かと存じます」
——つまり「一人でやれよ」。知ってた。
「一人でやるよ。最初から期待してなかったし」
嘘だ。ちょっとだけ、誰か一人くらいは手を挙げてくれるかもって思ってた。
でもまあ、期待してなかった、ということにしておく。そのほうが楽だから。
「で、ロクス。食糧は堆肥でなんとかするとして。水路のことなんだけど」
「はい」
「畑に水を引くのと、生活用水の確保と、両方いっぺんにできないかなって。水路を作れば」
木板に書いた計画を見直す。食糧。水路。
「ロクス、水路ってどうやって作るの?」
「お嬢様、それは大変興味深いご質問です」
ロクスの声のトーンが変わった。面白がっている、のとは少し違う。
「——ちなみに、この領地には水路を作れる職人がおりません」
「え?」
「一人も」
沈黙が落ちた。
蝋燭の炎が、ゆらり、と揺れた。
窓の外で虫が鳴いている。秋の虫の声は、前の世界と変わらない。
「……じゃあ、自分で作るしかないじゃん」
「ええ。お嬢様の成長機会が、また一つ増えましたね」
——成長機会が多すぎるんだよ。
わたしは木板に「水路 自作」と書き足して、炭筆を置いた。
指が黒い。爪の間も黒い。令嬢の手じゃない。
でもまあ、令嬢らしくしたところで、誰も手伝ってくれないんだから。
同じことだ。
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