第十九話
深夜、彼はトイレに行くと言って監視役を伴い寝室を出た。
監視役は彼が身にまとう透明外装について、特に注意を払わなかった。一見するとレース地のショールに見えるそれは、息子から彼女への贈り物、ということになっていた。
彼女の息子は自分の母親の中身が別物であることを知らない。私情を持たない公共機関であろうとする皇族だが、さすがにまだ十歳の少年にはこの残酷な真実を打ち明けてはいないらしい。僕はそれを利用して、彼に透明外装を届けさせた。
はじめて彼女に手紙を送ったときと同様(結果的にそれは彼のもとへ送り届けられたわけだが)、僕は彼女の息子と親交のある技師の少年を通じて、彼のもとに透明外装を送り届けた。これは皇帝陛下によく似合うから、などと適当に理由をつけてもらい、外装は無事彼の手に渡った。
実際透明外装はその効果を知らなければ緻密に編まれた織物でしかない。彼がそれを気に入り、ショール代わりに羽織ったとしても、なんら不自然はない。
そうして秘密兵器を堂々と身に着けた状態で廊下に出た彼は、さらに大胆なことに、監視役の目の前で透明外装を起動させ、姿を消した。
彼はひと気のない静まり返った皇居を抜け、皇居を囲うようにして並びたつ官公庁舎、朝廷に出た。
その日は夜中だというのに朝廷ではまだ多くの官吏が働いていた。
明朝から七日間に渡って行われる、この世界最大の祭りの準備にあたるためだ。どの官吏も疲れた様子はなく、むしろもう祭りが始まっているかのような、浮足立った様子で仕事に励んでいた。
普段であれば夜間の朝廷は閉じられる。しかしこの祭りの最中だけは、門を閉じている暇がない。
皇帝として祭りの指揮(といっても、監視役に促されるまま鷹揚に頷いてみせるばかりだったらしいが)をとっていた彼も、そのことは承知していた。そしてもし逃亡するなら、この繁忙期を逃す手はないと以前から考えていたらしい。
偶然にも僕は、これ以上ないタイミングで、これ以上ない贈り物を彼に渡してしまったらしい。
祭りに揺れる人びとは気づかなかった。
倉庫から数日分の食料とひと揃いの官服が盗まれたことを。これから馬房に入るところだった馬が一頭、ひとりでに歩き出していったことを。ちょうど朝廷を出ようとしていた空の荷馬車の列に紛れて、そのから馬が朝廷を出ていったことを、見咎める者はなかった。
『大きい通りに出たとこでその列からは離れて、いったん路地に入ったわ。真夜中なのに街にも結構人いてなあ。祭りの前だからか、首都だけあってもとからそうなのかは知らんけど、店やらなんやらよう賑わってたわ。そんな中ひとりで馬が歩いてたら目立つからな。とりあえず物陰入って、外装脱いで、盗んだ服に着替えて、改めて出立したわ』
すれ違った老人にもらったというトマトをかじりながら、どのようにして朝廷を抜け出したのかを、彼はかいつまんで説明した。
『いまは西方都市に続く街道を進んどる。追手もないし、拍子抜けするくらい順調や』
この世界には朝廷のある首都を中心に、東西南北それぞれに四つの地方都市が置かれている。首都と四都は街道で結ばれており、各地への行き来は馬を使って二日ほどかかる。彼はそのうちのひとつ、西都へと続く街道を進んでいるという。
『追手がないわけではないだろう』
僕は僕の監視役に目をやった。
老人はいつもと変わらない様子で、朝食の用意を進めている。
平然としたその態度が、抑制の結果なのか、それともまだなにも知らされていないからなのかはわからない。
『まだ追いつかれていないだけで、彼らは君を捕えようと躍起になっているはずだ』
『そう簡単に捕まるつもりはないで。それにあいつらも、皇帝の失踪なんてスキャンダルは望んでへん。それもこんな祭りの時期に。だから捜索も大々的なもんにはならんはずや』
『それはそうだが……』
『心配性やな。自由を与えたるって偉そうなこと言ったのはあんたやで』
『僕が与えるつもりだったのは限定的な自由だよ。君がまさかここまで大胆なことをするとは思わなかったんだ』
