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第二話 英雄が生まれた日 ③


 ノアにはたくましく見えた少女の身体は軽々と宙を舞い、地面に強かに身体をぶつけて転がる。


 その拍子に刀が少女の手を離れ、ノアの元に転がった。

 

「あ……わ……!!」


 魔獣が獲物の容体を確認するように少女の上を旋回する。背が高い草に阻まれてノアからは少女の姿は見えず、ただ銀色の冷たい光を放つ刀が転がっているばかりだ。

 

 少女の声は聞こえない。だがノアの目には少女の生気とも呼べるものは漂って見えた。


 まだ彼女は生きている。窮地に陥ったノアを颯爽と助けた、物語の中のような英雄はまだ生きている。そんなとき、英雄を見ていた語り手たちは、市民たちは何をしていたか、ノアはすぐに思い出した。

 

「ま……負けないで!! 騎士さま起きて!!」

 

 生まれて初めて絞り出した大声にノアの身体は驚いて腹筋が痙攣した。村でだって本を取り上げられた時でもここまでの声を張ったことはない。


 けれど小声では魔獣の羽ばたく音にかき消される。倒れ伏した英雄が立ち上がるきっかけになるのは、どんな騒音にも負けない声援だ。それをできるのは自分しかいないとノアは本を抱きかかえてあらん限りの力で喉を震わせた。

 

「勝ってよ、騎士さま!!」

 

 ふわりと少女の生気の気配が変わった。


「ギギィッ!!」


 狙いを定めた魔獣が一気に急降下する。

 

「……ははッ」


 しかし鋭い嘴が食んだのは、柔らかい少女の肉ではなく硬い地面と苦い土だった。

 

 ふわりとノアの視界に赤が舞う。

 

「そう言われちゃ負けられないよね」


 少女はノアを振り返って快活に、溌剌と、勝ち気に微笑んだ。髪と同じ赤い瞳が赤いまつ毛に彩られた瞼に覆われる。

 

 ノアの足元に転がっていた刀を拾い上げた少女はゆったりと魔獣と対峙した。無駄に力んでいるようにも見えないのに、その構えに隙はない。


 少女の背中は物語で見たような歴戦の英雄そのものだった。その逞しさにノアは胸を高鳴らせると同時に、思いついた。

 

 ————今こそ魔法を使う時だ。

 

 魔獣を倒すには魔法が不可欠だ。だけど弱っちいノアの魔法では魔獣をどうこうするだなんて考えられなくて、せいぜい水を浮かせたり木を割ったりできる程度だ。けど今ならできる気がする。


 目の前の英雄の活躍を最高に盛り上げる、そんな文章を。

 

「あの魔獣は目はどこについてる……?父さんはたしか……」


 少女は魔獣の元となった動物の生態を分析しようと呟く。ノアは少女の知識を知らない。だがこの季節によく見る渡り鳥のことをノアは図鑑で見てよく知っていたし、ノアは、目の前の英雄ならばその知識を当然知っていて上手く活かして戦えると信じた。

 

 少女が地面を蹴る。同時にノアは持っていた小説を広げた。


「【『緋色の騎士』は軽やかに宙を舞い、敏捷な獣のように木々を蹴ると一瞬で魔獣の背後に回った】——!」


 小説の余白に殴り書いた文字は魔力を帯びると赤い文字となって少女に絡みつく。ノアの魔力は少女の動きは決して邪魔せず、しかし浸透したとたんに少女の動きのキレが変わった。

 

 少女はノアが記した通りに魔獣へと迫る。


「ギッ」

「遅い!」


 魔獣は回避行動を取ろうとしているように見えた。だがノアの想定以上に少女の足は速く、魔獣の死角に一瞬で回り込むと大上段に切り掛かる。白銀に輝く刀が魔獣の脳天を正しく捉え、叩き割った。

 

「ギギギギィ……!!」


 魔獣の体からタールのような体液がこぼれ、周囲を汚して蒸気を上げる。赤色に興奮して白く爛々と輝いていた瞳から色が消え、魔獣は力なく地面に落ちた。

 

「やった……! すごい、すごい!!」


 樹の枝に立ち、魔獣が動かないことを確認したリゼは快勝を告げるように拳を振り上げる。その姿はノアが物語の中で何度も夢に見ていた英雄の姿そのもので、ノアは見守っているだけだったのに歓声を上げた。


「おわ」

 

 だがその顔が急に逸れる。足元に垂れた魔獣の体液で、リゼは樹から足を滑らせていた。バランスをとるように手が振り上げられるが、もう身体は大きく傾き頭が落ち始めていた。あの高さから真っ逆さまに落ちれば、大人であっても助からない。


 そう理解するや否や、ノアは即座にペンを走らせていた。

 

「【柔らかい風が吹いた。風は騎士の身体を後ろから持ち上げ、優しく地面におろした】……!!」

「!」


 ノアが書いた文字が赤く光ると同時に、落下する少女の身体に風が纏わりつく。風はその柔らかさとは裏腹に少女の身体をしっかりと支え身体の向きを整えると、少女の足をそっと地面につけさせた。

 

 ふわりと赤い髪が風に遊ばれて舞う。ぱちぱちと赤い瞳を瞬かせて少女は驚いたようにノアを見つめていた。


 

