第十話 忘れられなかったこと ③
「……あれ?」
ひどい耳鳴りがいつの間にか止んでいたことにノアは気づいた。
辺りを見回そうとして、自分が派手にすっ転んでいたことにも気づいた。聴覚を揺さぶられたことで平衡感覚が鈍って転倒したのだろう。リゼに比べるとノアは運動神経がなく、この手の攻撃に弱かった。
「あ、魔獣が倒れてる」
身体を起こすと、洞窟の遠くに魔獣が肉塊になっているのが見えた。この魔獣は厄介なことに物理攻撃だけじゃなくて咆哮を上げることで聴覚経由で脳を揺さぶってくるという攻撃も仕掛けてきた。肉体強化がろくにできないノアはその攻撃をモロに喰らい、耳鳴りに苛まれて今のいままで気絶していたのだ。
しかし魔獣は倒れている。ということは。
「あ……っ! リゼ!!」
想像よりも近くにリゼは倒れていた。辺りには血の海が広がっている。ひどい出血だ。身体強化をできるリゼは出血を最低限に抑えることはできているだろうが、それでもこの量は魔法使いであっても致命的なものになる。
普通の魔法使いであれば、だが。
「待ってろよ、リゼ」
ノアは途中の乾いた血がついた書きかけのページを見て首を傾げ、血で固まった数ページを飛ばして新しいところから筆を走らせ始めた。
「【激闘の末に『緋色の騎士』はかの強大な魔獣を見事に下した。しかしその消耗は凄まじく、なんと僕と感動を分かち合うよりも前にぶっ倒れてしまった。無理もない。英雄といえど彼女も一人の人間だ。しかしここは洞窟の真ん中で寝床とするにはあまりにも不向きだ。こんなところにいるよりも、とっとと宿に戻って熱い湯を浴びるべきだと、僕は彼女を揺り起こしに掛かった】……ねえ、起きてってばリゼ」
ノアは傷については描写しなかった。そんなもの、『緋色の騎士』が魔獣を倒す上で負うはずもないと心底信じきっているからだ。
「起きないな……じゃあ、こうしよう。【さて僕は途方に暮れてしまった。なにせ僕の細腕では『緋色の騎士』の足を引きずることもできない。困り果ててしまった僕が諦めて『緋色の騎士』の隣に寝転ぶと、やっと『緋色の騎士』はゴロリと転がり、「つっかれた〜!」と盛大に身体を伸ばした。快勝の末にでる言葉とはとても思えないが、それが『緋色の騎士』なのだ】……」
歴史にも載るような快挙を目の当たりにしたせいかノアの筆はのりに乗っていた。今までだってリゼの描写に筆を惜しんだことはなかったが、今日はその何倍も筆が走る。書くよりも先に書くべき文章がすぐに浮かぶ。自分が何を書くべきなのかがよく分かる。まるで数日かけてずっとこの描写を考えていたかのようだ。
赤い文字がノアの手を離れてリゼの全身を包む。
「つっかれた〜!」
洞窟になんとも気の抜ける声が反響した。リゼは張り付いて乾いた血を振り落とすと、身体の向きを変えて丸まった。いつものリゼの寝起きの癖だ。リゼは早起きが得意だが、実は少しだけベッドの中で丸くなって朝日に慣れるまで時間をかけることがある。それと同じ癖に、ノアは吹き出した。
「ちょっと、死闘の末に出る言葉がそれなの!? もっとカッコいいこと言ってよ。小説で映える感じのさあ」
「だあって、これが本心なんだもの」
「もうちょっと台詞考えるのに協力的な仲間選んでおくべきだったか」
「何それ、私と旅に出たくなかったって言うの」
「リゼとじゃなきゃ旅になんて出ないよ」
「へへへへ」
いつものように。リゼは白い歯を見せて拳を伸ばした。
いつものように。ノアはそれに拳をぶつける。
いつものように。二人は顔を見合わせて笑った。
いつもはない乾いた血溜まりには目を背けて。
そうやって、『緋色の騎士』は誕生した。




