第20話「面白い子だ」
夜が深くなり、屋敷が静まった。
使用人たちは寝室に引き上げ、食堂の火は落とされ、廊下には燭台の残り火だけがゆらゆらと揺れている。石造りの壁に影が長く伸び、揺れるたびに形を変えた。蝋の焼ける匂いが、わずかに漂っている。
ロクス・アルヴェンは、廊下に立っていた。主の部屋の扉の前で。
扉の向こうから、穏やかな寝息が聞こえる。規則的で、深い。疲れ果てて眠った人間の呼吸だ。今日は監査官の前で棒読みの報告を済ませ、そのあと客間の椅子から立ち上がれなくなるほど消耗していた。
今日の出来事を、ロクスは順番に整理した。
木板三枚。炭筆の文字。「不十分です」と言われた。だが、「方向性は認めます」とも言われた。
茶碗が、ひとつあった。
ラディスは今日、茶を一口だけ飲んだ。ほんの一口。前回は手もつけなかった。しかし今日は指を伸ばし、一口だけ飲んで、置いた。些細な所作。だが何百年と人の世を見てきた目には、それが何を意味するのか分かる。「見るに値する」という判断だ。
そして、ミレイア嬢、と呼んだ。前回はカルセド嬢だった。
あの子は気づいていなかった。棒読みの報告と、消耗しきった表情の下で、何が変わったのかを理解していなかった。木板を引き寄せて「次は数字を出さないといけない」と困っていた。でも、ロクスには見えた。二週間で、評価が一段階だけ前に進んだことが。
茶碗一口分の前進。
あの子はそれを知らない。それでいい。知らなくても、また木板に書き付けて動く。そういう生き物だ。
***
屋敷の外に出た。
月が高い。秋の夜の空気は冷たく、澄んでいる。虫の声が遠くで鳴いている。屋敷の石壁は月明かりに白く浮かび上がり、蔦の影が這うように壁面を覆っていた。吐く息が白い。秋はもう深い。
屋根を見上げた。東棟と中央棟の接続部分。瓦が三枚ずれている。その下の梁が湿気で膨張し、接合部に隙間ができている。石灰の目地が崩れ、苔が縁に沿って広がっている。人間が修繕するなら足場を組み、職人を呼び、数日の工事になるだろう。この屋敷に職人を呼ぶ金はない。あの子はまた木板に書き付けて、どうにかする方法を考えるのだろう。三十点の道を直したように。
なぜ直すのか。
問いが浮かんだ。だが今日は、答えが来るまで間がなかった。
あの子は次の正式評価まで、四ヶ月で数字を出さなければならない。雨漏りが起きれば余計な出費が生まれる。改善の数字を食い潰す。それだけのことだ。
——それだけだ。
面白い子だから見ている。その続きを見届けたい。だから、この屋根が四ヶ月後まで持たなければならない。それだけのことだ。
ロクスは白手袋に手をかけた。
右手の手袋を外す。夜の冷たい空気が指先に触れた。人間の皮膚であれば、ただ冷たいだけの感触。だが、ロクスの指先は——空気の温度だけでなく、風の流れ、湿度、屋根までの距離を正確に感じ取っていた。瓦の一枚一枚の位置、梁にかかる重さ、木材に含まれた水分の量。手袋一枚を隔てるだけで閉ざされていた感覚が、一気に開く。
手を屋根に向けた。
音はなかった。光もなかった。魔法のような派手な現象は何も起きなかった。
ただ、ずれていた瓦が、するりと元の位置に戻った。一枚目。二枚目。三枚目。梁の隙間が閉じた。膨張した木材が、乾いた木材に戻る。石灰の目地が埋まり、苔が剥がれ落ちる。あるべき形に。
修繕は数秒で終わった。
***
右手に目を落とした。
人差し指の第一関節から指先にかけて、二枚。親指の付け根に、一枚。
金色の鱗が浮いていた。
硬い。爪で弾けば乾いた音がしそうなほど硬い。人間の皮膚とは異なる温度。冷たくもなく温かくもない。ただ、そこにあるべきものが表に出てきた、という感触だった。
鱗は月明かりを受けて、鈍く光った。数秒。五秒か六秒。光が薄れ、金色が褪せ——一枚目が溶けるように消えた。人差し指の鱗が先に。次いで親指の付け根。最後に指先の一枚が、薄く透けて、見えなくなった。指先に人間の皮膚が戻る。
「少し、力を使いすぎたか」
呟いた。声は低く、廊下で主に話しかける時の口調とは違う。丁寧語が消えていた。
瞳が変わっている。自覚があった。琥珀色が金色に変わり、瞳孔が丸から縦長に狭まっている。力を使った後は、いつもこうなる。人の世に長くいすぎた。いや、それは関係ない。あの子が予測不能なだけだ——そう言い訳をするには、今日は笑いすぎた気がした。
中庭に面した回廊に立つと、茂みの奥から低い唸り声がした。
ミケだった。
三毛猫は茂みの中から、毛を逆立てたままこちらを見ていた。丸い体が膨らんで、尾が太くなっている。黄色い目が暗闇の中で光る。低い、途切れない唸り声。背を丸め、四肢を地面に押し付けて、一歩も動かない。
「勘のいい毛玉殿だ」
ロクスは口の端を上げた。猫は人外の気配に敏感だ。最初は近づかなかっただけだった。次は威嚇した。今は唸っている。力を使うたびにエスカレートする。あの毛玉は正しい。正しく怖がっている。
ミケは唸り声を上げたまま、じりじりと後退し、茂みの奥に消えた。闇の中で目だけがしばらく光っていたが、やがてそれも消えた。
***
右手、左手。革の手袋が指に馴染む。何十年も使い込んだ手袋だ。人間の皮膚の下にあるものを隠すための道具。今日、改めてその意味を確認した。
中庭に月光が差している。修繕された屋根のシルエットが、崩れかけていた時とは違う輪郭を見せている。まっすぐな線。あるべき形に戻った屋根。
あの子は明日も動く。数字を出せと言われた。パンと道だけじゃ足りないことは、あの子もすでに分かっていた。分かった上で、笑った。椅子に深く座って、力が抜けたまま、笑った。
茶碗一口分の前進を、あの子はまだ知らない。
それでいい。知らなくても、動く。それがあの子だ。
——面白い子だ。
答えにならない答えを、ロクスは自分に返した。何百年も人の世を見てきた。こんな人間は初めてではない。初めてではない、はずだ。
白手袋を嵌め直した手を、ロクスは胸の前で組んだ。いつもより丁寧に。手袋の皺を一本ずつ伸ばすように。
月を見上げた。秋の月は冷たく、遠い。何百年も変わらない光が、屋敷の中庭に静かに降り注いでいる。あの子が見ている月と、同じ月だ。
「面白い子だ」
呟いた声は、誰にも届かなかった。
中庭の隅で、猫が毛を逆立てたまま、金色の目でこちらを見ていた。




