第十話 忘れられなかったこと ②
ひどい耳鳴りで、自分の呼吸音すら遠かった。無理やり聴覚を引っかき回されたせいで平衡感覚もおぼつかない。洞窟の中は真っ暗で、『僕』が灯したはずの火はいつの間にか消えていた。
けれど僕は進む必要があった。足元が見えなくたって、ふらついたって構わない、一歩でも足を動かして近づかなければならなかった。
なのに足は震えて力が入らず、よろけて強かに身体を打ちつけた。
「い゙……っ!」
口から罵倒が飛び出そうになる。自分でも気づかないうちに口にしてしまっているかもしれなかった。だがそんなことはどうでも良い。僕は早く起きて、駆け寄らなければならないのだ。
起きあがろうと僕は地面に手をつく。じわりと手袋に液体が染み込む感触がした。布地を通して地肌に触れるそれは少し生暖かい。こういう洞窟を走る水は冷たくて体温を奪っていくはずなのに、その水はぬるついて温かかった。
多分僕が怯えて手がかじかんでいるせいだ。そう言い聞かせて、震える喉を叱咤して声を絞り出す。
「リゼ……ねえ、リゼ!!」
ダメだ。こんな掠れた声は勝利に相応しくない。親友がやり遂げたのだから、僕が出すべきなのは快勝を喜ぶ潑剌とした声であるべきで、こんな隙間風のような声ではないはずだ。
「ねえ、リゼ、あいつもう起きないよ。リゼ、リゼ、ねえリゼってば!!」
たかが転んだだけなのに身体中が痛くて、這いずるようにして水溜りに身体を進める。手を伸ばすと、女性のものだけれど逞しい、慣れ親しんだリゼの肩に触れた。
僕は身体を引きずってリゼに近寄り、その肩を揺さぶった。リゼは疲れて寝転がって、今は少し眠いのかもしれない。変な格好で寝ているから腕が僕の知らないところで途切れているんだ。そう自分に言い聞かせて、親友に快勝を伝えるべく声を張る。
「リゼは勝ったんだよ!!」
ぴちょん。
耳鳴りが遠かった耳が地下水が垂れる音を拾った。地下水はずっと目の前の大きな、見上げるほど大きな肉塊を濡らしていた。
黒い鉱山に居座り多くの人を悩ませていた巨大な魔獣は、すでに肉塊となって横たわっていた。
つん、と僕の服から立ち上がった鉄の臭いが鼻をつく。これは鉱山の臭いじゃない。
夥しい量のリゼの血の匂いだ。
魔獣は赤い色のものを見ると興奮し、それに食いつき腹に収める。なぜ魔獣が血のように赤い色を好むのかはまだわかっていない。ただその習性は強烈で、噂ではその習性により魔獣の発生から十日も経たずに滅んだ国もあるというほどだ。
魔獣が好む赤いものは何も人間や動物の血肉だけではない。かつて鉄を採掘していたという黒い鉱山も一歩踏み入れてみれば赤く染まっていて魔獣の獲物の一つとなっていた。
そして当時は誰も知らなかったのだ。
鉱山を餌場にする魔獣は普通よりも発達がよく、強大であり、賢いということに。
「はは、まだまだ元気だなあ……!!」
「グオオオオオォオオッ!!」
赤い壁に赤い床、換気孔で揺れる炎も赤く、リゼの髪も、そして左肩も真っ赤に染まっていた。
大きなトカゲのようにも見える黒い魔獣は、食いちぎったリゼの腕を見せびらかすように振り回し、そして服ごと噛み砕いた。他の魔獣なら一滴残さず舐めとるその血を贅沢に撒き散らす。それだけ食糧に困っていないということだろう。
リゼは魔獣の腹に消えていった自分の腕に、青ざめた唇で乾いた笑いをこぼした。
「全く、少しは味わいなよ」
赤い文字がリゼの肩に走る。引きちぎれた服を染めていた傷口からの出血が、赤い文字と共に少なくなり、やがて止まった。これ以上の失血がないと身体が判断したのか、少しだけリゼの頬に赤みが戻る。だがそれだけだ。
リゼの魔法は傷を塞ぐことはできても、腕の再生だなんてことはできない。そんな医学知識が存在しないならば、魔法でそれを再現することもできないからだ。
「ま、【魔獣の口は確かに『緋色の騎士』の腕を捉えたように見えた。だが、そんなはずはない。なぜならば、『緋色の騎士』はすでに、魔獣の後ろに佇んで鋭い牙を躱していたからだ。そう、『緋色の騎士』は……最強なのだから】!!」
————僕を除いて。
僕が筆を走らせたのと同時に赤い文字がリゼの身体を包み、食いちぎられた左腕の傷口に文字が収束する。それはやがて傷ひとつないリゼの腕となった。
