第十話 忘れられなかったこと ①
日が暮れてからの街はガス灯で照らされていた。地下資源の採掘が魔獣によって妨げられている中、石炭もガスも非常に貴重な資源のはずだ。なのにたかが街の灯りのため貴重なガスを使うとは、街はなんと豪華なのかといつものノアならそれぐらいのおべんちゃらを口にしていたはずだった。
だが今のノアはそれをメモに書きつける余力どころか、目を向ける気力もなかった。頼りない足取りでとぼとぼと人気の無い路地裏を歩く。明るい夜はどうにも馴染めず、無意識に街灯を避けていた。
「どこだっけここ……。ああ、そうだ。リゼを迎えに行かなきゃ。博物館ってどこだっけ……」
待ち合わせなど考えてもいなかった。考えずともどうせリゼはすぐにノアを見つけてくれるからだ。
村や今までの旅路とは違って夜なのに明るい場所にいるのはどうにも馴染めないが、明るいところにいればリゼが見つけてくれるだろうか。火に誘われる虫のようにノアは大通りに足を向けた。だがその途中で壁のような何かにぶつかって、ノアは足を止めた。
「いってェな……!!」
前をよく見ていなかったのはノアだが、思わず壁に向かって悪態が出た。整然と並んでいるようで規則性の読めない入り組み方をした街は村育ちのノアにとって歩きにくいことこの上なかった。
だがノアがぶつかったのは壁ではなかった。
「ぶつかっておいて出てくる言葉がそれか。良いご身分だな、文筆家とやらは」
暗闇に溶け込むようにして立っていたのはロルフだった。金髪碧眼に、蒸気機関の時代ですら珍しかったであろう鎧で全身を包んでいるという容姿にも関わらずロルフは目立たない。ロルフが使う魔法のせいで装備品を認識しづらいのだろうか。だがそんなことはノアにとってどうでも良かった。
「……チッ、ロルフかよ。おい、なんでリゼと一緒にいないんだ。リゼは? 宿を取ってくれてるのか?」
「そのリゼのことで話がある」
「僕はお前と話すことなんかないよ。リゼ〜! どこにいるの〜?」
いつもならリゼは示し合わせたようにノアの呼びかけで顔を出すはずだった。ちょうどノアが振り向いた瞬間に後ろにいていつものように笑っているだとか、悪戯のように路地裏から急に出てきて脅かしたりだとか、そんな風に顔を出すタイミングを見計らっているはずだ。
だが、ノアの声に応じる溌剌とした笑い声はない。暗い路地裏にノアの低い声が虚しく響く。
辺りを所在なく見渡すノアの首をロルフは掴んだ。
「リゼはこっちだ」
「ンだよ……リゼの居場所知ってるなら先に言えって」
唇を尖らせたノアはロルフを丸眼鏡越しに睨み上げた。細いノアに凄まれたところで怯むこともないロルフだが、ノアの表情に片眉をあげた。
「お前、リゼがいなかったらそんな口の利き方だったな。リゼのひっつき虫だったから久しぶりに聞いたぞ」
「親友とそれ以外で対応変えるのは当たり前だろ。僕はお前が嫌いだし。お前だって僕のことが嫌いだろ」
「よく分かっているじゃないか。お前の観察眼は節穴かと思っていたが」
「はあ?」
ノアは辺りの空気が冷えたような錯覚を覚えた。いつも仏頂面だが、特に機嫌が悪い時のロルフは周囲の空気をひりつかせることがある。
「俺はお前が嫌いだな。……縊り殺したいぐらいには」
背筋を駆け上がった寒気に、反射的にノアは逃げようとした。
「ぐえっ」
だがロルフに襟を掴まれているので叶わない。解こうともがくも、ロルフとノアでは腕の太さから違う。片腕でノアを掴み上げてもびくともしない体幹にノアは内心で強くリゼを呼んだ。
「はいはい、そこまで」
まるで示し合わせたように、ひらりと赤色が広がった。