「リゼ、とどめは確認したか?」

「わっ誰!?」


 急に上から降ってきた声にノアは驚愕した。見上げると、大木と見紛うような大男がノアの後ろに佇んで少女を見ていた。目を引く夕陽色の髪に淡い水色の瞳、無表情ながらも整えられた顔立ちなのに、真後ろに来るまで気配どころか足音すらしなかった。

 

「父さん!」


 少女が顔を明るくする。だが父親と呼ばれた大男はそれに対して表情を変えずに顎をしゃくって魔獣が落ちた方を示す。少女はすぐに顔を引き締めるとガサガサと音を立てて草むらの中に消えていった。


 ノアの角度からは少女が何をしているのか見えない。ただ生き物が息絶える鈍い音に耳を澄ませていた。


 ほどなくして、少女は魔獣を引き摺りながら草むらから顔を出した。今度こそ達成感に溢れた薄い微笑みを浮かべていた。

 

「よし、そいつをかせ。他の奴が寄ってこないように血抜きする」

「はーい。見てて良い?」

「ああ」

 

 上空にいた時には獰猛で巨大に見えた魔獣は、少女の手によって屠られた後では随分と小さかった。大男は少女から魔獣を受け取ると地面に穴を掘り始めた。魔獣よけのための仕掛け作りだろう。


 大男がしゃがみこんで黙々と作業するのを少女は肩からじっと覗き込んでいた。動物を捌くなんて恐ろしいこと、ノアなら目の当たりにした瞬間に卒倒する自信しかないが少女は怖気付いていない。なんと逞しいのか。

 

「鳥はここから刃を入れてやれば首が落としやすい」

「鳥なら大体同じ?」

「大きさが違っていても骨格が一緒なら大抵はそうだ。魔獣だからといって身体の作りが違うわけじゃない」


 よく見ると少女はノアとそう年が変わらないように見えた。それなのに家で縮こまって本を読んでいるだけのノアと比べて、勇ましく好奇心旺盛だ。そして窮地に陥ったノアを助けてくれた。いつも意味のわからないことを言って眼鏡ですら揶揄ってきた村の子供達と何もかもが違う。

 

 颯爽と飛び出して魔獣を軽々と弾き飛ばした様子はあまりにも鮮明にノアの脳に焼きついた。まさにノアが大好きな物語に出てくるカッコいい英雄そのものの姿だった。

 

 

「ねぇ、応援していろいろと助けてくれたのは君でしょ? ありがとうね!」


 

「へっ」


 そんな英雄が、腰を抜かしたままのノアに手を差し伸べた。

 快活に、溌剌と、勝ち気な笑みを浮かべて。

 

「……ほんとに、いるんだ」

「ん?」


 泣きそうになった。

 

 ノアが知る狭い世界には、正しいことしか言わない嫌な奴しかいなかった。見ているだけで胸が躍って、憧れて、惚れ惚れするような、そんな英雄は御伽話の中にしかいないとずっと思っていた。だからノアはずっと一人で小説の世界にのめり込んでいた。そんな辛い現実を直視したくなかったから。


 けれど本当にいたのだ。それも、その英雄が自分の事を認識して、助けてくれた。

 

 それはノアの夢そのものだった。

 

「うーん? えー、っと、私はリゼ、っていうんだ。君の名前は?」

「……ノア。ノア・バウアー」

「そっか。よろしくね! ノア」


 手を伸ばすと、リゼは力強くノアの手を握って引き起こしてくれた。

 

 リゼの手は剣だこだらけで、でも刀を握るためか手入れが行き届いていて滑らかで、そして暖かかった。


 

 村に戻っても、ノアは親に勝手に森に入ったことを怒られても、忠告していたロルフに蔑みの目を向けられても、全く気にならなかった。


 握った手の感触がずっと忘れられなかった。


 

 御伽話じゃない、現実の世界にもあんな英雄が本当にいるんだ。


 あんな英雄が僕に話しかけて、笑いかけて、手を差し伸べてくれるんだ。


 こんな素敵なことを僕だけが独占していいんだろうか。


 

「……へへ」


 大切な小説に殴り書いた自分の字をなぞる。


 余白といえど自分の大好きな小説が汚れるのをノアは嫌っていた。自分で書いたものでも普通は嫌だ。だからこそいじめっ子たちから隠れて、一人で丁寧にこっそりと本を読んでいたのだ。

 

 けれどこの殴り書きは違う。魔獣は倒せない頼りない魔法だけど、ノアがあの英雄の力になれた証拠だ。こんなに誇らしいことがあるだろうか。作家の直筆のサインだって嬉しいが、これはその何倍もノアにとって価値があるものに見えた。


「明日、会いに行っていいかな」


 地主のロルフの家でリゼたちが何か話しているのを盗み聞いたノアは、リゼたち親子が定住する村を探していることを知っていた。大人たちはひとまずは宿で一泊してまた話し合うと言っていた。なら少なくとも明日はリゼがこの村にいる。

 

 何を話そうか考えついた訳ではない。けれど、明日も会えたらこの息苦しい村がちょっとは良いものになる気がした。

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