僕の魔法は『小説に書いた事象を具現化する』もの。僕が心の底からそうなると信じて書き起こしたものなら、僕はどんな奇跡だって引き起こせる。僕はリゼならどんなことだってできると、心の底から信じていた。
無辜の民に危機が迫ればリゼなら風のように駆けると信じていた。馬車ほどもある大岩だってリゼなら軽々と抱えられると信じていた。深い湖の中に逃げ込んだ魔獣だって、リゼなら一息で追い縋って戦えると信じていた。実際に全部リゼはやり遂げてくれたのだ。
「ありがと、ノア!」
腕が治ったリゼがまた地面を蹴り、刀を握りしめて魔獣に切り掛かった。牙が揃った大きな口を掻い潜り、硬い鱗の隙間を狙って刀を突き立てる。
リゼは果敢だった。勇猛だった。何度吹き飛ばされても立ち上がり、どれだけ魔獣の唸り声を浴びてもその唇に笑みは絶やさずに地に足をつけて踏みしめていた。その背中は幼い頃に何度も読んだ英雄譚の英雄そのものだった。
「……無理だよ、」
でも、だけど。魔獣の咆哮を聞き続けて揺れる僕の頭は、その背中を正しく映せていなかった。
爪ひとつがリゼの身長ほどもある大きさの魔獣を見たことがなかった。リゼの腕を、足を簡単に食いちぎる魔獣なんて見たことがなかった。すでに致死量を上回っているだろう血が地面に飛び散っているところなんて見たことがなかった。
地面に埋もれるほど激しく叩きつけられるリゼを見たことがなかった。あんなの、一撃で致命傷になるじゃないか。
僕はリゼの背中よりも、現実を見てしまった。誰よりも僕が信じなければいけないのに、僕が紡ぎ続けなければいけなかったのに。
僕はペンを落とした。
「……ノア?」
魔獣の爪とリゼの刀が激しくぶつかり合う音の中で、軽いペンが落ちる音はかき消されているはずだった。けれど聴力を強化していたのか、元々耳が良かったのか、リゼはその音を拾い上げた。リゼが振り返る。
「あ……」
リゼの赤い瞳が僕を映していた。丸眼鏡の奥で情けなく瞳を濡らして、みっともなく震えている僕がリゼの瞳には映っていた。リゼを勝手に崇めて祀り立てて危険な場所に連れ出した、無責任で間抜けで誰よりも弱い僕を、リゼは見据えた。
「 」
リゼが何かを言った。頭が揺れていても、目も耳も機能はしているはずだった。僕はちゃんとその言葉を耳にしたし、口の動きを目にしたはずだった。
けど何も分からなかった。何も覚えられなかった。
ただその後にリゼは笑った。いつものように、白い歯を見せて、快活に、溌剌と、勝ち気に。
そして、リゼは治った手足がまた食いちぎられても、腹を引き裂かれても、悲鳴ひとつあげずに一人で魔獣を倒した。
僕は魔法を使っていない。正真正銘、リゼの力だけで、後の世でも精鋭揃いの魔法使い部隊を要するであろう強大な魔獣をたった一人の力で倒し切った。
僕が何度もリゼに聞かせていた英雄譚の英雄のように。
だから僕は、それを紡いだ人たちのように、偉業を見届けていた民衆のように喜ぶ必要があった。
「リゼ……ねえリゼ、すごかったよ!! あんな魔獣を倒した人は今までいないんだ、本当に君は……リゼは最強の魔法使いなんだ!!」
強く揺さぶるとリゼの髪が顔を滑って垂れた。
眠っているのではないかと勘違いするほどリゼの顔は穏やかだった。唇は薄く微笑み、目は閉じられているものの目尻が下がっている。血の気がないことを除けば、今すぐにでも起きてくれるんじゃないかと、そう願ってしまうほどに。
どうしてそんな顔をしているのか、僕には分からなかった。リゼの親友なのに、一番リゼのことを理解しているはずなのに、どうして満足げに微笑んでいるのか分からない。
死を目前にして最後にリゼが何を言ったのか、なんでいつものように笑いかけてくれたのか。僕には何も分からなかった。
だって僕は自分で英雄に仕立て上げたリゼを最後まで信じることができなかったのに。『リゼは最強だ』だなんて言っておきながら、自分の魔法でリゼを後押ししていながら、最後の最後にそれができなくなった僕に、笑いかけてもらう価値があったんだろうか。
リゼを信じることができない僕に存在意義なんてない。こんな僕の方が死んでしまえば良かったんだ。




