第十話 忘れられなかったこと ④
ただ話していただけなのに、ノアは————僕は、眩暈を覚えた。ふらつく足腰では立っていられなくて、近くの木箱に腰を預けてなんとか格好だけでも立っている姿勢を保つ。
街灯がわずかに差し込むだけの暗い路地裏に佇むロルフはリゼから手を離していなかった。もう指が食い込むほど強く顔を掴んではいないが、指の背でリゼの輪郭を確かめるようにずっと撫でていた。
綺麗に撫でわけた金色の前髪が垂れていて、僕からロルフの顔は見えない。僕が何の行動も書き示していないリゼはずっとぱちくりとロルフを見上げていた。赤い瞳は暗闇の中でも美しく血の色を見せていて、赤い髪は穏やかな風を受けてさらりと揺れている。どこからどう見てもいつものリゼのはずだった。
何故ロルフにはバレてしまったのだろう。僕は誰よりも近くでリゼを見てきた。誰よりもリゼを理解しているはずだった。僕が描くならばそれが正しいリゼのはずだった。なのに何故。
「辛かったよな、苦しかったよな、やりきれなかったよな、悔しかったよな。……リゼ」
「ん」
ロルフはリゼの肩を引き寄せるとその身体を抱きしめた。急にやったものだからリゼの肺が押し潰されて音が漏れる。何をしているんだろうか。
意味がわからず眺める僕の目の前で、ロルフは一度リゼの顔を撫でた後、急にリゼを抱え上げた。僕が何も書いていないリゼはされるがままに横抱きになってロルフに体重を預けている。
「は……、おい何してるんだ!?」
「帰るに決まっているだろ。お前の頼りない腕でリゼを抱えられるとも思えない。俺が抱える」
「帰るって……」
「リゼには家がある。ハーヴィーさんが、父親がいる。遺体を家に帰すのは当たり前のことだろ」
「か、勝手にリゼを遺体にするなよ!」
「死者を弄んでいるのはお前だろうが!」
リゼは不思議そうにロルフを見上げていた。僕に引けを取らないほど手足の長いリゼをロルフは落とさないように腕に力を込める。
「お前だって自分が正しくないことぐらい分かってるだろ? お前一人が村から離れることもリゼの何かを書くのも俺は止めない。……だがもうリゼを解放してやれよ。リゼはお前の玩具でも絵本に出てくる都合の良い英雄でもない。一人の人間なんだよ」
ロルフが言わなくたってそんなこと知っていた。僕が正しくないことぐらい分かっている。知っている。いつだってロルフは正しくて、僕は間違っている。
死者を静かに弔うのが正しい。遺体は帰るべき場所に帰すべきだ。リゼは……喧嘩が強くて魔法が使えるけど、普通に誰かと恋をして、普通に村で平和に暮らしているべき女性だったのかもしれない。
僕があの日リゼを英雄だと言って祀りあげなければ、あの日僕が森でリゼに助けられていなければ、あの日僕がロルフの言う通り村で大人しく過ごしていれば……リゼには英雄としてじゃない、普通の女性として過ごした日々があったはずだ。
でも、じゃあ。
あの日、僕と出会ってからもずっと父親の元で戦う訓練をしていたリゼの日々は間違いだったんだろうか?