リゼはロルフの籠手を掴んでいた。ノアがもがいたところでびくともしなかった太い腕は、今度はリゼの手でがっしりと動きを止められている。
「ノアの口も悪かったけどさ、一旦手を離してよ。ロルフならわざわざノアを抑えてなくても余裕で勝てるでしょ?」
「リゼ……!! なんかめっちゃ余計なこと聞こえたけど来てくれたのか!」
「ずっとそこにいたって」
「え、じゃあもっと早く助けてくれたっていいじゃないか」
「私が親友を見捨てる甲斐性なしだって?」
「そこまでは言ってないよ自慢の親友だよ」
「へへへへへ」
リゼが視界に現れた途端にくるくるとノアの口は回り出した。台本でもあるかのように小気味よく二人は掛け合うと、顔を見合わせていつものように笑う。
「茶番は楽しいか?」
だがロルフはいつまでもノアの襟を掴んだまま離さなかった。
村にいた頃からロルフとノアの小競り合いはよくあることだ。ロルフの小言にノアが食ってかかり、力で勝てないくせにロルフを怒らせ、ノアの泣き声を聞いたリゼが二人の仲裁に入る。それがいつものことだった。
だが今日はリゼが宥めてもロルフは引かない。引きちぎるんじゃないかと思うほど強くノアの襟を掴み、ノアを冷え冷えとした目で見下ろしている。歪んだ青い瞳はノアが抱える小説————ノアが魔法を使うときに使っている本に落とされていた。
「はあ? 何言って……」
ロルフの手がノアの襟から離れた。その手はリゼの手を振り払い、ノアの手からペンと本を取り上げる。
「あッ……いてっ、やめろ、返せよ!!」
あまりの勢いにノアは無様に地面に尻餅をついた。
「はッ。リゼの親友を豪語しておいて、受け身の一つも取れないのか。リゼの動きを見て学んでいないのか?」
「……うるせえな、こちとら文系なんだよ!!」
ロルフの挑発にノアは飛び起きるが、その直後に胸を蹴られてまた地面に転がった。手加減されているのか呼吸はできるが、2度も転んだせいで強かに打ちつけた尻や腰が痛む。
だがそれについて不満を漏らすには、ロルフの視線はあまりにも冷たくノアは口をつぐんだ。
「見ていなかったんだろ、なあ」
蹴り転がしたのはロルフのくせに、その声は絞り出したように掠れていた。
「節穴め。リゼの親友と宣うならば、一挙手一投足を覚えておけよ」
「なに言って……」
「ちょっとロルフ、やりすぎだって」
リゼがロルフの腕を掴んで止めようとした。ロルフの視線を遮るようにノアとの間に割って入ろうとする。
「うるさい!」
そのリゼをロルフは力一杯振り払った。
あまりの怒声に大気が震える。遠くのどこかで、窓を開ける音がした。
ノアよりは体幹の強いリゼはロルフに押し除けられたところで、軽くよろけるだけだった。驚いた表情をしているものの危なげなく姿勢を戻す。
だが対照的に、突き飛ばしたのはロルフのくせに、ロルフの表情は苦虫を噛み潰したような顔だった。いつも仏頂面か外向けの胡散臭い笑顔しか見たことのないノアは、身を斬られたような悲痛な表情のロルフを初めて見た。
ロルフは俯いて、金髪の奥に青い瞳を隠した。もう表情はノアからは見えない。ロルフはノアから取り上げた本、フィンに見せたのとは違うメモ書きや魔法を使うときに使う方の本を開いて数ページ捲り、乾いた笑い声をあげた。
「【話しかけてきた金髪の青年を見て、『緋色の騎士』は顔を明るくした】【なんということだ。『緋色の騎士』は僕をそっちのけで金髪と博物館に行こうとする】……か。ははは、お前、ここまで行動を読んでいたのか?」
「おい、返せって!!」
