第十八話
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草原の上を、一頭の白馬が駆けている。
たてがみからつま先まで、一点のくもりもない純白の馬だ。青空に浮かぶ無数の入道雲よりもずっと白い。太陽光を反射し、眩いくらいに輝くその馬を、僕は目が焼かれるのもかまわずに直視していた。
美しい馬だったが、僕が目を奪われていたのは馬ではなく馬にまたがる彼女だった。
いつも纏っていた豪奢な衣は脱ぎ捨て、こざっぱりとした軽装をしている。長い髪も解かれ、風にたなびくままにさせている。鞍も手綱もなく、彼女は馬を乗りこなしている。目を細め、はにかみを浮かべながら。ほんのりと赤みがかった頬に、汗の雫を光らせながら。彼女は波打つ草原を、縦横無尽に駆けていく。
自由を絵に描いたような光景だった。
僕は彼女に見惚れながら、同時に羨ましいとも思った。
彼女はきっといま、ありのままだ。
あれが彼女の本来の姿なのだ、と思った。
重たいばかりの衣装を脱ぎ捨てて、堅苦しく編み上げた髪をといて、風の向くままに草原を駆けていく。泉で汗を流し、木陰でうたたねをし、花畑で歌を口ずさむ。子どものように遊びまわる彼女を、しかし咎めるものはいない。なぜならば、誰の目にも、それは正しいことのように映るからだ。それこそが彼女の正しいあり方で、真にふさわしい振る舞いであると、彼女のことをまったく知らない人が見てもわかるからだ。
それだけ彼女のありようは自然だった。
僕もあんなふうになれたら、と思った。
正しい形で、ありのままの姿で自由にふるまう彼女は、美しく眩かった。
もといた世界で、僕はありのままではなかった。この世界にきてからは、身体の自由がなかった。
奇跡はそう何度も与えられるものではない。僕が再び生まれなおすことないだろう。だから贅沢は考えないことにしていた。神様が与えてくれたこの奇跡で僕は満足しなければならない。この不自由を謳歌しなければならない。そう思いこもうとしていた。
けれどやはり心の望みを完全に消し去ることはできない。
僕は彼女のように、ありのままの姿で、自由に生きてみたかった。
気づくと、僕は彼女と共に馬にまたがっていた。
馬を操るのは彼女だ。僕は彼女の後ろでその細くしまりのある腰を抱きしめ、長く柔らかい髪の隙間から、流れる景色を眺めていた。
彼女は温かく、かすかに花のにおいがした。なんという花のにおいであるかはわからなかったが、それが花のにおいであるということはわかった。
馬に乗っているという感覚はほとんどなかった。本物の馬を見るのははじめてで、当然乗馬の経験などなかったが、僕は難なく馬を乗りこなしていた。彼女の見事な手綱さばき(いや、裸馬なので手綱なんてものはなかったが、まるで手綱を握っているかのように彼女は馬を正確に操っていた)のおかげかもしれない。
純白の馬は軽やかに進んでいく。草原を。丘を。湖のほとりを。
湖にはいくつかの小舟が浮かんでいる。釣りをしているのだろうか。舟には仲睦まじく寄り添う男女もあれば、子供連れの夫婦、のんびりとパイプをくゆらせる老人の姿も見える。
彼女は彼らに大きく手を振る。彼らは軽く手を振り返す。同じ村の住人とすれ違ったかのような、気さくな様子で。
彼らの目に彼女は皇帝として映っていないのだろう。僕らの姿はいまやどこにでもいる若い恋人同士でしかないのだ。
若い恋人同士?
僕はそこでようやく、自分の身体がひとまわり小さくなっていることに気が付いた。
僕はいつの間か、やせ細った五十がらみの男から、肌つやの良い十代半ばの少年へと姿を変えていた。
その少年には見覚えがあった。
僕は馬を降りて湖に映る自分の姿を覗きこむ。あちらこちらに跳ねる特徴的なくせ毛。小ぶりな鼻眼鏡。猫背の、ひょろりと細長い身体。
「どうかしたか?」
僕の隣に立って、彼女も湖を覗く。
「もう疲れたんか?身体が若くなっても、おっさんはおっさんやな」
彼は屈託なく笑った。
僕が彼女だと思い込んでいた人は、彼だった。
「また乗せてやってもええけど、あんたも自分一人で乗ったらどうや」
彼は僕の頭を軽くたたき、ひとり白馬にまたがると、颯爽と駆けていってしまった。
僕は彼を追いかける。
広い草原の中ではたくさんの羊や牛が草を食んでいる。けれど馬は一頭も見当たらない。馬でなければ、彼に追いつくことができないというのに。
僕は馬を探して走り回った。汗は出たが息が切れることはなく、身体がとても軽かった。
僕は次第に馬を探していたことを忘れていった。
こんなふうに思いっきり走るのはいつぶりだろう。羊飼いや農夫が草原を駆ける僕に驚いたような顔を向けたが、僕はちっとも恥ずかしくなかった。このままどこまでも走って行けそうだった。
空の果てまで飛んでいくことだってできそうだった。
――――果てには行かない方がいい。