『これも十分限定的やろ。いつ捕まってもおかしくないし』
『捕まるまで逃げ続けるつもりかい?』
『それは今後の成り行き次第』
まるで危機感のない彼の様子に、僕は思わず大きなため息をついてしまう。
それを見た世話役の老人は目を細め、どうしましたか、と心配の声をあげる。
「いえ……今朝はやけに腹がすくもので」
「本日は野菜のスープとヨーグルト、ベーコンのレシュティを用意しています」
老人は僕をゆっくりと抱き起し、背中に背もたれのクッションを並べる。
それから寝台の上にローテーブルを乗せ、その上に朝食を並べる。
細かく刻んだ野菜の浮かぶトマトスープ。蜂蜜が垂らされたヨーグルト。ベーコン入りのじゃがいもケーキ。この世界では一般的な朝食だというが、僕にとっては未だにご馳走だ。朝から新鮮な食材をたっぷりつかった出来立ての料理を食べられるなんて、王様にでもなった気分だ。香ばしい料理を前にしただけで、心がこんなにも満たされるとは、この世界にくるまで僕は知らなかった。
「おいしそうだ」
はずみで訴えた空腹が本物になる。
「ちょうどトマトが食べたかったんですよ」
僕の言葉に世話役の老人は生真面目な首肯を返し、スープを口まで運んでくれる。
『おっさんも飯か?』
思念は抑えていたつもりが、いくらか彼の方にも流れていたらしい。
僕は老人にスープを食べさせてもらいながら、彼との通話を再開させる。
『こっちもトマトのスープだったよ』
『ええなあ。オレも一晩中動いとったから、トマトだけじゃ足りんわ。馬も休ませなきゃならんし、どっかで一休みしようかな』
都市を結ぶ街道というだけあって、途中にはいくつかの宿場町があるという。
度胸のあることに、彼は宿をとって休もうと考えていた。
『いやでも君、お金とか持っているのかい?』
『持ってへんけど、金になりそうな貴金属はなんぼかくすねてこれたから、それをどっかで売るつもりや』
『皇居から持ち出したものではすぐに足がつくんじゃないか?』
『皇帝の持ちもんゆうて、全部に名前が書いてあるわけやない。なるべく既製品っぽいやつだけ選んできた。凝ったデザインのとか、家紋が入ってるようなのは置いてきたで』
『抜かりがないな』
『役者はいろんな世界のいろんな物語に触れるからな。特にオレは二・五がメインの役者やったから、こういう異世界でのお約束は大体つかんどる』
彼は得意げに言ったが、ここは物語の中の世界ではない。そのお約束がいつまで通じるかはわからない。
窘めたいところだが、しかしいまのところ、すべては順調に進んでいる。それにせっかく得た自由を満喫している彼に、冷水を浴びせるような真似はしたくない。
僕は浮かぶ小言をスープと一緒に飲み込んで、ひとまず彼の直感を信じることにする。
『そういえば君は一度脱走を成功させているんだった』
この世界にきて間もなく、同じ異世界人の存在を知った彼は、僕のところまで身一つでやってきた。透明外装はもちろん持っていなかったし、地理感覚もまだ培われていなかった状態で。
『条件でいえば最初の方が厳しかっただろうに、よく抜け出せたね』
『自分でもそう思うわ。あのときはあんたへの怒りだけで飛び出したからな、勢いしかなかったで。ちょうどいいとこに馬がおらんかったら、朝廷出てすぐに捕まってた』
『それも気になっていたんだが、君の世代では乗馬は一般的な嗜みだったのかい?僕の時代には、生きてる馬なんて研究職の人間でもなければお目にかかる機会はなかったけれど』
『未来どんなことになってんねん。ってかおっさん、前に競馬が趣味とか言ってなかったか?』
『競馬に生きてる馬は使わないよ』
『ロボットとかに置き換わったってことか?なんやそれじゃボートレースとかと変わらんな。っていうか馬はいなくなっても競馬はなくならんて、ほんま、世界が変わっても人間は変らんなあ』
『有史以来、賭け事は誰にでも楽しめる伝統的な娯楽だよ。中でも競馬は特に歴史が古く、世界中で愛されている』
『オレは自分が乗る方が楽しかったけどな』