ノアが手を伸ばすがロルフは最低限の動きだけで躱す。すっ転んだノアは身体を起こしてまた本を取り返そうとしたが、今度は片腕でロルフに抑え込まれてしまった。もがいたところでロルフの腕からは逃れられない。
リゼはそれを呆然と見ていた。ロルフに突き飛ばされた姿勢のまま、黙り込んで二人の揉み合いを見ている。
もうリゼが仲裁に入ることはなかった。
「いや流石に違うか。リゼに会話を主導させれば俺が乗ると判断したのか。そこはよく観察してるじゃないか。……お前、詐欺師に向いてるんじゃないか」
「いい加減にしろ、やって良いことと悪いことの区別もついてないのか!?」
「区別がついてないのはお前だろうが。……いや、自覚がないのか」
「は……?」
「タチの悪いことを。非道なことをしている自覚があるならせめて完璧にこなしてみせろ。リゼに拳銃を蹴らせるだなんて愚行を犯させるな」
ロルフの言葉の意味がノアは理解できなかった。自覚とは、何のことだろうか。リゼに『蹴らせる』だなんて、それではまるで、ノアがリゼを操っているような言い方ではないか。いくら魔法が使えるからといって、ノアの魔法は支援だけで、『リゼならできる』と信じたことを可能にするだけの魔法で、そんなことはロルフも知っているはずなのに。
ロルフは粗雑にノアの本とペンを投げ捨てた。ノアは大急ぎで拾い集める。
地面を這うノアを見向きもせずに、ロルフは突き飛ばされたまま固まっているリゼの顔を掴んだ。ロルフの籠手がリゼの柔らかい頬に食い込むが、リゼは顔色を変えず赤い瞳できょとりとロルフを見上げていた。
「リゼ、操られていないのならなんとか言わないのか。いつもみたいに俺たちの仲裁に入ってみろよ」
「……?」
ロルフの手の中でリゼは首を傾げる。赤い瞳が見上げる先の青い瞳はわずかに潤んでいた。
「いつもみたいに、俺の腕に絡んで引き剥がせよ。お前は……リゼは、俺がリゼには弱いって分かっているだろ? お前は全部……俺のことだって分かった上でやってたんだろ?」
意味が分からない。いつもみたいにとは、どういうことだろうか。
ノアは記憶を辿る。ノアとロルフの口喧嘩やいがみ合いは良くあることで、村の子供の中でも体格が一番良かったロルフの腕を引き剥がせるのはリゼぐらいで……リゼはいつも、ロルフの腕に抱きついて引き剥がしていた。だって力ではそれなりに均衡が取れるといえど身体の大きいロルフ相手では、リゼの体格では胴に腕を回してどうこうするには限度があった。だからリゼはいつもロルフの腕を引っ張っていた。
そういえばロルフはどんなに激昂していても、リゼに腕を引かれれば押し黙っていた。ノアはずっとそれを力では拮抗するリゼが出てきたのではロルフの分が悪いからだと思っていたが、もしかしたら。
「リゼはどこにいるんだ」
「何言って、」
「とぼけるな。あの村で育った、俺の姉弟子の、……リゼ・ヴェーアマンはどこにいるんだ」
語気は強かった。そんな言い方をしなくたって良いだろと不貞腐れたくなるぐらい、いつもロルフの言葉はつっけんどんで嫌な響きがある。
けれどその声はあまりにも小さかった。いつも大きくて無駄に響いてノアを萎縮させていたあの声と同じはずなのに、ともすれば聞き逃してしまうほど掠れて頼りない声だった。
ロルフはきっと察している。受け入れたくない現実があることを、心のどこかで嘘であってくれと願っていても、ノアよりもよく見据えていた。
現実とは一体なんだ。
つんとノアの鼻を鉄の臭いが刺した。ここは街中だ。魔獣もいなければ怪我人もいない。だからこれは現在のものではない。
でもノアの記憶には嫌というほど染み付いているものだ。
————リゼの死体から溢れていた血の臭いだ。




