第一話 『緋色の騎士』 ③
熟れすぎた果物にも似た甘ったるい香りの中で、ノアは天井を見つめていた。死臭とは程遠いその匂いは、野宿が多いノアたちにとっては嗅ぎ慣れない香りだ。
「ちょっとキツイな」
ノアはベッドサイドにかけた自分の上着からハンカチを取り出して鼻を覆った。甘い香りの発生源である女性はノアの隣で安らかな寝息を立てている。彼女はこれを流行りの香水と言っていたが、結局のところ以前嗅いだ女性ものの香水との違いは分からなかった。どれもそういうことの前につける香水だからだろうか。
「さて、忘れる前にネタを残しておかなきゃ」
ずれた眼鏡を鼻に掛け直したノアは二冊の小説を取り出した。一冊はリゼが魔獣との応戦時に開いていたものだ。ノアの魔法が発動するための道具であり、尚且つノアが書き続けている小説のネタ帳だ。そしてもう一つはノアがずっと書き溜めている、リゼの活躍を小説、英雄譚としてまとめ上げたものだ。ノアの旅の目的でもあり、ノアの持ち物で最も年季が入っているものの一つだ。
ノアは魔法用の本に書いた『自分に迫ってきた甘い香水を纏った女性が、間違って睡眠薬入りの水を飲んで昏倒してしまう』というページを飛ばし、今日の出来事の中で小説に使えそうなネタを吟味する。しばらく眺めた後良い場面が思い浮かんだのか、小説用の方にペンを走らせ始めた。
「魔獣の動きの読み方、少し不自然すぎたか……?」
「いやでも、あの場で気づくのは自然なはずだ」
「僕が視線誘導したんだ、動線としては……リゼならできる。ロルフじゃないんだ」
灯りを極限まで絞った暗い部屋の中で、紙にペンが走る音とノアの呟く声が静かに響く。綺麗に着飾った女性はその物音でも熟睡しており、朝が来るまで起きることはなさそうに見えた。
ノアはさっきまで自分が上機嫌に浮ついた言葉を囁いて腰に手を回した女性に見向きもせず、紙に向き直って文字を綴り続ける。
書き連ねるのはリゼと周囲がどんな言葉を交わしたか、リゼがどう動いたか、リゼがどんなことを考えたか、まさにリゼが生きた痕跡だった。
「ああいう少年を助けるのは都合がいいな。リゼに憧れさせやすいし……僕は子供嫌いだけど……いやでも、変に剣の腕に覚えがあるとつっかかってくるか……? リゼならどう答える……?」
ノアは書き続けた。『緋色の英雄』と人々の関わりの記録を詳細に。
「大丈夫だよリゼ。僕らの旅はまだ、続いているから」




