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辺境令嬢と、退屈知らずの執事  作者: 猫野ひかる
第1章「ここ、辺境です」

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第19話「棒読みプレゼンでも、伝わるものはある」

 朝から三回、お辞儀の練習をした。


 角度が浅いとロクスに言われ、深すぎると自分で思い、結局いつも通りの棒読みで「ようこそお越しくださいました」と口に出した。声が震えてないか確認する。震えてる。うん、気にしない。気にしたら負けだ。


 足音が廊下に響いた。ラディス監査官が、来た。


***


 客間の扉が開く。


 痩せた体に地味な官服。短く刈った髪。目の下に薄い隈。前回と変わらない。書類の束は前回より少し薄いが、ペンはもう握っている。この人は挨拶の前にペンを構える。仕事の鬼だ。


「このたびの改善について、ご報告させていただきますわ」


 棒読み。自覚がある。令嬢モード全開だが、声に抑揚がない。気持ちは込めている。ただ声に出てこないだけだ。


「こちらを」


 木板三枚をテーブルにことりと置いた。角の欠けた板。炭筆の文字。ラディスの前に並べると、その貧相さが際立つ。ラディスが手に持っている上質な紙の束と比べたら、廃材と工芸品くらい差がある。


 ラディスが木板を一枚手に取った。細い指が文字をなぞる。表情は変わらない。鉄の仮面だ。何を考えているのか分からない。


「これだけですか」


「はい、これだけです」


 開き直り。開き直るしかない。嘘は書いていない。足りないのは分かっている。でも、足りないことを認めた上で出す方が、盛って出してバレるよりましだ。


 ラディスが二枚目を手に取った。道の修繕の項目で指が止まる。排水溝の記述を読んでいるようだ。三枚目に移る。今後の計画。「収入源の確保と借金返済計画の策定に着手する所存です」。ラディスのペンが紙の上を走った。何か書き留めている。


 汗が背中を流れた。服の下で、冷たい線が背骨に沿って落ちていく。


「現場を見ます」


 ラディスが立ち上がった。木板を丁寧にテーブルに戻し、ペンと紙を手に。声に温度がない。「見ます」が肯定なのか否定なのか、判断がつかない。


***


 村の道に出た。


 秋の昼下がり。草と土の匂い。雨上がりの空気が少し湿っている。三十点の道が目の前に伸びている。


 ラディスが黙って歩き始めた。


 靴で路面を踏む。乾いた土を踏む硬い音がした。踏み固めた土に、ラディスの靴が沈まない。沈まなかった。昨日の雨でも崩れなかった。排水溝が水を逃がしたからだ。


 わたしはラディスの半歩後ろを歩きながら、排水溝に目をやった。水が流れている。少量だが、確かに。道の上ではなく、溝の中を。前回ラディスが来た時——あの時はまだ道の修繕なんてしていなかった。泥道のまま案内した。「記録に残します」と言われた。


 ラディスが足を止めた。排水溝の前でしゃがみ込む。溝の深さを確認するように、目線を落とす。ペンが走る。何を書いているのかは見えない。


 この沈黙を読み解くと——「話にならない」か、「まあまあ」か。どっちだ。表情が読めない。鉄の仮面か。


 ラディスが立ち上がった。何も言わず、道の先に向かって歩き続ける。排水溝の端まで歩き、折り返し、もう一度踏み固めた路面を靴で確認する。


 わたしは黙ってついていく。何か言いたい。「ここは排水溝を掘って」とか「石を敷いてから土を被せて」とか説明したい。でも、聞かれていないのに説明するのは不自然だ。令嬢はそういうことをしない。——いや、令嬢がどうとかじゃなくて、監査官が黙って見ているなら黙って待つのが正しい気がする。


 踏み固めた道の感触が靴底に伝わる。固い。少なくとも泥に足を取られることはない。三十点の道だが、歩ける道だ。


***


 屋敷に戻った。客間で向かい合う。


 ロクスが茶を出した。前回もそうだった。前回、ラディスは茶に手をつけなかった。カップはそのまま冷めて、テーブルの上に残った。


 ラディスがペンを置いた。紙の束を手に持ち、背筋を伸ばし、わたしを見た。


「報告の内容について」


「はい」


「不十分です」


 呼吸が止まった。一瞬、客間の空気が凍った気がした。不十分。やっぱり。分かっていた。木板三枚で十分なわけがない。パンと道だけで領地の改善と認められるわけが——


「ですが前回と比較して、改善の方向性は認めます」


 息を吐いた。


 吐いてから、今の自分がどのくらい息を止めていたのかに気づいた。長かった。三秒か四秒か。その間、世界が止まっていた。


「方向性」


「食事の改善と道の修繕。いずれも基礎的な施策ですが、実行されたことは確認しました」


 ラディスの声は平坦だ。褒めているわけではない。事実を述べている。でも「確認しました」の一言が、今は何よりの報酬だった。


「次の正式評価では、数字で示してください。収入、支出、改善項目の定量的な成果。報告書としての体裁も整えていただければ」


「数字、ですか」


「数字です」


 短い。でも明確。ラディスはこういう人だ。必要なことだけを言い、余計なことは言わない。


 ラディスが立ち上がりかけた。そして——カップに手を伸ばした。


 お茶を、一口だけ飲んだ。


 一口。ほんの一口。カップをすぐにテーブルに戻した。でも、前回は手をつけなかった。前回はカップに指すら触れなかった。


「ミレイア嬢」


 呼ばれた。


 ミレイア嬢、と。前回はカルセド嬢だったのに。


「四ヶ月後の正式評価までに、見せられるものを増やしてください」


「……はい」


 声が掠れた。掠れたのは、緊張のせいか、安堵のせいか、自分でも分からなかった。


 ラディスが客間を出ていく。廊下に足音が響いて、やがて遠ざかった。玄関の扉が開いて、閉じた。


***


 ラディスが飲んだカップをじっと見た。茶の輪染みが、縁の内側に一筋残っている。一口分の跡。


 椅子に深く座った。体の力が抜けた。全身がだるい。緊張で体力を使い果たした。鋤を振るよりも疲れた気がする。


「お嬢様の本日のプレゼンは、要点の簡潔さにおいて高い評価を受けたようですね。中身の薄さとも言えますが」


 ロクスが言った。


「今日だけは褒めて。今日だけは」


「褒めております。首の皮一枚で繋ぎ止めたのは事実ですから」


 ——「ぎりぎりだったな」ってことでしょ。知ってる。分かってる。


 今日のプレゼン、三十五点。ラディスの評価、条件付き合格。お茶の消費量、一口。前回ゼロだから——比率にすると無限大の改善。


 笑った。笑えた。昨日は笑えなかったのに、今日は笑えた。それだけで、少し安心する。


 でも、次は数字を出せと言われた。パンと道だけじゃ足りない。収入がない。支出も分からない。帳簿もない。


 ロクスが、ラディスの置いていった書面を手に取った。


「次回の正式評価まで、あと四ヶ月です」


 四ヶ月。パンと道だけじゃ、足りない。


 何か、もっと大きな改善が必要だ。——でもそれが何なのか、まだ分からない。

お読みいただきありがとうございました!


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