『そうか。羨ましいな。君と同じ時代に生まれていたら、僕にも乗る機会があったんだろうけど』
『それはどうかわからんで。乗馬ってオレの時代でも別にそこまで一般的なもんやなかったからな。金払えば乗れたけど、経験あるやつは少なかったで』
『じゃあどうして君は?』
『憧れてる役者の趣味が乗馬でな、いやまあその人は時代劇とかよく出とったから仕事半分なんやろうけど、オレも影響されて乗馬クラブ通ってたんや。そういう仕事が回ってきたらいつでも手あげれるようにな』
『役者というのは本当に多様なスキルが求められるんだね』
『まあな。ここにきてこんな形でそれが役に立つとは思わなかったけど』
『君なら本当に、このままうまく雲隠れしてしまうんじゃないかという気がしてきたよ』
『できるならそうさせてもらうつもりや。けどまあその前に、もうちょっと情報収集がいるけど』
この世界に召喚されて半年。
彼は皇族の監視下に置かれ、皇帝として振舞うことを強要されていたが、同時にそれは庇護を受けていたということでもある。鳥籠は温室の中にあった。衣食住は保証され、この世界の常識をなにひとつもっていなくても生きていくことができた。
その温室から脱したいま、彼を守るものはなにもない。
皇帝としての職務をこなすうえでいくらか培われた知識はあるものの、それにはひどく偏りがあり、この世界をその身一つで渡り歩いていこうと思えば赤子も同然といえる。
『二度と朝廷に戻らないわけじゃない』
彼は脱走前、そう僕に語った。
『なにしろオレはまだ時間跳躍術を覚えてないからな。脱走できても七年後に世界が終わるんじゃしかたない。いつかは戻って、しっかり術をものにして、世界を救ったらなあかん。けどだからって七年もあいつらの言いなりでお利巧さんする必要はない。これはいわば下見や。オレは世界を救った暁には必ず自由の身になる。けどただ脱走しても、すぐに露頭に迷うやろ。見た目はいくらでも誤魔化し効くから、皇帝であることは伏せられても、この世界でどうやって家やら仕事やら生活基盤作るのか、いまのオレには皆目見当もつかん。オレはこの世界のふつうを知らんからな』
もっともな意見だった。
僕らが持つこの世界の情報は極めて限定的だ。僕らは皇族以外との接触を許されておらず、この世界の文字を読むこともできない。統治者である皇族からもたらされる情報がどこまで正確なのか、その比較対象すらないのが現状だ。
彼が皇族のもとを離れて生きていくためには、まずこの世界の普遍的な人のありよう、価値観を学ばなければならない。
りんご一つを買うのにどれだけの労働が必要なのか?家を借りるために必要なものは?平均的な市民の一日のスケジュールは?どのような振る舞いが好まれ、なにをすると嫌われるのか?差別や格差はどれほどのものなのか?
彼はこの脱走で、そういったこの世界の常識を得ようとしていた。
『神輿の上からじゃわからんことがたくさんある。朝廷抜け出したあとでどうやって生きていけばいいのか、この世界でオレがオレとして生きていくためにはなにが必要なのか、いまのうちに目星をつけておきたいんや』
こう力説されては、僕も強く反対することができなかった。
逃げた先でどんなトラブルに見舞われるかわからない。捕まったあとで酷い折檻を受けるかもしれない。懸念は尽きなかったが、彼の求めるものには確かにリスクを冒す価値があった。
それに僕は嬉しくもあった。
この世界にきたばかりのころ、彼は絶望に打ちひしがれ、未来に対してどのような希望も抱いていなかった。それが今では、自ら将来に夢を見出そうとしている。
僕はそれが自分のことのように嬉しかった。彼からこの世界に来る前の、すでに終わった人生の話を聞くのも楽しかったが、これから先の、まだ見ぬ人生への展望を聞くのはもっと楽しかった。
それに彼は、そこに僕がいるものとして話をしてくれるのだ。
僕はそれが本当に嬉しかったし、だからこそ、彼に僕のこの二度目の人生がすでに折り返しを過ぎていることを、ますます告げられなくなってしまった。