ふいに、声がした。
――――果てはとても寂しいところだから。
抑揚を欠いた声だった。女性とも少年ともつかないかすれたソプラノ。落ち着いているがくたびれたようでもある、老人のような語り口。
どこからともなく聞こえてくるそれは、イヌブセさんの声だった。
――――自ら果てに向かうのは破滅行為だ。誰かのためならばまだしも。
僕はいつの間にか階段の上に立っていた。
草原の真ん中から生える、長い階段。
いつしか見た夢で、イヌブセさんと一緒に登っていた階段の一番下の段に、僕は足をつけていた。
――――果てにあるのは虚空だ。鎖がなければ留まることもできない。こちらに残る誰かと、約束や誓いをもたなければ、瞬く間に飲み込まれてしまう。
僕は真空にひとり放り出された宇宙飛行士を想像した。宇宙船はおろか星々の明りさえ見えない。完全な暗闇で命綱もないまま、ひとり漂う宇宙飛行士。
たしかに、それはとても恐ろしいことだと思った。
けれどイヌブセさんがそれを恐ろしいと感じることは意外だった。
特異階級、人の身を逸脱した彼らに、人並みの恐怖心があるとは。
――――それこそ私が繋がれている証拠だよ。
イヌブセさんは、いつも通りすべてを見透かしたようにいった。
姿見を組み合わせて作ったような平面的な階段は、空高くのびている。それこそ果てがない。イヌブセさんの声は階段の上から降ってくるが、その姿を目にすることはできない。
僕は鏡の階段に映った自分を見つめながら、問いかける。
ではこの姿は、僕の証拠なのだろうか?
僕の本当の願いの現れなのだろうか?
こうなるべくは彼なのに。
この少年は、彼のために犠牲になるべきなのに。
――――自分のものにしろ他人のものにしろ、その人間が本当に望んでいることを暴くのは難しい。ほとんど不可能といってもいい。そしてその望みを叶えることはさらに難しい。絶対に不可能だといえるほどに。
姿の見えないイヌブセさんは答えた。
どんなささやかな祈りであろうとも、と。
――――故に、君は自分の願いと彼の願いを天秤にかける必要はない。どちらを選ぼうとも、その願いが叶う可能性に変化はないからだ。
選ぼうと選ぶまいと、僕らの願いは叶わない?
――――君たちが人である限り。
ではイヌブセさんのように人でなくなれば、僕は願いを叶えることができるのだろうか。
イヌブセさんは特異階級は進化すると言った。人間に仕える、神という名の奴隷になると。
僕もイヌブセさんと同じように進化を遂げることができれば、自分の、あるいは彼の願いを叶えることができるだろうか。
――――奴隷が叶えられる主人の願いは、ごく限られたものだけだ。
神であっても?
――――神であっても、奴隷は奴隷だ。もしひとりの奴隷が主人の願いをすべて叶えられるのであれば、古代の王はあれほど多くの奴隷を抱える必要はなかっただろう。
ままならないものだな、と僕は思った。
ふいに、鏡の階段に映る少年の姿がぐらりと歪み、小柄で痩せこけた顔色の悪い人物が現れる。
僕はたまらず顔を覆う。これはなんの間違いだ?この僕はもう死んだはずだ。それとも分不相応な願いを抱いたせいなのか?
僕はもう不具合のある自分の姿なんて想像するだけでも嫌なのに。
僕の願いはたしかに叶えられたはずなのに。
――――人が人である限り、欲望がつきることはない。君はそれを恥じてはいけない。満足を知る必要なんてないのだ。
僕はゆっくりと目を開ける。僕の姿は、五十がらみの、長らく寝たきりですっかりやせ衰えた男のものに戻っている。
心から安堵する僕を、優しい風が撫でる。
僕は階段を下りる。地面は柔らかく、脛にあたる牧草がくすぐったい。
遠くで農夫が牛を引いている。鈴を鳴らす羊飼いに追われて、羊たちが移動していく。羊の群れが通り過ぎるのを、一頭の白馬が待っている。白馬にまたがる彼が、僕に向かって大きく手を振っている。
僕は彼に手を振り返しながら思う。
これ以上なにを望むものがあるのだろうか?こんなに美しい世界で、気の置ける友人を持つことができた。僕はもう十分、人生を取り戻した。例えここから一歩も動くことができなかったとしても、目を閉じた次の瞬間には死んでしまったとしても、僕は満足するべきだ。
――――君が思うよりこの世界は美しいものではない。
イヌブセさんは抑揚を欠いたままの声で、諭すように告げる。
――――この世界は残酷で不完全だ。ここはすでにかつてあった楽園ではない。外来種に犯され、生体系はすでに我々の想定からは大きく外れたものになっている。
外来種?
――――君たちのことだ。
僕たちが外来種?それはつまり、僕と彼が、招かれざる客であるということだろうか?
僕たちは救世主として、この世界の人びとに乞われて召喚されたはずだが。
――――彼と君がやってきたときには、すでに手遅れだった。浸食は千年前からはじまっている。
僕ら以前にも異世界人がいた?
――――一度入り込んだ異物を完全に排除することはできない。池の魚たちは小さく素早い。そして選別を行うには、我々の手は大きすぎる。
僕は空を仰いだ。
いつの間にか鏡の階段は消え去っている。地平線まで続く草原と、透ける雲がなびく青空だけが残されている。
イヌブセさんの姿は相変わらずどこにも見えない。けれどその声は、僕のすぐ近くから聞こえてくる。
――――ここは君たちのための世界ではない。君たちは本来、どのような形でも残るはずはなかった。それを私が調整したのだ。無数の条件を満たした幸運な魂が、過去の情報として分解されることなく残り続けるように。
まるで内緒話でもしているかのように、イヌブセさんはささやく。
――――友よ。私は君の願いを叶えたかった。君の願いは、私の叶えることのできない願いであり、私を縛る鎖の芯だった。
これが夢であることは、僕はもうとっくに気が付いていた。
――――私は君の願いをひとつ叶えることができた。代わりに主人のための楽園を人間のための土地に変えてしまった。
僕は以前にもイヌブセさんと対話をする夢を見たことがある。けれどそのときの夢でイヌブセさんと話した内容は、生前に話したことを再構築しただけのものだった。
無意識の中で情報を整理するために見たような夢だった。
ところが今回の夢は、どこかおかしい。
僕はイヌブセさんとこんな話をしたことは一度もない。
この人がなにを言おうとしているのか、なにを示唆しているのか、僕にはまるで見当もつかない。
これは本当に夢なのだろうか?
――――それでも君を救うことができて、私は満足している。
この声は本当にイヌブセさんのものなのだろうか?
このイヌブセさんはまるで僕らと同じ人間のようなことをいう。
――――友よ。君は誰を救ってもいいんだ。君自身でも、彼でも、あるいはそれ以外でも。
イヌブセさんはもう僕の疑問には答えてくれなかった。
答える気がないのか、届いていないのか。答えが返ってきたとして、それがイヌブセさんの言葉なのかもわからない。
僕は目を閉じた。
もう目を覚まさなければ、と思った。
夢に長居は無用だ。
例え明晰夢であっても、どうせ多くは忘れてしまうのだから。
◎
『おはようさん』
そう何度か呼びかけられて、僕はようやく目を開ける。
『声かけてもなかなか反応ないから心配したで』
僕は覚めきらない頭で、ああ、とか、うん、とかもごもごと返事をする。
見上げると、天窓の向こうに見える空にはまだ夜の色が残っている。珍しい。こんな早朝から連絡をしてくるなんて、なにかあったんだろうか。
『うまくいったで』
子機から伝わる彼の思念は、朝日を浴びて輝いているかのように明るい。
うまくいった?いったいなにが?
僕が彼に問いかけようとしたとき、子機にかすかなノイズが走り、彼の声色が変わる。
『――――おはよう――――うん、そうだね。これ以上ないくらい清々しい朝だよ』
どうやら彼は誰かと話しているらしい。しかしその声は、ふだん彼が監視役の二人に向けるようなトゲのあるものでも、皇帝として臣下に相対しているときのような厳めしいものでもない。
気さくで遠慮のない、まるで下町のおばちゃんといった風の声色だった。
『――――いいのかい?悪いねえ』
また小さくノイズが走ったあとで、ラッキー、と彼は笑った。
『農家のじいさんにでっかいトマトもらったわ。朝飯ゲットや』
農家のじいさん?
僕はそれを聞いて、ようやく思い出す。
そうだ、彼は昨晩、朝廷を脱走したのだ。
『無事抜け出せたんだね。怪我はないかい?追手は?』
いまさらになって慌てる僕に、彼は呆れた笑いを返す。
『だからうまくいったゆうてるやん。なんや、寝ないで待っとるとかゆうとったくせに、寝落ちした揚げ句に寝ぼけるんかい』
彼の言葉にトゲはない。気力に満ちて、いつになく生き生きとしている。
彼は無事に切り抜けたのだ。自分の力だけで。
それは喜ぶべきことだったが、僕は不甲斐なさに苛まれ、つい暗い声をだしてしまう。
『悪かったよ』
僕は深く息をついて、目を閉じた。
彼の言う通りだ。なにかあれば助言くらいはできるからいつでも声をかけてくれ、なんて胸を張っていたのに、僕はいつの間にかすっかり眠り込んでしまっていたらしい。それもとても長く、浅い眠りだった。鮮明な夢を見るほどに。
夢。
あの夢はいったいなんだったんだろうか。すぐに忘れると思ったが、夢はまだありありと僕の中に残っている。イヌブセさんと交わした会話の一言一句が、しっかりと記憶に刻み込まれている。
あれは本当に夢だったのだろうか?
しかしいまはそれについて考えている場合ではない。
『それで、これからどうするつもりなんだい?』
彼は決まってるやろ、と威勢よく答えた。
『予定通り西方都市に向かう。西の祭りが一番盛り上がるらしいからな』
いまさら彼を止めることはできない。僕は仕方なく、その前に朝食にしたらどうだい、と我ながら的外れな助言をするほかなかった。




